2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(171)

「天武紀・持統紀」(86)


「大化改新」の真相(9)
「東国国司発遣の詔」をめぐって(4)


 いま私が取り上げている問題をすでに論じている方がおりました。これまでに何度もお世話になっている正木裕さんです。「古田史学の会」からいただいた会報に掲載されていました。今回から次の正木論文を教科書にします。
『九州王朝から近畿天皇家へ 「公地公民」と「昔在(むかし)の天皇」』(古田史学会報NO.99)
『「東国国司詔」の真実』(古田史学会報NO.101)

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(訂正)

 その正木さんから、前回の「干支不変の原則」について、私がとんでもない思い違いをしていることをご指摘いただきました。私は『日本書紀』の記事盗用の原則を「朔日・暦日ともに干支不変」と思い込んでいたのですが、「朔日の干支に関係なく、暦日のみ不変」でした。つまり「移動先の年の同月に同じ干支日があればその日に、無ければ隣接月の同じ干支日に貼り付ける」というのが『日本書紀』の盗用原則でした。確かにそうです。34年遡上問題ではその原則を用いてさまざまな問題を解明をしていたのでした。

 このような誤解を流布し続けては古田史学にとってはたいへんなご迷惑でしょう。ということで『日本書紀』編纂者の盗用原則は「暦日の干支不変の原則」であったと訂正します。「改新の詔」関係の場合だけ「朔日・暦日ともに干支不変」としたら、こんどはこの方がご都合主義と言わなくてはならない。

 しかし、誤解の上でのことでしたが、持統6・7年への移動に執着しています。もしその移動が妥当だとすると、「誤解の功名」ということになりましょうか。前回の(三)の誤解部分を書き換えて、しばらくこのまま検討を続けてみようと思います。

(「訂正」ここまで)
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 前回、文武元・2年への移動は無理のようだと書いた。その理由を述べよう。

 二番目の「東国国司賞罰の詔」(朝集使等への詔 以下「賞罰詔」と略記)に次のような一節がある。国司たちの罪状を長々と述べて「裁かないわけにはかない」と宣した後の言葉である。

……念(おも)ふこと是(かく)の若しと雖も、始めて新しき宮に處(を)りて、將に諸のに幣(みてぐら)たてまつらむとおもふこと、今歳(ことし)に屬(あた)れり。又、農(なりはい)の月にして、民(おほみたから)を使ふ合(べ)からざれども、新(にひ)しき宮を造るに縁(よ)りて、固(まこと)に巳(や)むこと獲(え)ず。深く二つの途(みち)を感(かま)けて、 天下(あめのした)に大赦(おほきにつみゆる)す。今より以後、國司・郡司、勉(つと)め勗(つと)めよ。放逸(あだめきわざ)すること勿(まな)。使者を遣して、諸國の流人、及び獄(ひとや)の中の囚(とらへびと)、一(とも)に皆放捨(ゆる)せ。……

 大赦の理由を二つあげている。「新しい宮で諸のに幣たてまつる年」だからというのが一つ。もう一つは「新しい宮を造るために農繁期なのに民を使役した」からと言っている。第一の理由について〈大系〉の頭注は「孝徳天皇の即位大嘗祭か」と書いている。この頃は大嘗祭を行えるのは九州王朝の天子だけで、孝徳に大嘗祭を行う資格はない。

 この詔の日付は「文武紀」の場合は元年12月19日である。しかし文武の大嘗祭は2年11月23日であり、該当しない。また決定的なのは12月は農繁期ではない。むしろ農閑期。また、この時期には新宮造営はない。

 以上が文武元・2年説をダメと判断した理由だった。

 では、「持統紀」の場合の持統6・7年説の方はどうだろうか。この場合、「賞罰詔」の日付は持統6年8月19日となる。持統の大嘗祭は持統5年11月1日で、すでに終わっている。しかし、6年に藤原宮の地鎮祭がある。

692(持統6)年5月23日
 23日
  浄廣肆難波王等を遣して藤原の宮地を鎮め祭らしむ。
 26日
  使者を遣して、幣を四所の、伊勢・大倭・住吉・紀伊の大に奉らしむ。告(まう)すに新宮(にひしきみや)のことを以てす。


