2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(165)

「天武紀・持統紀」(80)


「大化改新」の真相(3)
「大化改新」否定論(1)


 門脇氏は「大化改新」の研究会(日本史研究会古代史部会)を立ち上げて、そこで議論を深めていったという。氏が「大化改新」否定論を持つにいたった経緯を次のように述べている。(参考資料(2)所収『「大化改新」の虚像と実像』より)

 そこで、日本の古代史を考える場合、どういう立場から研究しようとも、「大化改新」のようなものは避けて通れない。ひとつここに土俵をつくって、いろいろな意見なり業績をぶつけ合ってみようではないか。こういうことで、「大化改新」の研究会をしつらえたわけです。

 その研究会をはじめでみると、当時まだ大学院クラスであった諸君の中から、『日本書紀』には「大化改新」が書いてあるけれども、実はこれはなかったのではないか、という意見が出てきたのです。これにはわたくしも最初はたいへん抵抗を感じました。しかしながら同時に、なるほどと思ったこともあります。

「大化改新」はなかったのではないかという意見を聞いて、なるほど、そういうことも成り立つかもしれないと思いましたのは、まず第一に、「大化改新」というものを書いてある史料は、基本的には『日本書紀』だけだということです。

 それから、いわゆる「大化改新」の政治内容を示す大化2年(646)正月の「改新之詔」は、実は当時のものではなくて、後の時代につくったものではないかという、古代史では有名な論争が以前からあります。事実、大化2年正月に出されたという詔は、おそらく早くて30~40年、ひょっとするともう少しあとの法令でつくられたものではないかということが、いくつもの仕事によって解明されています。

 氏はここで「改新の詔」の「その第三」と養老令の戸令・田令を原文で提示して、(3のA)と戸令、(3のB)と田令がまったく同じ文であることを示している。「その第一」・「その第二」についてもほぼ同様のことが解明されている。この問題の先鞭をつけたのは津田左右吉だった。

 このようなことが分かっているにもかかわらず、「その第一」・「その第二」・「その第三」の主文部は、当時のものとする見解をとる学者たちがいる。つまり、「主文は原詔にもとづくが、副文には令文による何らかの変改が加えられているとみる」という②説である。

 また第四項だけは、こういうふうにきれいに割り切れなくて、若干問題が残りますが、とにかく「改新之詔」は「改新」当時につくられたものではないだろうという学説を、わたくしもかねてから知っておりましたので、「改新」そのものを否定する意見が出たときに、あるいはそうであったかもしれないという気になったわけです。

 さらに、教壇に立って教えてみるとわかることですが、たとえば「大化改新」で租・庸・調という税の制度ができたと教えます。ところが、律令制のところでまた租・庸・調を教える。これに類したことがいくつかあるわけです。同じ制度がダブって出てくる。これは実は律令制のときに定められたのであって、「大化改新」のときではなかったのではないか。さらに「大化改新」そのものがなかったのではないか。当然こういう筋道で考えてゆくことはできるわけです。

 それになによりも、わたくしたちが「大化改新」を考えるときに基本史料になる『日本書紀』の性格が問題です。『書紀』には、当然のことながら、編纂者の歴史観が働いている。書かれていることすべてが事実であるとは、必ずしもいえないわけです。古い時代でいえば、邪馬台国のヤの字も『書紀』には出てきません。いまでは常識化している、倭の五王が中国王朝に朝貢したという、日本古代王権の国際的従属性の問題も書いていない。考えてみれば、それはあたりまえなのです。『書紀』を書いた古代の貴族たちは、自分たちの歴史を、遠く、古く、かつ誇らかに表現するわけですから、他国に朝貢したなどという記事が出てこないのは、いわば当然です。

 あるいは、あとでも申しますが、『書紀』に出てくる蘇我蝦夷入鹿というような名前も、実際に当時の人々が使っていた名前かどうか、はなはだ問題です。皇権をないがしろにした悪者として、非常に卑しめた名前をわざと選んで叙述しているだけです。つまり、『書紀』というのは、編纂者の史観に基づいて叙述されているのであって、全部が真実を書いたものとはいいがたいということです。

