2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
(27日にまた書き換えをしました。書き換え部分とその理由は、次回に詳しく書きます。)

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(170)

「天武紀・持統紀」(85)


「大化改新」の真相(8)
東国国司発遣の詔」をめぐって(3)


 まず、前回までの記事に3点追記をしたい。

(一)
「東国国司発遣の詔」の中に「倭六県」の国司が入っていることについて。
 前回これについて「倭六県はヤマト王権の直轄地であり、後の班田収授法を念頭においた再調査が行われたのではないだろうか。」と書いた。このことに関連して「持統紀」に次の記事があることを思い出した。たぶんこの記事が頭の隅にあって、あのように推測したのだと思う。

692(持統6)年9月9日
 班田大夫等(たたまいのまえつみたち)を四畿内(よつのうちつくに)に遣す。

 〈大系〉の頭注によると四畿とは「大和・山城・摂津・河内」を指す。後に和泉を分置して五畿となる。

(二)
 もう一つ、「孝徳紀」大化2年8月の詔を追加したい。この詔は「皇太子の奏上」と関連するものと思われる。これを「品部廃止の詔」と呼ぼう。本日の記事の末尾に「皇太子の奏上」とともに現代語訳を掲載しておく。

(三)
 三つ目は日付のこと。追加というよりか訂正あるいは問題提起と言った方がよいだろうか。
 『日本書紀』編纂者が盗用記事などを他の年に移動させる場合、「移動先の年の同月に同じ干支日があればその日に、無ければ隣接月の同じ干支日に貼り付ける」という原則で行っている(朔日の干支は関係しない)。この原則に従った処理により、これまでさまざまな問題が解明されてきた。しかし、「改新の詔」関係の記事の場合「朔日・暦日ともに合致する」移動とするとどうなるだろうか。

 「丙申朔庚子」・「甲子朔」(「改新の詔」の日付)と同じ干支を持つ年月は「持統紀」の中では持統6年だけだった。次のような日付になる。
「丙申朔庚子」→4月5日で
「甲子朔」→6月1日
「癸亥朔甲子・辛巳」(「東国国司賞罰の詔」)
         →8月2・19日
「庚申朔癸酉」(「品部廃止の詔」)
         →持統7年2月14日

 もう一ヶ所、九州年号の大化年間で探すと、文武元・2年が該当する。
「丙申朔庚子」→元年5月5日
「甲子朔」→元年8月1日または10月1日
「癸亥朔甲子・辛巳」→元年12月2・19日
「庚申朔癸酉」→2年5月14日

 文武元・2年は九州年号では大化3・4年である。「大化」にこだわるのならこちらをとりたいところだが、こちらは無理のようだ(理由は後ほど述べる)。取りあえず持統6・7年を採用して進めたい。そうしたために理論に矛盾が生じたら、干支不変更の原則が破綻したことになる。このケースに限っては年月不変更・干支変更の盗用だったということになる。

 以上の追加・訂正に従って、これまでに取り上げてきた「持統紀」の記事と「孝徳紀」の「改新の詔」関係記事を並べると次のようになる。(青字が孝徳紀からの移動記事)

689(持統3)年閏8月10日
 「造籍の詔」(九州王朝の事績)
690(持統4)年1月1日
 持統即位
690(持統4)年7月1日~18日
 人事など政治体制の刷新
690(持統4)年9月1日
 「造籍戸令遵守の詔」(九州王朝の事績)
691(持統5)年10月27日
 藤原京の地鎮祭
691(持統5)年11月1日
 持統、大嘗祭を挙行
692(持統6)年4月5日
 「東国国司発遣の詔」

692(持統6)年5月23日
 藤原宮の地鎮祭
692(持統6)年
 8月1日
  「改新の詔」
 8月2日・8月19日
  「東国国司賞罰の詔」
 8月20日
  「皇太子の奏上」