 まだ宮殿はないが、「新しき宮に處りて」の「宮」を「宮地」と解するのは不当だろうか。もう一つ、地鎮祭は約4ヶ月前に終わっているので「たてまつらむとおもふ」という文に合わない。しかし、この読下し文を疑ってみてもよいと思う。原文は「始處新宮、将幣諸神、属乎今歳」である。漢文の知識は高校生程度なので、おそるおそる訳してみる。「始めて新宮において、まさに諸神に幣をたてまつったのは、今年のことであった」。漢文には時制はないのだから、前後の関係や文脈を考慮して、このように解釈しても…(小さな声で)よ・い・だ・ろ・う・か。

 第二の理由の方はどうか。新京の方は691(持統5)年10月27日に地鎮祭を終えている。そしてこの年に新宮の地鎮祭。都市区画の工事に宮殿の工事が加わったことになる。藤原京造営は大規模な工事時期を迎えた。旧暦の8月は今の9月半ばから10月半ば頃に当たるから、時はまさに稲の刈り入れ時で農繁期である。

 暦日だけ一致という方針で移すと「賞罰詔」の日付は大化2(持統10)年4月10日となる。確かに農繁期ではあるが、前年に遷都しており、新宮の工事は終わっている。また、持統は「新しき宮に處」るけれど、この年に「諸のに幣たてまつる」ような行事はない。

 正木さんはこの立場で論考を進めている。そして、次のような理由での「賞罰詔」を文武の大嘗祭が行われた文武2年に移動している。

 『書紀』では大化元年8月に「召集詔」、翌大化2年3月に早くも「賞罰詔」と、その間僅か7ケ月とされている。しかし、遠隔の任地への往復に加え、任地での任務遂行と実績の評価には相当な期間を要し、物理的に7ケ月では到底実現不可能で、実際は数年離れた事実と考えざるを得ない。

 山尾幸久氏は任地との距離のみならず戸籍、校田、兵庫整備等の事業の困難さを指摘し「こんな一大権力事業を、北陸の他に静岡・長野から福島までの広域において、八グループが四、五ケ月程度で完遂できるか。とんでもないことだと思う。『孝徳紀』の編成デイトは、証明なしには信用できないのである」とし、更に召集詔や「処罰詔の本来の年次は『書紀』の記年にかかわらず、その内容に即して検討されるべきだろう」とする。この見解は至極もっともである。

 「賞罰詔」を698(文武2)年に置いた場合、「暦日のみ不変」の原則で日付を調べると3月21日である。大嘗祭は11月23日だから、大赦の第一の理由は、「たてまつらむとおもふ」という読下し文にも合い、まさにピッタリである。

 第二の理由の方はどうか。3月21日は今の暦では5月初旬であり田植え時、まさに農繁期である。しかし、「新しき宮を造る」には合わない。藤原宮造営は694(持統8)年、4年前に終わっている。

 私の持統6年説の場合、この年は閏5月があるけれども、「召集詔」と「賞罰詔」の間はさらに短くなり、6ヶ月ほどしかない。こんな短期間で造籍・校田ができるのかという問題はやはり避けられない。これについてはどう考えたらよいだろうか。これもちょっと苦しい解釈になるけど、次のように考えている。

 「東国国司発遣の詔」の前に(私の解釈では九州王朝によって)、
689(持統3)年閏8月10日
 「造籍の詔」(庚寅年籍)
690(持統4)年9月1日
 「造籍戸令遵守の詔」
が出されている。692(持統6)年4月5日の「東国国司発遣の詔」は、まったく一からのやり直しではなく、その延長上にある。そのように考えて『「東国国司発遣の詔」をめぐって(2)』で次のように書いた。

 ところで、このときの国司派遣はなぜ東国と倭六県だけなのだろうか。すべて単なる推測にしかならないが、私は次のように考えている。倭六県はヤマト王権の直轄地であり、後の班田収授法を念頭においた再調査が行われたのではないだろうか。東国の場合は、690年の詔にもかかわらず、造籍に対するサボタージュがあったのではないだろうか。九州王朝にしろヤマト王権にしろ、その権力のくびきから逃れる機会と考える勢力が多かったのではないだろうか。

 つまり、今回の国司派遣は前回の造籍・校田において不備のあった国々だけが対象であった。それに国司の役割は中央からの指示伝達をしその経過を監察することであり、実際に造籍・校田の作業はそれぞれの国の諸役人が総出で行ったのだろう。このように考えると、6ヶ月ほどの期間でも中央への報告は可能ではないだろうか。

 律令制度が整い、政治基盤がある程度確立した初期の近畿朝廷は6年ごとに造籍を行っている。正木さんの「任地での任務遂行と実績の評価には相当な期間を要し……実際は数年離れた事実」という推測は長すぎるのではないだろうか。
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