 以上のようなことが、「大化改新」そのものを否定する提言を聞いたとき、あるいはそうかもしれないと感じた理由です。

 「『書紀』というのは、編纂者の史観に基づいて叙述されているのであって、全部が真実を書いたものとはいいがたい」という認識をもっていながら、古田さんの諸説を受け入れないのはどうしたわけだろう。次のくだりにその本音が吐露されている。

 しかしながら一方では、何いってるんだ、そんな無茶なことがあるか、という気がしたのも事実です。最初に申しましたように「大化改新」というのは、いろいろな業績をつき合わせる土俵としてこしらえたわけですから、土俵そのものをこわす話には、にわかに賛成できません。殺生なこというでは困る、というのが、そのときの偽らざる心境でした。

 それからもう一つは、あたくしもそれまでにいくつか本を書いておりましたが、それらはいずれも、「大化改新」があったという前提に立って書いてきたものです。それをいまさら無いなんていわれたら、私の本は全部パーになってしまう。銭金(ぜにかね)の問題ではありません。もしそれが正しいとすれば、それまでの自分のもっている知識も古代史の認識も捨てねばならない。いまから思うと恥ずかしい次第ですが、若い諸君に、「まだ何も発表してないし、これから書きはじめるからといって、そんな気楽なことをいうな」といったのを覚えております。

 「大化改新」についての自説を変更することぐらいなら、一部分の修正で済む。実際に門脇氏は自説を「大化改新」否定説に変更した後にも相当な著述をものにしている。

 しかし、古田学説の場合はおおごとである。まさに文字通り「もしそれが正しいとすれば、それまでの自分のもっている知識も古代史の認識も捨てねばならない」ことになる。ヤマト王権一元主義者たちが古田さんを無視する(もしかすると恐怖する)心情は察するに余りある。と、同情はするが、それでは学者とは言えまい。

 「若い諸君」の中から気骨ある真の学者が出てくることを期待したいがどうだろうか。難しいだろう。学会とは徒弟制度の社会のようだ。指導教授の学説に反する研究を発表すると、その学者は将来出世できないといわれている。古代史学会だけの話ではない。

 水俣病を告発し、問題を社会に知らしめる発端を作った宇井純さんはついに「万年助手」に据え置かれたままだった。早くから原発の危険性を強く指摘し続けていた京都大の今中哲二さん・小出裕章さんは研究費でも差別を受け、助教授止まりでそれ以上の出世を阻まれているという。

 大学だけのことではない。「君が代・日の丸強制」反対裁判に見るように、憲法判断を要する裁判では、ほとんどの裁判官が最高裁判例追認の判決しか出せない。その最高裁判例が行政追随・憲法無視の判決なのだ。それに逆らうまともな判決をすると、地方に飛ばされたりして、将来も出世はできないようだ。「予防訴訟」裁判であの画期的なすばらしい判決を出した難波裁判官はその後どうなっただろうか。ネットで調べたら「熊本地方裁判所長、熊本簡易裁判所判事」とあった。

 マスコミの世界もそうだ。経営者の意向に反する作品や記事は没にされてしまう。御用記者がはびこり、まともなジャーナリストは少ない。

 いたるところに根を張っている旧態然とした社会システムの根本的な変革がないかぎり、本当の学問・言論・思想の自由は絵に描いた餅でしかない。暗澹とした気分になるが、気を取り直して先を続けよう。

 それではわたくも自身は従来の「改新」像をどのように修正しっつあるかということを以下に申し上げて、ご批判をいただきたいと思います。「改新」の考察はいろいろな側面から進められますが、きようは、「大化改新」をめぐる政治史的な見方、政治史的検討を中心に申し上げたいと思います。

 一口に申しますと、従来の「改新」像を壊すことは、比蛟的簡単です。わたくしにとっては、旧い「改新」像を否定したあと、それではどういうふうに「改新」像を再構成するかが、むつかしい、しんどい問題なのです。

 次回は門脇氏が「政治史的な見方」で再構成した「改新」像のあらましを読み取ってみる。
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