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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(158)

「天武紀・持統紀」(73)


筑紫君薩夜麻とは誰か(14)
(をち)を恋うる嬬(つま)の歌(7)
番外編:「禹貢」を読む。(2)


 淮海は、惟れ揚州。彭蠡(ほうれい) 既に豬し、陽鳥(ようちょう)居(お)る攸(ところ)。三江 既に入り、震沢(しんたく) 厎(いた)し定め、篠蕩(しようとう) 既に敷く。厥(そ)の草は、惟れ夭(よう)。厥の木は、惟れ喬(きよう)。厥の土は、惟れ塗泥(とでい)。厥の田は、惟れ下の下。厥の賦は、下の上、上錯す。厥の貢は、惟れ金三品、瑤、琨(こん)、篠(しょう)、蕩、歯、革、羽、毛、惟れ木。島夷は、卉服(きふく)す。厥の篚(ひ)は、織、貝。厥の包は、橘柚、錫貢(せきこう)す。江海に沿いて、淮泗に達す。

ここに「島夷卉服」が出てくる。〈全集〉は「島夷」についての記述部分を次のように意訳している。
「海辺の異民族たちも、もとどおり草で作った衣服を着るようになった。籠に入れて献上するのは、細かい紵(あさ)の糸と貝がら。包んで献上するのは、橘(みかん)と柚(ゆず)。これらは、命令があった時だけ献上する。」

 「島夷」を「海辺の異民族」としている。冀州の項で引いたように、「島夷」の「島」について、〈集注〉は「海曲を島と曰う。」と書いている。これを踏襲した解釈だ。


 「曲」は日本語では「わ」「わだ」とも読み、それぞれ次のような意をもつ。(『広辞苑』より)

わ【曲・回】
山・川・海などの入りまがって一区域をなした所。み。永久百首「峰の―のむら草隠れきぎす鳴くなり」。「浦―」「島―」「川―」

わだ【曲】
(ワタとも)地形が入りまがっていること。また、そのところ。万葉集(1)「志賀のおほ―淀むとも」

 また、『漢和大字典』(博友社)には
「海中の小陸地。又は海中に突出せる陸地。」「半―」
とある。

 つまりここでの「島」は、現在私たちが使っている意味での島(海の中の小陸地)ではなく、海岸の曲がりくねった所を意味している。湾あるいは半島のような所。「禹貢地図」では江水の南の杭州湾(ハンチョウ湾)あたりだあろうか。江水と杭州湾にはさまれた半島かもしれない。

禹貢地図

 ところで、〈集注〉は冀州項の「鳥夷」を「原文改訂」の方の「島夷」ととって
「海曲を島と曰う。海島の夷、皮服を以て來貢す。」
と解説していたのに、ここの「島夷」については次のように論じている。

「島夷は、東南海島の夷なり。卉は、草なり。葛越木綿の屬なり。織貝は、錦の名。織りて貝の文を爲る。詩に曰く、貝錦とは是れなり。今南夷木綿の精好なる者も、亦之を吉貝と謂う。海島の夷、卉服を以て來貢す。而して織貝の精しき者は、則ち篚に入るる。包は、裹[つつ]むなり。小なるを橘と曰い、大なるを柚と曰う。錫とは、必ず錫命を待ちて而して後に貢す。歳貢の常に非ざるなり。張氏が曰く、必ず命を錫いて乃ち貢する者は、祭祀に供し賓客を燕するときは、則ち之を詔[まね]く。口腹の欲には、則ち令を出だし難し、と。」

 ここでは「東南海島の夷」と言っているが、その「島」は周囲が海に囲まれた「島」と主張しているように読める。冀州項の「島夷」とは別種と考えているようだ。冀州項では「島夷皮服」であり、揚州項では「島夷卉服」なのだから、別種と見るほかないのだろう。また、「卉」を木綿の一種と解している点が注目される。「草葉をまとった」というような未開人扱いをしているわけではない。

 それでは「東南海島」としてどこを念頭においていたのだろうか。

「周の(成王の)時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯草(ちょうそう)を貢す」(『論衡』)

 ここに出てくる「倭人」を、古田さんは「九州の倭人」と言っているが、〈集注〉の筆者は、あるいはこの『論衡』の一文を念頭に浮かべていたかも知れない。この『論衡』の記事は後に再び取り上げることになるだろう。

 余談ながら、ネット検索で「台湾先住民族と日本人の脱植民化を考える」(報告者:中村 平(日本学術振興会特別研究員、京都大学人文科学研究所)という副題が付く論文に出会った。その中に、「第二期タイヤル民族会議第一回大会のパンフレット」からの引用ということで、次のような文が掲載されていた。

「人類学者王嵩山(ワンソンシャン)先生によれば、前史時代の文化の主人は台湾北部のタイヤル民族とサイシャット民族であり、台湾に到来した時期は最も早く、今から約五千から六千年前である」。
「太古よりわれわれは、南投の埔哺里以北の平地に、さらに海岸地帯まで住んでいた。尚書の禹貢揚州項によれば、『島夷卉服 厥篚織貝 錫貢』の記載があり、今から四千年以上も前に、既に夏禹と貿易関係を持っていた。当時、珠衣(ビーズのついた服)を貨幣として、あるいは着ていた人々はタイヤル民族しかいなかった」。

 つまり〈集注〉が言う「「東南海島」を「台湾島」としている。「織貝」を「珠衣(ビーズのついた服)」と解釈している点などから〈集注〉の解説を採用しているものと思われる。しかし、「禹貢」の「島夷」を台湾に比定するのは牽強付会の感を否めない。「夏」の時代に台湾の住民と中国の住民とが交易していた記録があるのかどうか、私には分からないが、上に挙げた『論衡』の記事が示すように、台湾と中国が交易していたこと自体はおおいにあり得ることだと思う。

