2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(161)

「天武紀・持統紀」(76)


筑紫君薩夜麻とは誰か(17)
(をち)を恋うる嬬(つま)の歌(10)
唐水軍の出立地(6)


 「島夷」についての結論をまとめると次のようになる。

 正史に現れる「島夷」は全て「禹貢」の「島夷」と同じで、揚州の辺境地またはそこの民を指している。『春秋左氏伝』では「島夷」代わりに「東夷」を用いているが、「禹貢」の「島夷」と同じ意味で使われている。そしてその「島夷」の地は、春秋時代の国名で言えば、「越(をち)」がそれに当たる。

 では最後の問題、次の初めの2行をどう解読するのが正しいのだろうか。


島夷は九州の外
泉館は三山に深し


 前々回、私は次のように書いた。

 (上の2行に続く4行について)「白村江の戦」を題材にしているという解読が正しいのなら、(上の第1行)の解釈としては、王維は「島夷」を「倭人(国)」という意味で用いているし、「九州」で「唐」を表わしていると考えて、何の不都合もないと思った。

 この問題についての古田さんの見解を聞いてみよう。

 まず上の2行目について、王維が「島夷」を「倭人(国)」という意味で用いていると解することが正しいことを示すもう一つの論拠と考えている。

 「泉館」ハッキリ言って〝温泉〝ですよ。中国ではただの湧水でも客が集まるらしいが、日本では温泉でなくちゃ客は来ない。その温泉旅館が蓬莱など三山にアチコチある。これは「日本だ、日本だ」と一生懸命に言っているのですね。「泉館の三山」でしょ、泉館は三山の内にあるでしょ。島夷は九州の内にある。と、ここの文脈からいって、そうとらざるを得ない。

 越(島夷)に温泉があったかどうかは分からないが、少なくともそこが「三山に深し」という表現には当てはまらないことは確かだろう。王維は「島夷」を「倭国」という意味で用いていることはいよいよ確かだと思える。

 上の引用文で古田さんは「島夷は九州の内にある」と述べている。つまり古田さんは「九州」は唐ではなく、日本の「九州島」を指していると考えている。そして「島夷九州外」を「島夷の九州は遠地にある」と解釈している。その論拠を次のように説明している。

 「島夷は九州の外」これを「中国の外側」ととるのが普通の解釈。しかし、そうとるなら、そんなことは分り切ったことじゃないですか。内側と思っている奴はどこにも居ない。「島夷」という言葉だけで、中国から見て海外にあたることは自明です。それをわざわざ詩のまんなかにバンとはめ込むのはバカげている。

 これもダブルイメージの使い方であって、もとは「島夷は九州の外」という言葉・用例は王維以前にすでにあるのですよ。諸橋の注に淮南子(えなんじ)からの引用としてすでにある。それを利用しながらさらにダブルイメージで言おうとしているのは、「島夷の九州は遠地にある」ということ。そうでないと詩のあそこの言葉に合わない。

 「島夷」という言葉から「中国から見て海外にあたることは自明」という即断は出来ないことは既に述べた。「島夷は九州の外」という用例が王維以前にすでにあるという後半で示されている論拠はどうだろうか。

 「諸橋の注に淮南子(えなんじ)からの引用としてすでにある。」

 「諸橋」というのは『大漢和辞典』のことだろう。このような場合、古田さんは必ずその該当部分を転載して示している。いま利用している資料は講演録。その講演ではそれが省かれていたようだ。私はこのことを確かめたいので、昨日図書館に行って調べてみた。

 「外」を「遠地」あるいは「遠い」と解釈する論拠だから、まず『大漢和辞典』の「外」を調べた。

①そと。ほか。
 …(ヌ)遠地…
②とほい。

 確かに「外」には「遠地」あるいは「遠い」と言う意がある。しかし、その注の中には淮南子からの引用文はなかった。「⑥よそにする。ほかにする。とりのぞく。」の項に淮南子からの引用文があった。もちろん、島夷や九州とは無関係の文である。念のため「島夷」・「九州」も調べてみた。該当するような引用文はなかった。{淮南子からの引用文」というのは古田さんの思い違いだろう。

 以上より、「島夷九州外」を単純に「島夷は九州(唐)の外」と解釈するのと「島夷の九州は遠地にある」と解釈するのと、どちらが正しいのか、この段階では私には明確に判断できない。…と言う私のようなものを想定して、古田さんは言う。(以下の引用文では理路をたどるのに不要と思われる部分はカットした。)

 こう言っても、なおかつ世間には「そんなことでここの九州が九州島のことだとは決められないよ」とガンバル人がおられるかも知れぬ。そこで私は一つの論証を発見したことを報告したい。

 その論証のあらましは次のようである。

 王維の全詩に「九州」は4回現われる。そのうちの2回は「唐全土」という意味で使われている。それ以外の二回の九州が「送晁監帰日本」と「送従弟蕃游淮南」の九州である。

 また王維の詩の中で「異民族の国へ行く人を送る詩」が全部で29編ある。その中で九州が使われているのは、やはり「送晁監帰日本」と「送従弟蕃游淮南」だけである。この2回について、古田さんは
「この二回の「九州」を今までの注釈者たちは「全世界九州」とやってきたが…」
と述べているが、これは正確さを欠く。正しくは次のようになる。

 「全世界九州」とは騶衍によって拡大解釈されたものである。「送晁監帰日本」の九州については、「唐全土」では理解できないので、この「全世界九州」のことだろうと解釈されてきた。しかし、これが実は日本の「九州島」を指していることは既に論証されている。(詳しくは「王維の詩『送晁監帰日本』について(1)」 「王維の詩『送晁監帰日本』について(2)」 「王維の詩『送晁監帰日本』について(3)」をご覧下さい。)

