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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(173)

「天武紀・持統紀」(88)


「大化改新」の真相(11)
「改新の詔」をめぐって(2)


 「改新の詔」〈その第二〉を検討しよう。(検討する部分は読下し文を使います。)

 京師(みやこ 都城)を創設し、畿内の国司・郡司・関塞(せきそこ 重要な所の守塁)・斥候(うかみ)・防人(さきもり)・駅馬(はいま)・伝馬(つたわりうま)を置き、鈴契(すずしるし)(駅馬・伝馬を利用する際に使用)を造り地方の土地の区画を定める。
(2のA)
 京では坊(まち)ごとに長(おさ)一人を置き、四つの坊に令(うながし)一人を置き、戸口(へひと)を管理し、正しくないことをする者を監督せよ。その坊令(まちのうながし)には、坊の中で行ないが正しく、しっかりして時務に堪える者をあてよ。里坊(さとまち)の長(おさ)には、里坊の人民で清く正しくつよい者をあてよ。もしその里坊に適当な人がなければ、近くの里坊から選んでも差支(さしつか)えない。
(2のB)
 およそ畿内とは、東は名墾(なばり)の横河(よこかわ)よりこちら、南は紀伊の背山(せのやま)よりこちら、西は明石の櫛淵(くしふち)よりこちら、北は近江の楽浪(さざなみ)の逢坂山(おうさかやま)よりこちらを指す。


 冒頭の文「初めて京師(みさと)を修め、畿内國に…を置き…」を検討しよう。まず目に付くのが出だしの言葉「初めて」である。ヤマト王権では藤原京が初めての坊条都市である。ここの「京師」が藤原京であることは明らかだ。「孝徳紀」だとこの「京師」に当たる坊条都市は見いだせない。(2のA)でこの新京の管理規定を述べている。

 また細かいことにこだわるが、この冒頭の文は「初めて京師をととのえ完成させたので、畿内国に…を置く…」とも読めるかも知れない。しかし、漢文劣等生がまたおそるおそる意見を申し述べると、このように読めるためには故(かれ)・所以(このゆえに)・是以(ここをもちて)・由是(これによりて)のような接続詞がいるのではないだろうか。任意に例文を探してみる。

692(持統6)年9月26日
詔して曰はく、「白蛾を角鹿(つぬが)郡の浦上の濱に獲(え)たり。故、封(へひと)笥飯神(けひのかみ)に増すこと二十戸、前(さき)に通わす」とのたまふ。

 「改新の詔」はこれから行う改革の青写真を示しているのだから、「京師をととのえ完成させ、(その上で)畿内国に…を置く…」と読みたい。つまり、まだ京師は修め終わっていない。従って、藤原京遷都が終わった後の持統10年より、造営真っ最中の持統6年の詔勅と考えた方がよいのではないか。

 次に畿内について。
 私は今まで、近畿・畿内・四畿などの詳しい意味を知らぬままに当たり前のように使ってきたが、「畿」とはどういう意味なのか、改めて調べておこう。

 手元の漢和辞典(『新修漢和大字典』博友社)を引いてみた。(3通りの意味があったが、畿内に関係するものだけを転載する。また引用されている漢文の返り点は省いた。)

【畿】
 (イ)王郡を去る四方五百里以内の地。「-内」・「京-」
(ロ)サカヒ。地の境域。【周禮】制-封國。
【畿内】(キナイ)
 ①帝都を中心として四方五百里以内の土地。○畿甸。【蔡邕】京師、天子之-千里。
 ②(國)山城・大和・河内・和泉・攝津五國の稱。「五--」【経】--臨中國。
【畿甸】(キデン)
 前條の①に同じ。(甸は畿)【郝】
【畿封】(キホウ)
 天子直属の地域。又其の界。
【畿服】(キフク)
 邦畿千里の内。【資治通鑑】

 念のためもう一つ、『漢語林』から。

【畿】
①みやこ。帝都。
②王城(帝都)から五百里以内の地。天子の直轄に属する。(周代の一里は約四〇五メートル)
③地域の称。周代、王城から五百里以外の地を、外に向かって五百里ことに区分し、これを九畿・九服(侯コウ・甸デン男・采サイ・衛・要・夷イ・鎮・蕃バン)と呼んだ。
④国。地方。また、さかい。境界。
⑤はたけ。田野。
【畿内】キナイ  ①=字義の②。
 ②〔国〕京都の周囲の地方の称。山城(京都府)大和(奈良県)・河内・和泉(共に大阪府)・摂津(大阪府・兵庫県)の五か国の総称。

 両字典ともに日本の畿内として五畿内を挙げているが、前にも述べたように、持統紀の頃は四畿内であった。716(霊亀2)年に和泉国が河内国から分離されて五畿内となった。ちなみに、「四畿内」という言葉は「持統紀」意外には出てこない。

