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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(172)

「天武紀・持統紀」(87)


「大化改新」の真相(10)
「改新の詔」をめぐって(1)


 「改新の詔」〈その第一〉は次のようであった(現代語訳)。

 昔の天皇たちの立てられた子代(こしろ)の民・各地の屯倉(みやけ)と臣・連・伴造・国造・村の首長の支配する部民・豪族の経営する各所の土地を廃止する。そして食封(へひと 給与される戸口)を大夫(まえつきみ)(四位・五位)より以上にそれぞれに応じて賜わる。以下は布帛(きね)を官人(つかさびと)・百姓(おおみたから)にそれぞれに賜わることとする。そもそも大夫は人民を直接治めるものである。よくその政治に力を尽せば人民は信頼する。故に大夫の封禄(ほうろく)を重くすることは、人民のためにすることなのである。

 ここにでてくる子代・屯倉・部曲・田荘、「皇太子の奏上」にでてくる御名入部(名代)などはいまだによく分からない部分があり、今でもいろいろと議論さえれているようだ。これには今は深入りしない。必要が出てきたら詳しく調べてみよう。いまのところ、教科書的な大雑把な理解で不都合はないだろう。次のようになる。

子代の民―名代とともに皇族のための私有民
屯倉―朝廷の直轄地
部曲―豪族の私有民
田荘―豪産の私有地
食封―皇族・貴族に与える収入。一定の戸を指定し、その貢納の大部分を与える。

 さて、冒頭の「昔の天皇たち」の原文は「昔在天皇等」である。この文言は「皇太子の奏上」の中にもあった。「昔在天皇等」というこの一風変わった文言を用いている記事がほかにもあるのか、調べてみた。一つだけあった。「欽明紀」(16年2月条)で「昔在、天皇大泊瀬之世」とある。しかし、これは「むかし、天皇大泊瀬の世に」であり、「昔在」は天皇を修飾する語句ではない。従って「昔在天皇」という言い方は「改新の詔」・「皇太子の奏上」だけで使われていることになる。

 では他の記事では「昔在天皇等」と同じ意味をどう表現しているのか、調べてみた。次のように表現している。

「崇神紀」(4年10月条)「我皇祖、諸天皇等」
「仲哀紀」(9年9月条)「我皇祖諸天皇等」
「推古紀」(15年2月条)「我皇祖天皇等」
 ちなみに、〈大系〉はそれぞれ「わがみおやもろもろのすめらみことたち」・「わがみおやすめらみことたち」・「わがみおやのすめらみことたち」と訓じている。

 これらが「我皇祖」と、尊崇の念とそれに直系する権威を誇示する修飾語を用いているのに対して、「昔在天皇等」はいかにも素っ気ない。まるで無意識のうちに差別意識を表出してしまったかのようだ。穿ちすぎだろうか。正木さんは、ずばり、「昔在天皇等」は九州王朝の天子を指していると言う。

 九州年号大化期は701年の律令制定や「倭国」から「日本」への国号変更など近畿天皇家による一元支配の確立時期を含んでいる。従って改新詔(其の一)は、その時期に近畿天皇家から発せられたとすれば、「昔在の天皇等の立てたまへる子代の民・処々の屯倉、及び別には臣・連・造・国造・村首の所有(たも)てる部曲(かき)の民、処処の田庄を罷めよ」との文言こそ、近畿天皇家による九州王朝からの資産奪取を示すものとなる。

 そして、詔中で子代・屯倉を立てた「昔在の天皇」とは九州王朝の天子、すなわち「前王朝の天子」を意味する事となる。また、次に述べる大化2年(646)3月の皇太子(中大兄とされる)による、「子代・御名の入部」の奉献記事(「皇太子奏」)中の「昔在の天皇」も同様となろう。

 「前王朝の天子の領地・領民支配を罷めさせた」と直截的に書かなかった理由は「近畿天皇家は遥か以前から倭国の支配者だった」という『書紀』の主張によるものだ。禅譲にせよ放伐にせよ、あるいは別の形態にせよ、別の王朝と天子から支配権を得たと記せば、近畿天皇家に先立つ王朝の存在と、そこからの譲位、或は纂奪によって支配権を得たと認める事となる。しかし『書紀』の立場・名分からは九州王朝とその天子の存在を否定、或は無視する必要があった。そのため「昔在の天皇」と書き、近畿天皇家自らの祖先の領地・領民や事績であるかのように装ったのだ。

