2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(169)

「天武紀・持統紀」(84)


「大化改新」の真相(7)
「東国国司発遣の詔」をめぐって(2)


 「東国国司発遣の詔」の中のもう一つの気になる文言は「今始めて萬國を修めむとす」である。「万国を修める」を宇治谷氏は「全ての国々を治める」と訳しているが、「修める」の意味通りに訳して「全ての国々の乱れをただす」とするべきだろう。ずいぶん細かいことにこだわるようだけれど、これは「国司」の役割をどのようにとるかといういう問題に関わってくる。

 九州王朝の直轄地は筑紫であり、九州王朝が全ての国々を直接支配していたわけではない。部族国家連合の盟主のようは存在だったと思われる。従って九州王朝が派遣していた国司は、中央政府から派遣されて各国を直接支配した近畿王朝下の国司ではなく、「国宰」というべきである。〈大系〉では「国司」をすべて「くにもみこともち」と訓じているが、この訓には「国宰」がふさわしい。「国司」の方は和訓するならば「くにのつかさ」と読むべきだろう。「みこともち」とは「〈御言(みこと)〉を受け〈持ち〉」の意で、天子の言葉を各地に伝える役柄である。

 迂遠なようだけど『日本書紀』に現れる「国司」を調べてみる。
 初出は「仁徳紀」で「遠江國司」とある。〈大系〉の頭注は「遠江という国名も国司という職名も、共に令制による知識」と書いている。「井の中」では「仁徳紀」あたりの記事は編纂者の造作と考えているようだ。
 次が「雄略紀」で「任那國司」。これには頭注がない。
 次は「清寧紀」「顕宗紀」で「播磨國司」。「後世の常駐の国司ではあるまい」と頭注している。「国宰」という意味での国司の存在を肯定している。
 次はずっと飛んで「崇峻紀」の「河内國司」。〈頭注〉「令制による表現。実際には万討伐の部隊長ほどのものか」。どういうわけか、再び国司を否定している。どうも一貫性がない。
 そして次が、かの有名な「十七条の憲法」の第12条である。

 十二に曰く、國司(くにのみこともち)・國造(くにのみやつこ)、百姓(おほみたから)に収斂(おさめと)らざれ。國に二(ふらり)の君非(あら)ず。民に兩の主無し。率土(くにのうち)の兆民(おほみたから)、王(きみ)を以て主とす。所任(よさせ)る所の官司(つかさみこともち)はみなこれ王の臣(やっこらま)なり。何ぞ敢へて公(おおやけ)と、百姓に賦斂(をさめと)らむ。

 これと一部似たような文言が「皇太子の奏上」の中にある。その「奏上」は後に取り上げることになるだろう。

 この「推古紀」の国司については〈大系〉はかなり長い頭注を付している。

「国司は一般に、大化改新後に定められたものと考えられており、津田左右吉は、ここに国司の文字のあることを以て、憲法が大化以後の作であることの一つの証拠とみている。この点で天武12年正月条の詔文に国司国造を連記してあることも参考になろう。しかし、大化以前に、国造を監督するものとして、臨時に官人を派遣し、これをクニノミコトモチ即ち国司といったとみる説もあり、それが正しいとすると、憲法に国司・国造とあることはおかしくはなくなる。この点ではまた、大化改新直前の皇極2年10月条に国司のことがみえることも参考になる。」

 「十七条の憲法」を創ったのは日出ずる処の天子・多利思北孤であることを知っている私には上のような「井の中」の議論がおかしくてならない。このころ既に国司・国造という職名はあったのだ。ともあれ憲法12条の次に出てくる「国司」を確認しよう。皇極2年10月条である。

冬十月の丁未の朔己酉に、……遂に國司に詔したまはく、「前(さき)の勅(みことのり)せる所の如く、更(また)改め換ること無し。厥(そ)の任(ま)けたまへるところに之(まか)りて、爾(いまし)の治(しら)す所を愼(つつし)め」とのたまふ。

 〈大系〉の頭注。
「中央から任所に派遣せられている趣が見えるから、後世の国司に近いものと思われる。」

 今度は「国宰」ではなく「後世の国司」になぞらえている。「前の勅」は「皇極紀」のどこにも見つからない。頭注はそのことを論じた議論を紹介しているが、九州王朝の史書からこの記事だけポツンとつまみ食いしたために起こった問題だから、議論してもしかたない。