 荊及び衡陽は、惟れ荊州。江漢 海に朝宗す。九江 孔(はなは)だ殷(ただ)し。沱濳(たせん)既に道し、雲土夢(うんどぼう) 乂(がい)を作(な)す。厥(そ)の土は、惟れ塗泥(とでい)。厥の田は、惟れ下の中。厥の賦は、上の下。厥の貢は、羽(う)、毛(もう)、歯(し)、革(かく)、惟れ金三品(かねさんぴん)、杶(ちゅん)、榦(かん)、栝(かつ)、柏(はく)、礪(れい)、砥(し)、砮(ど)、丹(たん)。惟れ菌(きん)、〔竹/輅〕(ろ)、楛(こ)、三邦 厄(いた)し貢し、厥(そ)れ名あり。包(ほう)し、菁茅(せいぼう)を匭(き)にす。厥の篚(ひ)は、玄(げん)、纁(くん)、璣(き)、組(そ)。九江 大亀を納錫(のうせき)す。江沱濳漢に浮びで、洛を逾え、南河に至る。

 「雲土夢」について、〈全集〉は「古文は雲夢土に作る」と注記している。つまりこれは韓信が謀られて捕縛されたときの舞台、あの「雲夢」のことである。

荊河は、惟れ豫州。伊洛瀍澗(いらくてんかん) 既に河に入る。滎波(けいは) 既に豬す。菏沢(かたく)を導きて、孟豬に被(こうむ)らしむ。厥の土は、惟れ壌。下土は、墳壚(ふんろ)。厥の田は、惟れ中の上。厥の賦は、上中を錯(まじ)う。厥の貢は、漆(しつ)、枲(し)、絺(ち)、紵(ちよ)。厥の篚は、繊纺(せんこう)。磐錯(けいさく)を錫貢す。洛に浮びで、河に達す。

華陽黒水は、惟れ梁州。岷嶓(びんは) 既に藝し、沱潛 既に道し、蔡蒙(さいぼう) 旅平(りょへい)し、和夷(わい) 績(せき)を厎(いた)す。厥(そ)の土は、青黎(せいれい)。厥の田は、惟れ下の上。厥の賦は、下の中、三錯す。厥の貢は、璆(きゅう)、鉄、銀、鏤(ろう)、砮(ど)、磬(けい)、熊(ゆう)、羆(ひ)、狐(こ)、貍(り)の織皮(しょくひ)。西傾(せいけい)より桓に因て走れ来たり、潜に浮び、沔(べん)を逾(こ)え、渭に入り、河を乱(わた)る。

 「和夷」の前後の文書を〈全集〉は次のように訳している。
「蔡山(さいざん)、蒙山(ぼうざん)に旅(りょ)の祭りが行なわれて(そこにおける)仕事は完成し、和夷の地の治水にも成功して、耕作が行なわれるようになった。」

 また揚州項に出てくる「三江」についての注では次のように述べている。
「三江を現在のどの川に当てるかについては、古来諸説がある。(中略)下の導水の条でも知られるように、禹貢の作者の揚子江下流域に関する地理的知識は、きわめて不完全である。西北地方(おそらく秦の国)の人の手になる地理書であるので、長江下流域の現実の地理と正しく比定できない部分があるのは、やむをえないことであろう。」

 〈集注〉は「和夷」についてのいろいろな説を紹介した上で
「覃懷[たんかい]・原隰、既に皆地の名なるときは、則ち此れ恐らくは地の名爲らん。或は地の名の水に因るも、亦知る可からず。」

 このようなわけで、「禹貢地図」にも「蔡蒙」や「和夷」の比定には「?」が付されている。

黒水西河は、惟れ雍州(ようしゅう)。弱水 既に西す。(けい) 渭汭(いぜい)に属(しょく)す。漆沮(しつしょ) 既に従う。澧水(ほうすい) 同じうする攸(ところ)。荊岐(けいき) 既に旅す。終南惇物(とんぶつ)より、鳥鼠(ちょうそ)に至り、原隰(げんしつ) 績(せき)を厎(いた)して、豬野(ちよや)に至る。三危(さんき) 既に宅(たく)し、三苗(さんびよう) 丕(おお)いに叙(じょ)す。厥(そ)の土は、惟れ黄壌(こうじょう)。厥の田は、惟れ上の上。厥の賦は、中の下。厥の貢は、惟れ球、琳、琅玕(ろうかん)。積石に浮びて、竜門西河に至り、渭汭(いぜい)に会す。織皮は、崐崘(こんろん)、析支(せきし)、渠(きょ)、捜(そう)。西戎(せいじゅう) 叙に即(つ)く。

 最後の「西戎」について文の〈全集〉の訳は次の通りである。
「(禹の功績によって)毛織物を着た崐崘、析支、渠、捜の西方の異民族の四つの国も、安定することとなった。」

 「鳥夷皮服」・「島夷卉服」と同様の書き方をすると「西戎織服」ということになろう。それぞれ、毛皮・木綿・毛織物を常用服に用いていた。はっきりと三様の異なる風俗が示されている。

 以上、「禹貢」には6通りの「夷」が登場している。まとめると
冀州……鳥夷
青州……嵎夷・萊夷
徐州……淮夷
揚州……島夷
梁州……和夷

 これらは皆、禹貢九州内の住民である。「島夷」だけを禹貢九州外の異民族であるする解釈は成り立たないと、私は思う。もちろんこの結論はあくまでも「夏書禹貢」という文書の中でのことである。「禹貢九州」から「禹貢九州」とは異なる「九州」概念が生まれたと同じように、後世には「島夷」という言葉で中国外の異民族を表わすようになることはおおいにあり得ることだろう。
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