 白村江での敗戦後、唐の占領軍が九州にやって来ている。唐は自国以外に「天子」を認めないはずだ。唐の占領政策によって九州王朝は存続していたが、九州王朝の大王はもはや「天子」という称号は使えない。白村江以後、九州王朝でも「天子」の代わりに「天皇」という称号を使っていたのではないだろうか。そのように考えると、九州王朝の代々の天子を「昔在天皇等」と表現したこともうなずける。

 では「皇太子の奏上」の皇太子とは誰だろう。

 この時期(持統期)のヤマト王権の皇太子・草壁皇子は689(持統3)年に死去している。その後誰かを立太子したという記事はない。「持統紀」最後記事は697(持統11)年8月1日の禅譲記事で、そこにいきなり皇太子が出てくる。

皇太子に天皇位(くにさ)禪りたまふ。

 このとき軽皇子は15歳だったという。「皇太子の奏上」の時(私の仮説では692(持統6)年)に軽皇子がすでに皇太子になっていたとしても、その時は軽皇子10歳。奏上ができる年齢ではない。「皇太子の奏上」の皇太子が軽皇子であろうはずがない。そうするとこの皇太子も九州王朝の皇太子と考えざるを得ない。

 「昔の天皇たち」とは九州王朝の代々の天子であり、「皇太子の奏上」の皇太子は九州王朝の皇太子という前提で、改めて「改新の詔」〈その第一〉の前半を、今度は読下し文で、読んでみよう。

其の一に曰はく、昔在(むかし)の天皇等(すめらみことたち)の立てたまへる子代の民(おほみたから)・處處(ところどころ)の屯倉、及び,別(こと)には臣・連・伴造・國造・村首(むらのおびと)の所有(たも)てる部曲(かき)の民、處處の田莊(たどころ)を罷(や)めよ。

 さて、「昔在の天皇等の立てたまへる」という修飾文はどこにかかるのだろうか。私は「子代の民・處處の屯倉」と「臣・連・伴造・國造・村首の所有てる部曲の民、處處の田莊」の両方にかかるとして読んでいる。「皇太子の奏上」前半の天皇の諮問部分は次のようである。

其れ群(もろもろ)の臣・連及び伴造・國造の所有る、昔在の天皇の日に置ける子代入部、皇子等の私に有てる御名入部、皇祖大兄の御名入部〈彦人大兄を謂ふ。〉及び其の屯倉、猶古代の如くにして、置かむや不や。

 「連及び伴造・國造の所有る…子代入部」は、「昔在の天皇の日に置ける」ものだと書かれている。「改新の詔」〈その第一〉の方もこれと同じ意だと考えた。

以上をふまえて「改新の詔」〈その第一〉と「皇太子の奏上」前半の天皇の諮問部分を意訳してみる。

「改新の詔」
 昔の天皇たちの頃(九州王朝時代)に立てたられた次の領地・領民を廃止する。すなわち、子代の民・各地の屯倉と、臣・連・伴造・国造・村の首長の支配する部民、さらに豪族の経営する各所の土地である。

「皇太子の奏上」
現天皇(持統)が、私にお問いになりました、
『昔(九州王朝時代)の天皇時代に置かれた次の領地・領民を昔のままにしておくべきかどう諮問する。すなわち、群臣・連・及び伴造・国造の所有する子代入部、また皇子たち私有の名入りの私民、さらに皇祖大兄の名入りの部とその屯倉などである。』

 九州王朝時代に領有されることになったあらゆる種類の領地・領民を差し出せと迫っているわけだ。「東国国司の賞罰の詔」はここにつながる恫喝の役割を担っていたのかも知れない。ヤマト王権の要求に従わざるを得ない状況下で答申されたのが「皇太子の奏上」の後半部分である。

 この諮問に対する皇太子の返答は
(1)
 入部と食封の民(貴族の私民)を国の仕丁にあてることは、先の規定に従う。 (2)
 これ以外も私用に使われることを危惧して、入部・五百二十四口、屯倉・百八十一所を献上する。

 (1)は「改新の詔」〈その一〉の追認だろう。(2)は何だろうか。「入部・五百二十四口、屯倉・百八十一所」とはどのくらいの規模になるのだろうか。正木さんは次のように推算している。

 これは、入部が「仕丁」の意味なら50戸で一人だから約25,000戸分だ。また屯倉181所は、『古事記』『書紀』中に出現する具体名の記された「屯倉」は約60箇所だから、事実上全国規模にあたる。

 そして「近畿天皇家が九州王朝の資産を奪取したことを示すもの」と結論している。つまり、皇太子は九州王朝のすべての直轄地を献上させられたのだ。
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この記事へのコメント
康有為の『日本変政考』にも「昔在」という言葉が使われていました。
2012/06/25(月) 21:19 | URL | #-[ 編集]
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