2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(160)

「天武紀・持統紀」(75)


筑紫君薩夜麻とは誰か(16)
(をち)を恋うる嬬(つま)の歌(9)
唐水軍の出立地(5)


(なんだか、再び「番外編」と呼ばなくてはいけないような内容になってきたが、表題と内容との乖離にはあまりこだわらないことにしよう。)

 前回では新唐書までの正史では「島夷」は全て「禹貢九州」の揚州あたりを指していることを確認した。では「東夷」の方はどうだろうか。

【正史に現れる「東夷」】

 実は『尚書(書経)』に「東夷」が一例ある。

『尚書』:1件
「周書」周官:
 成王既に東夷を伐つ。肅慎 來賀す。王 榮伯をして「賄肅慎之命」を作らしむ。


 この編はこの前書きだけで、本文は失われているという。これだけでは、東夷を伐った結果粛慎が來賀したのか、二つの事績が別事項なのか不明だが、前者と考えるのが妥当だろう。また、「左伝」の「昭公9年」条に次の記事がある。

肅慎・燕・亳、吾北土也。 「(武王が殷を滅ぼしたあと)粛慎・燕・亳(はく)は我が国の北領となった。」

 これについて、〈全集〉の注は次のように述べている。

「粛慎は現遼寧省沈陽市から吉林省にかけての地域。燕は北京市附近、亳は現陳西省三原県附近といわれているが、確かではない。この地とすれば、宗周の北限となるが、西周時代として考えると、南に偏している。」

 少し問題点があるようだが、ここの「東夷」は現在の中国の東北部(北朝鮮の北方一帯)を指していることになる。

『春秋左氏伝』:10件
 僖公四年
 齊人執陳轅濤塗。
「齊の人が陳の大夫、轅濤塗を執えた。」
 秋,及江人,黄人,伐陳。
「秋、〔公が〕江の人・黄の人とともに陳を伐った。」

 陳轅濤塗謂鄭申侯曰,師出於陳鄭之間,國必甚病,若出於東方,觀兵於東夷,循海而歸,,循海而歸,其可也…
「陳の轅濤塗が鄭の大夫申侯にいうには『この大軍が陳と鄭とをまかり通られるならば、この両国とも課役で大いに困ります。もし東方に出て、東夷の者どもにも兵威を見せ、海に沿うて帰るならばお互に結構ですが』。申侯『それはよい考えですな』。…)


 これが「東夷」の初出記事である。斉が楚を伐ったときの話で、轅濤塗(えんとうと)のこの提言を申侯が斉公に告げ口をする。これが斉公の不興をかい、濤塗は執えられ、陳は討伐された、という話になっている。

 「左伝」には「東夷」があと9例ある。その記事は次の条に現れる。

僖公十九年・文公五年・文公九年・襄公二十六年・襄公二十九年・昭公四年・昭公五年・昭公十一年・哀公十九年

 すべて「伝」の中で使われている。「哀公十九年」条は「経」がなく「伝」だけである。「哀公十九年」条その該当部分は次の通りである。(他の条は省略する。)

秋,楚沈諸梁伐東夷,三夷男女,及楚師盟于敖。
「秋、楚の沈諸梁が東夷を伐った。三夷(三種類の夷)の男女が楚の軍と敖の地で盟った。」


 この後、あの呉と越の争いの話になる。

 他の条については省くが、「左伝」の「東夷」は明らかに全て「禹貢」の「島夷」と同じである。〈全集〉は「東夷」を「越」の地に比定している。〈全集〉の「春秋地図」の該当部分を転載しておく。

呉越地方

 越は楚の真東にある。「島」と「東」の漢音が同じことでもあるので、地理上の意味を付して、「島夷」を「東夷」と言い替えたのではないだろうか。

 轅濤塗の進言の中に
「東夷の者どもにも兵威を見せ、海に沿うて帰る」
とあるが、これをよんでふと思ったことがある。この場合の出港地は呉と越の間の湾(現在の杭州湾)と思われる。古い時代から重要な港として使われていたようだ。もしかすると、ここが「白村江の戦」での唐の水軍の出港地ではなかっただろうか。

『史記』:3件

五帝本紀第一/ 帝堯
 以變東夷:四睾而天下咸服。 堯立七十年得舜,...


