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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(162)

「天武紀・持統紀」(77)


筑紫君薩夜麻とは誰か(18)
(をち)を恋うる嬬(つま)の歌(11)
「薩夜麻=明日香皇子」!!


(5月1日:隠居さんのコメントにより、たいへんな間違いを書いたことが分かりました。その部分を削除しました。)

 「送従弟蕃游淮南」の読解が思いがけず長くなってしまった。「越を恋うる嬬の歌」に戻ろう。

 私はこれまで明日香皇子と筑紫君薩夜麻は別人であると考えていた。つまり、次のように考えていたのだった。

 明日香皇子は「州柔の戦」(陸戦)の倭軍総帥であり、その戦で戦死した。一方、薩夜麻は「白村江の戦」(海戦)の倭軍総帥であり、その戦で惨敗して唐の捕囚となった。

 しかし、次のような疑念はあった。
 明日香皇子は麻氐良布神社の祭神であり、筑紫一帯で崇敬されていた人物であった。『日本書紀』が九州王朝隠しを最重要方針として編纂されているとしても、九州王朝の史料が盗用されているのだから、この崇敬されていた人物が『日本書紀』に影も形もないことをいぶかしく思っていた。

 古田さんも当初は明日香皇子と筑紫君薩夜麻は別人と考えていたようだ。そして、663(天智2)年3月に派遣された将軍の一人である三輪君親戚呂(みわのきみねまろ)を明日香皇子に比定していたという。古田さんはその自説を「自ら建て、自ら否定」していく経緯を記録している。自説の修正するに当たっても、キチンと論理的である。

 わたしは本稿の当初においては、これを「三輪君根麻呂」に当てていた。その理由は、次の三つだった。

〈その一)
 彼は「避城と州柔城の戦」において「中軍」の第二に加わっている。

(その二)
 従来、この「三輪」は「大和の三輪」と考えられてきたが、「筑紫の三輪」もある。夜須郡だ。甘木の隣に当っている。

(その三)
 「君」であるから、「大王」に当る。明日香皇子が「大王」と呼ばれているのと相応している。(皇子の「母」からは「王」「君」と〝呼ばれ″ている。)

 けれども、自稿を再思三考するうちに、この「三輪の君」説には、幾多の「欠陥」があることを認めざるをえなかった。次のようだ。

第一
 人麿が、この「三輪君根麻呂」に対して、当人に対し(199、「壬申の乱」へと〝転 化″)、母親に対し(196、「明日香皇女」 へと〝転化″)、妻に対し(194、「泊瀬部皇女忍坂部皇子に獻る」に〝転化″)、当人の殯宮に対し(167「日並皇子尊」へと〝転化″)、当人の父君(甘木の大王)追慕に対し(四五、「軽皇子」に〝転化″)、さらに後述の「舎人の歌二十三首」をふくめ、この「明日香皇子」その人へと、人麿の「作歌エネルギー」は集中している。

 これがもし、「三輪の君根麻呂」のような〝余人″に対するものであったならば、肝心の「筑紫の君、薩夜麻」に対する歌を、人麿は作らなかったのか。この疑問だ。

 もし作っていれば、「万葉の巻一、二、三」の編者はなぜそれを利用しなかったのだろうか。これが疑問だ。

第二
 同じく、もしこの根麻呂が「明日香皇子」だったとしたら、肝心の「筑紫の君薩夜麻」が全く「祭神」などの形で伝承されていないこととなろう。これも、不自然だ。

第三
 根麻呂には「死亡」「捕囚」などの点、全く不明である。

第四
 「壬申の乱」ならぬ「避城と州柔城の戦」を歌った歌(199)において、「吾妻の国」 すなわち、毛野の君等に対する〝呼びかけ″に成功したことが語られているけれど、その発議者、すなわち〝呼びかけ人″として、「筑紫の一部たる三輪」の大王(「君」)では、役不足だ。バランスがとれないのである。

 私が明日香皇子と筑紫君薩夜麻は別人と考えた理由の一つは明日香皇子は戦死したと思い込んでいたことである。私は明日香皇子についていくつか誤解をしていたようだ。そのことを正木裕さんの論文「明日香皇子の出征と書紀・万葉の分岐点」で教えられた。「明日香皇子の戦死」もその誤解の一つであった。199~201番歌を誤読していたのだ。特に反歌201番。(原文改訂部分は正しい原文に戻した。)

埴垣の池の堤の隠沼の行方を知らに舎人はまとふ

 私は「行方を知らに」を死者への哀悼と自らの喪失感をこめた言葉ととらえ、「どこに行ってしまわれたのでしょうか」と解釈していた。長歌(199番)の「百濟の原ゆ 神葬り … 城上の宮を 常宮と … 鎭まりましぬ」という葬儀の描写から、戦死としか考えられなかったからだった。しかし、「行方を知らに」は素直に「行方が分からないので」と解するべきだろう。つまり、明日香皇子は行方不明だった。