 次に現れる国司が「東国国司発遣の詔」の国司である。

 国司関連記事は全て九州王朝の事績だ。「井の中」ではあれこれ混乱しているが、私(たち)の立場では一貫して「クニノミコトモチ(国宰)」と考えて何の不都合もない。「仁徳紀」の国司記事も九州王朝の史書からの盗用である。そうであるならば、ここの初出の国司も『日本書紀』編集者の造作と一蹴することはできないだろう。仁徳紀の国司は374(仁徳62)年条に出てくる。倭王賛かその一代前の、あの七支刀の銘文に出てくる倭王旨の時代に当たる。また、次の国司記事は「雄略紀」だが、これは倭王武の時代。倭王武の上奏文(478年)の一節にこうある。(岩波文庫版から転載)

封国は偏遠にして、藩を外に作(な)す。昔より祖禰(そでい)躬ら甲冑を擐(つらぬ)き、山川を跋渉し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を脱すること六十六回、渡りで海北を平ぐること九十五国。王道融泰(ゆうたい)にして、土を靡(ひら)き畿(き)を遐(はるか)にす。(以下略)

 古田さんの解読によると、「衆夷」とは倭国の都の周辺つまり九州を指す。「毛人」とはその東側で瀬戸内海領域である。「海北」は朝鮮半島を指す。つまり、すでにこの頃には倭王が国宰を派遣することはおおいにあり得ることだった。

(倭王旨については『激動の朝鮮半島(3)―「七支刀」(1)』を参照してください。)

 さて、「東国国司発遣の詔」の中の一文「今始めて萬國を修めむとす」に戻ろう。690(持統4)年7月条で選任された国司は九州王朝の「国宰」の再任であるという仮説を立てたが、このときの国司の役割もこれまでの「国宰」と同じである。その目的は各国を政治的に完全支配することではなく、あくまでも「全ての国々の乱れをただす」ことにある。それを「今始めて」行うと宣言している。この「今始めて」という文言が、この詔をヤマト王権(持統)が発したものと判断する理由の一つである。

 ところで、「近江令と庚午年籍(5)」で取り上げたように、「持統紀」には造籍記事が2件ある。そのとき「もちろん九州王朝の事績の盗用記事である」と断定したが、訂正の必要はないようだ。いま問題にしている記事との関係を考えてみる。

689(持統3)年閏8月10日
諸國司に詔して曰はく、「今冬に、戸籍造るべし。九月を限りで、浮浪(うかれびと)を糺し捉(から)むべし。其の兵士(いくさびと)は、一國毎に、四つに分ちて其の一つを點(さだ)めて、武事(つわもののわざ)を習はしめよ」とのたまふ。

 いわゆる庚寅年籍である。庚午年籍のちょうど20年後に再び造籍が行われたことになる。「国宰」の役割の中には造籍だけでなく、軍事関係の伝奏のあったことがわかる。

 また、庚午年籍は、「白村江の敗戦」後、「土地や財産」の所有・権利関係の「不明確化」や「他人(親族や近隣者を含む)からの“奪権”問題など、混乱した状況を糺す目的で行われたのだから、とうぜん「校田」も行われたはずである。以後の造籍も「校田」を含むと考えてよいだろう。

690(持統4)年9月1日
諸国司に詔して曰はく、「凡そ戸籍を造ることは、戸令に依れ」とのたまふ。

 ここの「戸令」はもちろん「筑紫令」である。前年の造籍に不備があったようだ。

 ここまでは九州王朝による国司派遣と造籍である。そして、695(大化元 持統9)年8月25日(庚子は「孝徳紀」の大化元年8では5日)のヤマト王権による「東国国司の発遣の詔」となる。

 このとき派遣されたの国司が命じられたのは、これまでと同じように、(a 造籍・校田)(i 倭6県の造籍・校田)と(h 武器の扱い)である。(b 裁判権剥奪)~(g 不法領有主張の申告)はその役割を遂行するに当たっての禁止事項である。主なる目的は造籍・校田であった。

 ところで、このときの国司派遣はなぜ東国と倭六県だけなのだろうか。すべて単なる推測にしかならないが、私は次のように考えている。倭六県はヤマト王権の直轄地であり、後の班田収授法を念頭においた再調査が行われたのではないだろうか。東国の場合は、690年の詔にもかかわらず、造籍に対しるサボタージュがあったのではないだろうか。九州王朝にしろヤマト王権にしろ、その権力のくびきから逃れる機会と考える勢力が多かったのではないだろうか。

 ともあれ、「東国国司発遣の詔」がヤマト王権が九州王朝から権力を奪取していく道程の第一歩だった。
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