周本紀第四
成王既伐東夷,息慎來賀,王賜榮伯作賄息慎之命。


楚世家第十
 紂為黎山之會,東夷叛之。


 これらの「東夷」を司馬遷がどういう意味で用いたかは分からないが、なんだか変だ。②は『尚書』の1件とまったく同じで、そこからの引用だろう。ここの「東夷」は中国の東北部を指している。

 それに対して、①・③はそれぞれ「堯の事績」・「楚の興亡の記録」だから、そこの「東夷」は揚州あたりを指すことになる。

 司馬遷は①・②・③の「東夷」全てを同じと扱っているようだ。このあたりから「東夷」を中国の外(東方)の異民族という意味に変わっていったらしい。

『漢書』:5件
紀第六/ 元朔元年
 ...軍衞青出雁門,將軍李息出代,獲首虜數千級。東夷薉君南閭等[一]服虔曰:「穢貊在辰韓之...

天文志第六
 ...,華山以西。壬癸,常山以北。一曰,甲齊,乙東夷,丙楚,丁南夷,戊魏,己韓,庚秦,辛西夷...

地理志第八下/ 燕地 ...帚?多,至六十餘條。可貴哉,仁賢之化也!然東夷天性柔順,異於三方之外,[八]師古曰:..

揚雄傳第五十七下/ 長楊賦
 太階,解在東方朔傳。」「其後熏鬻作虐,東夷畔,...

王莽傳第六十九上
 越裳氏重譯獻白雉,黄支自三萬里貢生犀,東夷王度大海奉國珍,匈奴單于順制作,去二名,...


 私には原文を正確に読む知識がないが、「東夷」が朝鮮半島にまで拡大解釈されてきたことが分かる。

『後漢書』:9件
紀第一下/ 建武二十年
 見前書。乙未,徙中山王輔為沛王。 秋,東夷韓國人率眾詣樂浪内附。

紀第一下/ 光武帝 中元二年
 二年春正月辛未,初立北郊,祀后土。東夷倭奴國王遣使奉獻。東夷倭奴國王遣使...

 東夷列傳第七十五
 因王其國。百有餘歳,武帝滅之,於是東夷始通上京。王莽簒位,貊人寇邊。

...即使者,譯則譯人。故國俗風土,可得略記。東夷率皆土著,憙飲酒歌舞,或冠弁衣錦,器用俎...

東夷列傳第七十五/ 夫餘
...浮水上,東明乘之得度,因至夫餘而王之焉。於東夷之域,最為平敞,土宜五穀。出名馬、赤玉、...

...玉匣付玄菟郡,王死則迎取以葬焉。 建武中,東夷諸國皆來獻見。二十五年,夫餘王遣使奉貢,...

東夷列傳第七十五/挹婁
便乘船,好寇盜,鄰國畏患,而卒不能服。東夷夫餘飲食類(此)皆用俎豆,東夷夫餘...

東夷列傳第七十五/ 高句驪
...作不足以自資,故其俗節於飲食,而好修宮室。東夷相傳以為夫餘別種,故言語法則多同,而跪拜...


東夷列傳第七十五/
…回頑薄之俗,就略之法,行數百千年,故東夷通以柔謹為風,異乎三方者也。苟政之所暢…


 ここで「東夷」に倭国が加わえられた。これ以後、全ての正史はこの拡大された意味で「東夷」を用いることになった。

 以上、正史しか用いていないので、正しい経緯をつかめたかどうか、心もとない。正史以外の資料も用いると、もっと違った経緯が加わるかも知れないが、取りあえずこれでよしとしておこう。(間違ったことがありましたら、ご教示ください。)
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