 『漢語林』の説明を読んで「あれ!」と思ったことがある。「畿」は「帝都から五百里以内の地」だから、帝都を中心にした千里四方の区域ということになる。(周代の一里は約四〇五メートル)という注があるから、原典は「書経」だろうか。ちょっと本題から外れるが、調べてみた。「禹貢」の最後(「九州」記事の後)に次のような記事があった。

 九州 同じうする攸(ところ)。四隩(しいく) 既に宅す。九山 刊旅し、九川 源を滌(てき)し、九沢 既に陂(は)す。四海 会同し、六府 孔(はなはだ)だ修まる。庶土 交(こもごも)正しく、慎しむことを厎:(いた)すは、財賦(ざいふ)。咸(み)な三壌(さんじよう)に則し、賦を中邦に成す。土姓を錫(たま)う。台(わ)が徳を慎しんで先んずれば、朕(わ)が行を距(はば)まず。

 五百里は、甸服(でんぷく)。百里の賦は、総(そう)を納(い)る。二百里は、銍(ちつ)を納る。三百里は、秸(かつ)を納れて服す。四百里は、粟(ぞく)。五百里は、米(べい)。五百里は、侯服(こうふく)。百里は、采(ざい)。二百里は、男邦(だんほう)。三百里は、諸侯。五百里は、綏服(すいふく)。三百里は、文教を揆(はか)る。二百里は、武を奮(ふる)いて衛(まも)る。五百里は、要服。三百里は、夷。二百里は、蔡。五百里は、荒服(こうふく)。三百里は、蛮。二百里は、流(りゅう)。東 海に漸(い)り、西 流沙に被(こうむ)り、朔南(さくなん) 声教に曁(あずか)り、四海に訖(いた)る。

 禹 玄圭(げんけい)を錫わり、厥(そ)の成功を告ぐ。

(現代語訳)
 九つの州は、みな同じように安定した。すなわち、四方の土地土地には、家が建てられて人が住めるようになり、九州のすべての山々は、木が切られ道が通じて、旅(りょ)の祭りを受けることになり、九州のすべての川は、その源まで底を浚(さら)って、みな流れやすくされ、九州のすべての沢には、それぞれ堤防が築かれた。全世界の人々が、堯帝の都に集ってくるようになり、六つの資源に対する(中央の施策は)、みごとに整って(人々の生活も豊かになった)。諸国の土地は、すべてもとの地力を回復し、財政支出と租税徴収とが慎重に実施された。天下の土質が三段階に分けられ、それにもとづいた税制が、中国全土に確立された。

 (禹は、進言して)有徳の人に、その生れた土地の名を姓として与えることにした。堯帝が(禹の勧めに従って)まずなによりも自からの徳を大切にされたので、人々も、帝の行ないに背いたことをすることがなかった。

 都から五百里までの土地は、甸服と呼ばれる。甸服の内、百里までは、稲たばが賦として納められる。その外がわ、二百里までは、稲穂が納められる。三百里までは、藁が納められ、その運送に携わる。四百里までは、粟(もみ)、五百里までは、精米を納める。

 甸服の外がわ五百里は、侯服と呼ばれる。侯服の内、百里までは、王のための種々の雑役に出仕し、二百里までは、王のために定まった夫役(ふえき)に出る。残り三百里は、王のために斥侯(ものみ)の役(えき)に出る。

 侯服の外がわ五百里は、綏服と呼ばれる。その内がわ三百里は、王者の教えを、考え、実行する。外がわ二百里は、武力を振って、国の守りにあたる。

 綏服の外がわ五百里は、要服と呼ばれる。その内がわ三百里は、平常の教えを守って王者に仕え、外がわ二百里も、それに倣う。

 要服の外がわ五百里は、荒服と呼ばれる。その内がわ三百里は、徳によって招きよせ、外がわ二百里は、放任しておく。

 五服(ごふく)の外、東は海に入り、西は流沙に及ぶまで、北も、南も、天子の名声を聞きその教えを被ることになり、禹の功績は、世界の果ての四つの海にまで及んだ。堯帝は、そこで、禹に黒い圭(けい 玉製品)を賜わり、天の命ぜられた仕事が完成したことを、人々に告げ知らされた。


 ここでは「畿」ではなく、同意味の「甸」が用いられている。『漢語林』には「九畿・九服」とあったが、上の「禹貢」記事は「五服」である。「九畿・九服」の出典は何だろうか。気にはなるが、このことはこれから述べようとしていることには差し障りはないので、このまま先に進む。

