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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(174)

「天武紀・持統紀」(89)


「大化改新」の真相(12)
「品部廃止の詔」をめぐって(1)


 「品部廃止の詔」は他の詔勅とはガラッと違う文体で、おかしな文章という印象がある。『東国国司発遣の詔」をめぐって(3)』の末尾に「品部廃止の詔」の現代語訳を掲載したが、この詔勅は読下し文を使って検討しなければならないと思った。

 読下し文を読む前に「品部」のことを調べておこう。近畿王朝の正史である『日本書紀』・『続日本紀』での出現は意外と少ない。それぞれ二件ずつしかない。

 『日本書紀』では「品部廃止の詔」の他に「垂仁紀」(垂仁39年10月条)に一回現れるだけである。しかも「一云」という分注である。

冬十月、五十瓊敷命(いにしきのみこと)、茅渟(ちぬ)の菟砥川上宮(うとのかわかみのみや)に居しまして、剱(つるぎ)一千口(ちぢ)を作る。因りて其の剱を名(なづ)けて川上部(かわかみのとも)と謂ふ。亦の名は裸伴(あかはだかとも)〈裸伴。此をば阿箇播娜我等母と云ふ。〉と曰ふ。石上神宮(いそのかみのかむみや)に蔵(をさ)む。是の後に、五十瓊敷命の命(みことおほ)せて、石上神宮の神寶(かむたから)を主(つかさど)らしむ。〈一(ある)に云はく、五十瓊敷皇子、茅渟(ちぬ)の菟砥(うと)の河上に居します。鍛(かぬち)名は河上を喚(め)して、大刀一千口を作らしむ。是の時に、楯部(たてぬひべ)・倭文部(しとりべ)・神弓削部(かむゆげべ)・神矢作部(かむやはぎべ)・大穴磯部(おほあなしべ)・」泊橿部(はつかしべ)・玉作部(たますりべ)・神刑部(かむおさかべ)・日置部(ひおきべ)・大刀佩部(たちはきべ)、幷せて十箇(とを)の品部(とものみやつこら)もて、五十瓊敷皇子に賜ふ。其の一千口の大刀をば、忍坂の邑(へき)に藏む。然して後に、忍坂より移して、石上宮に藏む。是の時に、、乞(こは)して言(のたま)はく、「春日臣の族、名は市河(いちかは)をして治めしめよ」とのたまふ。因りて市河に命(みことおほ)せて治めしむ。是、今の物部の首(おびと)が始祖なり。〉

 本文の説話は『古事記』とほとんど同じである。本文と『古事記』では五十瓊敷命が石上神宮の宮司になっているが、「一に云はく」では「市河の命」であり、その人物が「物部氏の始祖」であると言う。

 この説話は明らかに九州王朝の史書からの盗用記事ある。このように断ずる根拠は2年ほど前に書いた『「七支刀」補論』にある。必要な部分だけ簡単におさらいすると、次のようである。

 奈良の石上神社にある七支刀のもともとの持ち主は福岡県瀬高町太神(おおが)にある「こうやの宮」の主(七支刀を贈られた倭王旨)である。「こうやの宮」の背後には良大社がある。倭王旨はその良大社の祭神(玉垂命)と同一人物である。現在の「こうやの宮」は小さな祠だが、往事は立派な王宮殿だったはずだ。そして「こうやの宮」の正式名称が「磯上物部神社」なのだった。

 現在、石上神宮を「いそのかみじんぐう」と呼んでいるが、その読みは「「磯上神社」にこそふさわしい。物部氏も、もともとは九州王朝内の有力な氏族であり、大和の物部氏はその支族であったと考えられる。

 上の説話で「十の品部」の中に「…部」よいう部名があるのが目に付く。かなり古い時代の説話と思われる。五十瓊敷皇子に「十の品部」を与えたのは勿論九州王朝の大王(そのころはまだ天子を名乗っていなかった)である。

 『日本書紀』に出てくる「品部」はこの「垂仁紀」と「品部廃止の詔」だけ。『古事記』には「品部」はない。701年以前は近畿王朝では「品部」という用語は使われていなかったのかもしれない。ちなみに「伴造」が使われているのは『日本書紀』だけであり、『古事記』にも『続日本紀』にもない。『日本書紀』では「伴造」は35回使われているが、九州王朝史書からの盗用記事だらけの「孝徳紀」に集中している。「孝徳紀」以前12回、「孝徳紀」20回、「孝徳紀」以後3回である。「伴造」も九州王朝だけが使用した用語かも知れない。「伴造」が使われている記事はすべて盗用記事ではないかと言いたくなる。(そのうち調べてみようかしら。)

 さて、〈大系〉は補注で「品部」を次のように説明している。

「品部は、それぞれの職業にたずさわるいわゆるトモをさす場合と、そのトモを扶養する農民としての部民をさす場合とがある。訓のトモノミヤツコにも、品部を管掌する伴造と、右のトモそのものをさす場合とがあり、後者は令制の伴部をトモノミヤツコという例(職員令典鋳司条、集解の一説に「自余諸司伴部等皆直称友造耳」)から推せられる。ここはいずれの意味にもとれるが、訓読者はトモの意味にとっているわけである。」