692(持統6)年9月9日
 班田役人を四畿に派遣
693(持統7)2月14日
 「品部廃止の詔」

694(持統8)年12月6日
 藤原京に遷都
697(持統11)年8月1日
 持統、文武に譲位

 これまでの議論は上の訂正に堪えられそうだ。というより、むしろよりピッタリと収まったように思えるが、どうだろうか。

 では最後にまだその内容に全く触れていない「皇太子の奏上」と「品部廃止の詔」を現代語訳で読んでおこう。

692(持統6)年8月20日
「皇太子の奏上」

 皇太子(中大兄)は使いを遣わして奏上した。

 昔の天皇たちの御世には、天下は混然と一つに纏(まと)まり治められましたが、当今は分かれ離れすぎて、国の仕事が行ない難くなっています。わが天皇が万民を統べられるに当り、天も人も相応じ、その政が新たになってきています。つつしんでお慶び申し上げます。
 現つ神として八嶋国を治らす天皇が、私にお問いになりました、
『群臣・連・及び伴造・国造の所有する昔の天皇の時代に置かれた子代入部(こしろのいりべ)、皇子(みこ)たち私有の名入りの私民・皇祖大兄の名入りの部とその屯倉(みやけ)などを、昔のままにしておくべきかどうか』
というお尋ねを謹んで承り、
『天に二日なく国に二王なしといいます。天下を一つにまとめ、万民をお使いになるのは、ただ天皇のみであります。ことに入部と食封(へひと)の民(貴族の私民)を国の仕丁にあてることは、先の規定に従ってよいでしょう。これ以外は私用に召し使われることを恐れます。故に入部は五百二十四口、屯倉は百八十一所を献上するのが良いと思います』
とお答えします。


693(持統7)2月14日
 「品部廃止の詔」

詔していわれた。

 尋ねみれば天地陰陽は、四時を乱れさせることがない。思えばこの天地が万物を生じ、万物の中で人間が最も勝れている。その最も勝れたものの中で、聖なるものが人主(きみ)である。それ故聖主である天皇は、天の意志に従って天下を治めて、人々がその所を得ることを願い、少しも休むことがない。
 それなのに代々の天皇の御名をはじめとする名を、臣・連・伴造・国造らは、自らが支配する品部につけ、私有の民と品部とを同じ土地に雑居させている。そのため父子、兄弟、夫婦でも姓が変わって、一家が四分五裂し、このための争いや訴えが充満している。治まらず混乱することはなはだしい。それ故現在の天皇から臣・連に至るまで、持てる品部はすべてやめて、国家の民とする。
 代々の天皇の名を借りて伴造の名とし、その先祖の名を氏の名としている臣・連たちの、深く事情を解せぬものは、急にこの布告を聞いて、きっと思うであろう。
『それでは先祖の名も、お借りした天皇の御名も消えてしまう』と。
 それであらかじめ自分の思うことを知らせよう。天皇の子が相ついで天下を治めれば、たしかにそのときの君と先祖の名とは世に忘れられないことは分る。しかし天皇の名を軽々しく地名につけて、人民が呼びならすのは誠に恐れ多い。天皇の名は日月と共に長く伝わり、皇子の名は天地と共に長く存在する。このように思うから申しのべるが、皇子を始め卿大夫・臣・連・伴造・氏々の人々みな聞け。これからお前たちを使うかたちは、元の職を捨てて新たに百官を設け、位階を定めて官位を授けるのである。
 これから遣わす国司・国造は次のことを承知せよ。前年朝集使に命じた政は先のままにする。官に収め計測した田地は、口分田として公平に民に給し、不公平のないようにする。およそ田地を給するには、民の家に近い田を優先させる。この旨承知せよ。およそ調賦は男の身による調とする。仕丁は五十戸ごとに一人。国々の境界を見て文書に記すか、あるいは図に書いてもつてきて見せよ。国や県の名は報告にきた時に定めよう。国々の堤を築くべき所、水路を掘るべき所、開墾すべき所は公平に与えて工事させよ。
 以上のべたことを承り理解せよ。

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