 「送従弟蕃游淮南」では従来はこの詩に詠まれている戦いは「開元20年(732)から21年(733)に渤海・靺鞨国と紛争を生じ、唐が遠征軍を派遣した事件」とされている。従って、ここでは渤海・靺鞨国が「島夷」であり、九州は「中国全土」と解釈されていると思われる。つまり、「島夷九州外」は単純に「島夷は九州の外」と読むことになる。

 他の外国へ行くときは「九州」を意識しないで、出てくるのは文句なしに日本を指すと思われる場合だけなのか?(中略)その(ほかの)ときは「九州」とは使わないで、日本列島のときだけ「九州」。これ以外に使われた例がない。(中略)この二例の「九州」は、いずれも九州島の「九州」と考えざるを得ない。この論証を「九州唯二の論証」と名付けたのです。

(中略)

 夷蛮を歌った詩二十九編に「九州」が二回しか出てこない。出てくるのは対象が日本の場合だけ。これは「九州」が指すのは全世界ではなくて、九州島をさすからである。九州島をさすのは、そこに字・紫宸殿があった。これは天子を称した勢力の宮殿があったことを示す証拠。さらにもうひとこと言っておきますと、あの従弟蕃の白村江の場合には倭国の九州(直接支配領域の自称)で、だから「罪を問う」根拠になるのだが、いまの阿倍仲麻呂送別の場合はどうか。(中略)今の阿倍仲麻呂が帰ると言った時代にはもう地名の「九州」になっている。歴史的な意味は変っていることもつけ加えさせていただきます。

 王維が用いている「島夷」が倭人を指すことを示す強力な証拠がもう一つあった。この講演録の最後に〔質疑応答の部での追加〕という項があり、そこで「島夷」が使われている王維のもう一つの詩が取り上げられている。まだ解読途中のようで、古田さんは慎重な姿勢を示しているが、私はこれは決定的な証拠だと思う。そのまま引用しておく。

 ごく最近見つけた王維の詩をご紹介したい。それはこういう詩なんです。

「徐郎中を送る」王維

(前略)
島夷、露版を伝え
江館鳴騶を候す
卉服諸吏と為り
珠官本州を拝す
(後略)


 これは中心部分のみを写したのですが、全体の詩の意味は徐郎中が長安以外のところへ赴任して行くのを送ったもの。行く先は南中という淋しいところで、健康にも良くないところらしい。それで早く長安に帰ってきて欲しいというような意味の詩なんですね。贈る言葉にしては、なんかこう「もう、早く帰ってこいよ」みたいな、贈る言葉。その詩の真ん中にこの部分が出てくる。この詩は『続国訳漢文大成』にも出てくるんですが、内容は「平凡としか言えない」としか、さすがの釈清潭さんも書いてない。

 私は詩のこの部分を見て、やはりハッキリ言えば阿倍仲麻呂のことを述べているのじゃないかと感じたのですね。露版というのは報告書、報告書でも完成した、しっかりしたものではなくて、直書のまま、つまり形を整えたのではなくて、自筆で手書きしたままの報告書を言うらしい。日本から来た使いはそんな報告書を持ってきたらしい。

 「江館鳴騶を候す」というのはどういうことかはちょっとよく分りませんが。次の「卉服諸吏と為り、珠官本州を拝す」、ひとりのことを二行に分けて書いてあるだけですね。日本人が唐の官僚になっているというので、それはヤッパリ阿倍仲麻呂だろう。他にもいたかも知れませんが、王経が挙げる筆頭としては阿倍仲麻呂だろう。だから私は、従来言われてないが、これは阿倍仲麻呂と見たい。

 仲麻呂と徐郎中の関係については、この詩では分りませんが、徐郎中という人は身体があまり丈夫でなかったのか、「早く帰ってこいよ」が主旨。そこに日本人が官僚になって良い位置になっているとある。島夷でも高い地位になっているのだから、アンタなんか、また陽の目を見るのは当たり前だろうといっているのかも知れませんね。

 マア私もまだ関係がよく分っていない、二、三日前に見つけたばかりだから。しかしここは阿倍仲麻呂のことだと思う。そして日本古代史に関係する事柄を詠んだ詩はまだまだありうるという気がしている。

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この記事へのコメント
或る違和感。
・この章を読み始めた時から或る“違和感”があった。

・それは日本語で[○○とは誰か。]という場合,通常[○○]に入るのは,“未知”の存在であって,“既知”の,しかも氏素性の知れたものを取り上げることはないのである。

・もっとも,通常知られてはいるが,“人に知られていない”意外な一面を紹介する場合には,“既知”の存在が入ることもなくはない。

・それでも,“属性”を表す言葉は付けないのが普通である。
・ここはどうか。後者の特殊な場合なのだろうか。

・薩夜麻には,既に属性を表す“筑紫君”という言葉が冠せられている。

・この『筑紫君薩夜麻とは誰か』という“問い”の主旨は,

『筑紫君薩夜麻は,帰国後の消息が不明であるが,それは“変名”したからではないか。

・そして,それは“明日香皇子”その人がそうである。』と。

・であるなら,問いの立て方は,
『筑紫君薩夜麻とは誰か』ではなく,
『明日香皇子とは誰か』でなくてはならない。
2011/04/06(水) 12:25 | URL | 隠居 #hvIICHmQ[ 編集]
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