 「後者は」以後の文章が私には理解できない。典型的な悪文だ。なんとか読み取ってみると、「品部」のもともとの意味は「職業集団」をさす場合と「職業集団を扶養する部民」をさす場合がある。「品部」を「トモノミヤツコ」と訓じることもあるが、この場合は「トモそのものをさす場合」と「品部を管掌する伴造」をさす場合がある。そしてここでは、「トモノミヤツコ」と訓じているが、ここでの意味は「トモそのもの」である。このように言っていると思う。

 私は「井の中」の学者たちの論理に首を傾げることが度々ある。この場合もその典型である。「垂仁紀」の「品部」の意味解明に後代令制(職員令典鋳司条)の解釈(集解)を論拠としている。もう一つある。「品部廃止の詔」では「品部」を、「とものみやつこ」ではなく、「しなじなのとものを」と訓じている。そして頭注では
「一般に部を総称する語というが、品部は職業部をさすとみるのが妥当。」
と述べている。「一般に部を総称する語」と、誰がどこで言っているのだろうか。少なくとも上の補注にはそのようは解釈はない。また『日本書紀』では「品部」はこの二例だけである。何を根拠にこのように読み分けているのだろうか。

 私は「品部」を、漢字変換にも便利なので、「しなべ」と読んでいる。『続日本紀』には「品部」が二例あるが、なんと、そのうちの一つは「しなべ」と訓じられている。もう一例は「ともべ」である。次に『続日本紀』の「品部」が現れる記事を掲載しておこう。

721(養老5)年7月条
庚午(25日)、詔して曰はく、「凡そ、霊図(れいと)に膺(よ)りて、宇内(くにのうち)に君として臨みては、仁(めぐみ)、動植に及び、恩(うつくしび)、羽毛に蒙(かがふ)らしめむとす。故、周孔の風(わざ)、尤も仁愛を先にし、李釈の教、深く殺生を禁(いまし)む。その放鷹司(はうようし)の鷹・狗(いぬ)、大膳職(だいぜんしき)の鸕鷀(う)、諸国(くにぐに)の雞(にはとり)猪を悉く本処に放ちて、その性(しやう)を遂げしむべし。今より而後(のち)、如(も)し須(もち)ゐるべきこと有らば、先(ま)づその状を奏して、勅を待て。その放鷹司の官人、并せて職(しき)の長上(ちやうじやう)らは且(しまら)くこれを停(とど)めよ。役(つか)ふ品部(ともべ)は並に公戸に同じくせよ」とのたまふ。

 ここの「品部」について、〈大系〉は補注で次のように解説している。

「古くは朝廷に所属した部民の種で、職業部や名代などからなり、伴造に率いられて物資や労働力の提供を行っていたが、律令制形成過程で再編成され、雑戸とともに官司に配属され、種々の手工業品の製作や特殊技能を必要とする任務に就いた。身分的には雑戸より隷属度が弱く、一般公民と殆ど変わらない。職員令集解古記・令釈に引かれている官員令別記に品部の戸数や職務が規定されており官司ごとの品部を示すと、(中略)となっている。これらはいずれも京畿とその周辺に居住し、決められた数量の製品を貢納するなり、一定期間上番し役務に従った。賦役令19では品部を課役免とするが、品部としての服務状態により課役免であったり、調免・雑徭免等さまざまであった。奈良時代には雑戸の解放と同様に品部の解体がすすみ、養老5年7月の放鷹司の鷹戸の停止はその嚆矢である。天平宝字3年9月戊寅には「世業相伝者」を除き全品部を公戸に混入し、延喜式にみえる品部は鼓吹戸のみで、公戸のうちより定める借品部である(兵庫寮式鼓吹戸条)。」

 冒頭で701年以前の「品部」を次のように解説している。
①朝廷に所属した。
②職業部や名代などからなる。
③伴造に率いられた。

 「品部廃止の詔」によると、「臣・連・伴造・國造」なども「品部」を所有していたようだ。「垂仁紀」の記事にみるように、もともと朝廷に所属していたものを、王族や豪族に下賜していったのかも知れない。②は『日本書紀』の頭注が「一般に部を総称する語」と言っていることと同意か。これが「定説」なのかも知れない。ここまできて、私は九州王朝での「品部」は「職業部とそれを扶養する部民」を総合した呼称とするのがよいと思った。

 上の補注に書かれている「天平宝字3年9月戊寅」の「品部」が『続日本紀』のもう一つの例である。

759(天平宝字3)年9月条
戊寅(15日)、乾政官(太政官のこと)奏すらく、「百姓(はくせい)調を輸(いだ)すこと、その価同じからず。理(ことわり)、折中して以て賦役を均しくすべし。また、品部(しなべ)を停(とど)め廃(や)めて公戸に混(まろか)し入れむ。その世業を相伝ふる者は、この限に在らず。伏して天裁を聴かむ」といふ。奏するに可としたまふ。