 〈全集〉に掲載されている「五服」の概念図を転載しておく。

五服概念図

 この図でも分かる通り、「畿」とは「帝都を中心として四方五百里以内の土地」であり、「畿甸。京師、天子之-千里」(『新修漢和大字典』)である。

 『漢語林』の説明を読んで、私が「あれ!」と思ったのは、(周代の一里は約四〇五メートル)である。千里なら暗算でできる簡単な計算。405(m/里)×1000(里)=405000(m)で、畿内の領域は何と方405㎞である。北海道がすっぽり入ってしまう面積だ。「天下方五千里」は、何と約2万㎞四方である。赤道の長さが約4万㎞だからとてつもない広さになる。門脇氏も参考資料(2)の『いわゆる、「改新」詔の「畿内」について』という一節で「畿内」を論じている。その中で「九畿の本をなす国畿=王畿が王都の周囲千里の直轄地で…」と書くが何の疑問を持たずに論を進めている。従来の学者たちは誰も疑問を持たなかったのだろうか。あるいは疑問を持っても「中国一流の誇大表記さ」とやり過ごしているのだろうか。

 ところで「1里=405m」はどのような計算で得たのだろうか。ウィキペディアには次のように書かれている。

「里は元々は古代中国の周代における長さの単位であった。1里は1800尺(360歩、6町)四方の面積を表しており、後にこの1辺の長さが距離の単位「里」となった。1尺を30cmとすると1800尺は540mとなる。」

これはどうしたことだろう。「定説」はないのだろうか。いずれにしても「1尺=30cm」という現代の尺度を用いて計算している。本末転倒ではないだろうか。この場合だと「千里=540㎞」ますます現実離れしてしまう。

 ここで思い出したことがある。古田さんによる「邪馬壹国」解明の重要なカギ一つである「短里」だ。「邪馬台国」論争でも「井の中」の「邪馬台国」論者は「中国一流の誇大表記さ」とやり過ごしていたっけ。

 私は周の「里」は短里ではないか、と思った。何か手掛かりはないかとネット検索していたら、なんと!!、古田さんの文章がヒットした。『山一国の証明』(角川文庫)の「あとがきにかえて・解説にかえて」だった。

 研究史上、一つの画期をなす論文が出現した。谷本茂氏の「中国最古の天文算術書『周髀算経しゅうひさんけい』之事」(「数理科学」一九七八年三月)がこれである。

(中略)

 若き自然科学研究者、谷本氏の発見は、この『周髀算経』の中で用いられている里単位が計算によって確認できる、という一点にあった。それは「1里=約76~7メートル」だった。これはわたしがかつて『「邪馬台国」はなかった』でしめした魏晋(西晋)朝短里(1里=約75メートル。精しくは「75~90メートル」の間で、75メートルに近い、とした)と驚くべき一致をしめしたのである。氏はこの両者の一致を「単なる偶然の一致」としてすませることは出来ない」と結ばれた。

 「解説にかえて」はその「若き自然科学研究者、谷本氏」が書かれたものだ。「1里=75メートル」の算出は古代中国の天文観測の記録から割り出されたものだった。古代中国の天文学にも、それを利用して1里を計算した谷本氏の発想にも、びっくりしたなあ!!(「あとがきにかえて・解説にかえて」は「新古代学の扉」で読むことができます。)

 やはり、周の「里」も短里だったのだ。平均をとって「1里=約76.5メートル」とすると、千里は76.5㎞。これなら現実的な値である。

 『日本書紀』の「畿内」の初出は「崇神紀」で、その後25件ほど出てくる。すべて「畿内」の範囲はあいまいで確定的ではない。「改新の詔」〈その第二〉の(2のB)が初めてそれを確定したことになる。(2のB)に書かれた畿内の叙述から想定した畿内地図が参考資料(2)に掲載されている。それを転載しよう。

畿内地図

 地図上での測定なので正確ではないが、明石・大津間は約80㎞。これは偶然の一致だろうが、「短里」の千里とほぼ同じである。

(付記)
 書き終わって、念のため今度は「新古代学の扉」でHP内検索をしたら、泥憲和という方の論文「西村秀己『盤古の二倍年歴』を読んで―短里における下位単位換算比の仮説―」がヒットした。なんと、「周の里は短里」を前提に論じている!!「古田史学の会」では「周の里は短里」というのは常識なのだった。

 今回は驚きの連続だった。
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この記事へのコメント
「流」の解釈について
はじめまして。
「流」(都から千里の外)は、「畿」の対義語です。
「五百里は、荒服(こうふく)。三百里は、蛮。二百里は、流(りゅう)。」を「…外側二百里は、放任しておく。」と翻訳されていますが、『…二百里は流(りゅう)と呼ぶ。」というのが正しいと思います。
流も放任されていた訳ではなく、中央から流官と呼ばれる役人が派遣されていましたし、改土帰流という世襲制を任官制に改めさせる政策もありました。
学研新漢和大辞典等参照。
よろしくお願いします。
2016/02/23(火) 15:06 | URL | 織智音 有馬 #4kVtN97k[ 編集]
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