 上の引用文で、古田さんは『万葉集』に薩夜麻の影も形もないことをいぶかしく思っている。先ほど指摘したように、逆に『日本書紀』には明日香皇子の影も形もない。

 このように考えてくると、俄然、「薩夜麻=明日香皇子」という等式が浮かび上がってくる。古田さんの論証を読んでみよう。

では、真相はいかに。

 わたしがあらかじめ、一番想定しやすい人物、「筑紫の君、薩夜麻」を除いて、思考してきた、その思考の原点にあやまりがあった。それは次のようだ。

(A)
 わたしは薩夜麻を以て「倭国(九州王朝〉の天子」と見なしていた。ために「大王」や「王」に非ず、としたのである。

 けれども、これをさらに精思すれば、次の問題が存在する。

 薩夜麻は、倭国の『天子』の系列という家柄に生れていたとしても、実際に『天子の位に即く儀礼』を行なったあと、戦陣に臨んだかどうかは、不明である。逆に、その即位の礼を〝対唐・新羅戦の勝利後″に期して出陣して行った。そういう可能性もあろう。

 すなわち、「薩夜麻は、大王に非ず。」という命題は決して確立してはいなかったのである。

(B)
 次は、薩夜麻の「捕囚場所」の問題だ。わたしの思惟は次のように進展してきた。

 (その一)太宰府。
 日本書紀は、彼の「捕囚場所」が記載されていなかったため、白村江の敗戦後、唐軍が筑紫に来たったとき、彼を「捕囚」として連れ去ったか、と考えた。しかしこれは「薩夜麻の妃(皇后)の歌」の発見によって、否定された。

 ここで「薩夜麻の妃(皇后)の歌」と言われているのは3329番(13巻)のことである。これはすでに「みどりこの母の歌(5)」de取り上げている。

 (その二)白村江。
 右の歌では、この年(662。或は3)の「九月」を決戦の時点と称して、彼(薩夜麻)が出陣していったことが、くりかえし強調されている。従ってわたしは彼の「捕囚場所」と「捕囚時期」を白村江の海戦に「比定」したのであった。

 けれども、右の歌で明示され、強調されているのは「決戦時点(海戦)の予告」だけだ。これはおそらく「風と潮のデ一夕」にもとづいて〝算出″され、〝予定″されたところであろう。

 それ故、この歌からは、彼(薩夜麻)の出発(出陣)時点は何等表示されてはいなかったのである。

 (その三)避城と州柔城。
 倭王武が次のようにのべていること、著名である。

 「昔より祖禰(そでい)躬ら甲冑を擐(つらぬ)き、山川を跋渉し、寧處に遑(いとま)あらず。(中略)義士虎賁(こほん)文武功を効(いた)し、自刃前に交わるとも亦顧みざる所なり。」(宋書倭国伝)

 この立場からすれば、筑紫君薩夜麻は、倭国の三軍(前軍・中軍・後軍)を率いて、対唐・新羅交戦の陣頭に立っていた。だからこそ「敗戦の混乱」の中で「捕囚」となったのではあるまいか。

 近畿天皇家は、日本書紀の中で「颯爽(さつそう)たる、悲劇の英雄」としての薩夜麻を描くことを欲しなかった。軍丁(大伴部博麻)の身を奴隷に売って、先立ち帰国した「卑劣漢」として描いた(持統4年10月)。その字面も、帰国時に(天智10年11月)「薩野馬」と記して彼を〝恥かしめ″た。それが近畿天皇家の意思の表現だった。

 すなわち、彼は「白村江の海戦」ではなく、すでに「避城と州柔城の陸戦」のさいに、その消息を断った。そして「捕囚の身」となっていた。その可能性が高いのである。

 そのような、「薩夜麻の悲劇」に対して、九州の本国(筑紫)ではこれを深く悲しんだ。そしてその壮烈な、若々しさに感動した。それが、数々の「人麿作歌」を生む原動力、根本のエネルギーとなったのではあるまいか。

 このように考えてくると、やはり当初から、もっとも抱きやすかったイメージ、「明日香皇子=筑紫君薩夜麻」という命題が、合理的(リーズナブル)だったようである。もちろん「断定」はできないけれど、一番理性ある人々を納得させうる仮説だ。わたしには、そう思われる。

 その「薩夜麻を悼む人磨作歌」が大量に「盗用」された。そして近畿天皇家への讃歌として、万葉の心臓部とされたのであった。
 「白村江の戦」のとき、薩夜麻が天子ではなかったという仮説は正しいと思う。その当時の九州王朝の天子は「伊勢王」であった。つまり薩夜麻は天子ではなくいまだ皇子であった。

(伊勢王については『「天武紀」の伊勢王(1)』『「天武紀」の伊勢王(2)』を参照してください。ただし、伊勢王にまつわる事柄では私にはまだよく分からない点がいくつかある。いくつか修正が必要かも知れない。もし考えがまとまったら再論しようと思う。)

 以上、古田さんは「断定はできないけれども」と慎重だが、私は「薩夜麻=明日香皇子」と断定してよいと思う。
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この記事へのコメント
素朴な疑問。
薩夜麻は663年(662年トモ)の白村江戦で敗北し,唐の捕囚になる。671年(天智10年)11月帰国。
ここからどうして[30年]に渉るという数字が出てくるのか。
671年-663年=8年

[30年]に渉る捕囚生活というのは,690年(持統4年)10月に帰国した大伴部博麻のことではないのか。
2011/05/01(日) 05:56 | URL | 隠居 #hvIICHmQ[ 編集]
Re: 隠居さんへ
> ご指摘ありがとうございます。さっそく書き換えます。
> 私は結構うかつ屋でこういうミスをよくやります。まだいろいろとあるかと思います。またお気づきのことありましたら、お教えください。
2011/05/01(日) 10:07 | URL | 管理人 #-[ 編集]
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