2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(157)

「天武紀・持統紀」(72)


筑紫君薩夜麻とは誰か(13)
(をち)を恋うる嬬(つま)の歌(6)
番外編:「禹貢」を読む。(1)


 前回までは、古田さんの理論が納得できたので、古田さんの論述に従ってその説を再構成してきた。ただし、手元にある資料で間に合わしたので、古田さんが用いているものとは異なる資料を用いたところもある。

 そして今回は、最後に残った次の2行の解読に入る予定だった。

島夷は九州の外
泉館は三山に深し


 しかし、この問題についての古田さんの論述には、分からないことや疑問に思うことがあって、まとめあぐんでいる。そこで今回からは今までとは違った書き方をすることにした。いろいろ調べたり考えたりしたことと古田さんの論述とを対比しながら進めることにする。

 さて、始めて出会う知らなかった事柄がある。問題解明のキーワードの一つとなっている「島夷卉服」。この語の出典は「夏書」冒頭の「禹貢」である。この際原点に戻って、しっかりと勉強しておこうと思い立ち、「禹貢」を全部読んでみることにした。(ユニコードでなければ表示できない漢字が一杯で大変だったが頑張りました。)

 なお、「島夷卉服」でインターネット検索をしたら、いろいろ興味深い記事に出会った。それらも適時利用していく。特に「書經集註」という宋時代の注解書が全文公開されているのにはびっくりした。これを単に〈集注〉と呼ぶことにする。また、底本に使っている筑摩の世界古典文学全集を〈全集〉と略す。

 禹貢(うこう)

禹 土(ど)に敷き、山に随(したが)いて木を刊(き)り、高山大川を奠(さだ)む。


高山
 五岳〈嵩(すう)山、泰山、衡山、華山、恒山〉のこと。
大川
 四瀆(しとく)〈江水、黄河、淮水、済水〉のこと。

 高山大川によって各々の州の境界を定めたと述べている。以下、九つの州について、禹が治水の仕事をしつつ巡り歩いたという形式で記述される。

冀州 既に載す。壺口(ここう)より梁及び岐を治む。既に太原を修めて、岳陽に至る。覃懐(たんかい)より績を厎(いた)して、衡漳(こうしょう)に至る。厥(そ)の土(ど)は、惟れ白壌。厥の賦(ふ)は、惟れ上の上、錯(まじ)う。厥の田(でん)は、惟れ中の中。恒衛(こうえい)既に従い、大陸 既に作す。鳥夷(ちょうい) 皮服(ひふく)す。碣石(けっせき)を夾右(きょうう)して、河(か)に入る。

 以下、読解のための「注」として、地名については必要最低限の確認だけをする。また、物産品についても深入りしない。また、地図を見ながら読み進めると分かりやすいので、「禹貢地図」を再掲載しておく。

禹貢地図

 冀州は当時の都があった州である。その都が九州の中心である。倭国九州では紫宸殿があった太宰府ということになる。

 各州の領域と税制が書かれている。税には「賦」と「貢」の2種類がある。賦は中央が定めて取り立てる税であり、主として米穀が当てられている。貢は人民が献上するという性格の税で、各地の特産物が当てられている。また、その課税の額は上の上(第一等)から下の下(第九等)まで9等級がある。

 この項で目に付くのが「鳥夷皮服」である。〈全集〉の注によると、一般のテキストでは「島夷被服」となっているが、これは唐の衛包という学者による「原文改訂」だという。

 〈集注〉では「島夷皮服」となっていて、
「海曲を島と曰う。海島の夷、皮服を以て來貢す。」
と解説している。〈全集〉は
「恒水(こうすい)と衛水(えいすい)は、故の河道にもどり、大陸の地では耕作が可能となり、海辺の異民族たちも、もとどおり皮の衣服を着るようになった。」
と意訳している。〈集注〉と同じ解釈である。つまり、「原文改訂」の方を採用している。「もとどおり…」は意訳しすぎで、ただ単に「皮の服を着用している」でよいのではないか。

 原文通り「鳥夷」で解釈するとどうなるのだろうか。前後の文章と「鳥」とか「皮服」とかから考えると、むしろ恒山あたりの山の民だろう。

済河(せいか)は、惟れ兗州(えんしゅう)。九河 既に道(みち)し、雷夏 既に沢し、灉沮(ようしょ) 会同す。桑土 既に蚕し、是に丘を降り土に宅(お)る。厥の土は、黒墳。厥の草は、惟れ繇(よう)。厥の木は、惟れ条。厥の田(でん)は、惟れ中の下。厥の賦(ふ)は、貞(ただ)し。作すこと十有三載にして、乃ち同じ。厥の貢は、漆絲(しっし)。厥の篚(ひ)は、織文(しょくもん)。済漯(せいとう)に浮びて、河に達す。

 「篚(ひ)は・・・」は「籠に入れて差し出すものは・・・」と言う意。後に「包は…」という言い方が出てくるが、これは「包んで差し出すものという意である。

海岱(かいたい)は、惟れ青州。嵎夷(ぐうい) 既に略し、濰淄(いし) 其れ道す。厥の土は、白墳(ふん)。海浜(かいひん)は、広斥(こうせき)。厥の田は、惟れ上の下。厥の賦は、中の上。厥の貢は、塩絺(えんち)、海物(かいぶつ) 惟れ錯(まじ)う。岱畎(たいけん)の絲(し)、枲(し)、鉛、松、怪石。萊夷(らいい) 牧(ぼく)を作(な)す。厥の篚(ひ)は、檿絲(えんし)。汶(もん)に浮びで、済(せい)に達す。

 ここに出てくる「嵎夷」を、「?」つきながら、「禹貢地図」は朝鮮半島の北方に比定している。それに対して、『尚書正義』(唐時代の注釈書)が「東北は海に拠(また)がり、西南は岱に距(いた)る」と読み、渤海を起えて朝鮮半島の一部も青州に入るとしたことによるようだ。これも中華思想による拡大解釈の一つだろう。ちなにみ、〈全集〉は「海岱」を「東の海から泰山まで」と訳している。また、「倭夷のことで日本人である」とする説もあるという。この二つの説はどれも私にはまったく納得できない。

 「萊夷」については〈集注〉は
「萊夷は、顏師古(初頭の学者)が曰く、萊山の夷。齊に萊侯萊人有り、と。萊即ち今の萊州の地なり。牧を作すとは、言うこころは、牧放す可し。夷人は畜牧を以て生を爲す。」
と解説している。萊山がどこなのか確かめることができないが、私には「禹貢」に出てくる「夷」は全てそれぞれの州の辺境(中心の都から眺めて)の住人を示しているとしか読めない。

海岱及び淮は、惟れ徐州。淮沂(わいぎ) 其れ乂(おさま)り、蒙羽 其れ藝(げい)す。大野 既に豬(ちょ)し、東原 厎(いた)し平らぐ。厥の土は、赤戠墳(せきしょくふん)。草木は漸苞(ぜんほう)す。厥の田は、惟れ上の中。厥の賦は、中の中。厥の貢は、惟れ土五色、羽畎(うけん)の 夏翟(かてき)、嶧陽(えきよう)の孤桐(ことう)、泗浜(しひん)の浮磬(ふけい)、淮夷の蠙珠(へんしゅ)、曁(およ)び魚。厥の篚は、玄繊縞(ぜんせんこう)。淮泗に浮びて、河に達す。

 「淮夷」の位置は明白だ。「貢」が海産物なのだから、淮水の河口あたりの住民だろう。
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