 「百姓」に「おほみたから」というようないやらしい訓を付けることをやめている。おかしな「和語」による訓読がなくなり、文章自体も漢文らしく洗練されてきているように思う。ここの「品部」には脚注が付いている。

「諸官司に配置され、手工業品の製作などにあたる人々の集団。天平16年2月の雑戸の停廃をうけ、品部についても特殊な身分とすることを停めたもの。」

 これは養老律令下の「品部」の説明であり、上の補注の説明とも合致している。

 さて最後に、目下のテーマである「品部廃止の詔」を読下し文で呼んでみよう。

 秋八月の庚申の朔癸酉に、詔して曰はく、
「原(たずね)れば夫(そ)れ天地陰陽、四時(よつのとき)をして相亂れしめず。惟(おもひみ)れば此(これ)天地(あめつち)、萬物(よろづのもの)を生(な)す。萬物の内に、人是最も靈(くしひ)なり。最も靈なる間に、聖(ひじり)人主(きみ)たり。是を以て、聖主(ひじり)の天皇、天に則(のと)り御寓(あめのしたをしろしめ)して、人の所(ところ)獲(え)むことを思ほすこと、暫(しましく)も胸(こころ)に廢(す)てず。
而るに王(きみ)の名名(みなみな)に始めて、臣・連・伴造・國造、其の品部(しなじなのとものを)を分ちて、彼の名名(なな)に別く。復、其の民と品部とを以て、交雑(まじ)りて國縣(くにこほり)に居(はべ)らしむ。遂に父子(おやこ)姓を易(か)へ、兄弟(はらから)宗異(こと)に、夫婦(をうとめ)更互(かはるがはるたがひ)に名(な)殊(こと)ならしむ。一家(ひとついえへ)五(いつ)つに分れ六つに割(さ)く。是に由りて、爭(あらそ)ひ競(きほ)ふ訟(うたへ)、國に盈ち朝(みかど)に充てり。終に治れることを見ずして、相亂るること彌(いよいよ)盛なり。粤(ここ)に、今の御寓天皇(あめのしたしらすすめらみこと)より始めて、臣・連等に及(いた)るまでに、所有(たもて)る品部は、悉に皆罷(や)めて、國家(おほやけ)の民とすべし。
其の王(きみ)の名を假借(か)りて伴造とし、其の祖(おや)の名に襲據(よ)りて臣・連とす。斯等、深く情(こころ)に悟らず、忽(にはか)に若是(かく)宜(の)る所を聞きて、當(まさ)に思ふらまく、『祖の名、借れる名滅(き)えぬ』とおもふらむ。是に由りて、預(あらかじ)め宣べて、朕(わ)が懐(おも)ふ所を聽き知らしめむ。
王者(きみ)の児(みこ)、相續(つ)ぎて御寓(あめのしたしら)せば、信(まこと)に時の帝(きみ)と祖皇(みおや)の名と、世(よよ)に忘らるべからざることを知る。而るを王(きみ)の名を以て、軽(かろかろ)しく川野(かはの)に掛けて、名を百姓(おほみたから)に呼ぶ、誠に可畏(かしこ)し。凡そ王者(きみ)の號(みな)は、將に日月(ひつき)に隨ひて遠く流れ、祖子(みこ)の名は、天地と共に長く往くべし。如是(かく)思ふが故に宣(の)たまふ。
祖子より始めて、奉仕(つかへまつ)る卿大夫(まへつきみたち)・臣・連・伴造・氏氏(うぢうぢ)の人等、〈或本に云はく、名名(なな)の王民(おほみたから)といふ。〉咸(ことごとくに)に聽聞(うけたまは)るべし。今汝等(いましたち)を以て、使仕(つか)ふべき狀(かたち)は、舊(もとの)の職(つかさ)を改去(す)てて、新(あらた)に百官(もものつかさ)を設け、位階(くらゐのしな)を著(あらは)して、官位(つかさくらゐ)を以て敍けたまはむ。
今發て遣す國司、幷て彼(そ)の國造、以(ここをも)て奉聞(うけたまは)るべし。
去年朝集(ちょうしゅう)に付(つ)けし政(まつりごと)は、前(さき)の處分(ことわり)の隨(まま)にせむ。
収め數ふる田を以ては、均しく民(おほみたから)に給へ。彼と我と生(な)すこと勿れ。凡そ田給(たま)はむことは、其の百姓の家、近く田に接(つ)けたらむときには、必ず近きを先とせよ。
此(かく)の如くに宜たまはむことを奉(うけたまは)れ。
凡そ調賦(みつき)は、男の身の調(みつき)を収むべし。
凡そ仕丁(つかへのよほろ)は、五十戸毎に一人。
國國の壃堺(さかひ)を觀て、或いは書にしるし或いは圖をかきて、持ち來(まゐ)りて示(み)せ奉(まつ)れ。國縣の名は、來(まうこ)む時に將に定めむ。
 國國の堤築(つ)くべき地(ところ)、溝穿(ほ)るべき所、田墾(は)るべき間(ところ)は、均しく給ひて造らしめよ。
當(まさ)に此の宣(の)たまふ所を聞(うけたまは)り解(さと)るべし」
とのたまふ。

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