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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(156)

「天武紀・持統紀」(71)


筑紫君薩夜麻とは誰か(12)
(をち)を恋うる嬬(つま)の歌(5)
唐水軍の出立地(3)


 王維の詩「従弟蕃の淮南に游ぶを送る」は題が示すとおり、表面上は王維と従弟蕃のやりとりが描かれている。しかし、裏面では手柄を立てながら報われなかった人を詠っている。そして、9行~12行にはある歴史上の事実が詠われているが、そこにもう一人の「禽」が暗示されている。誰だろうか。


むしろの帆もていささか罪を問い
卉(くず)の服きたるは盡く擒となる
帰り来たりて天子にまみえ
爵を拝して黄金を賜う


 おおよそ次のよう意になろう。

「敵対している国(いささか罪ある国)を服従させるために船団(むしろの帆もて)を組んで遠征した。そして敵兵(卉の服きたる)はことごとく捕虜となった。勝利を収めて帰還し、天子からねぎらいの盃を受け、褒美に黄金を賜った。」

 従来はこの戦いを、『趙殿成注王右丞集箋注』の説を取り入れて、「開元20年(732)から21年(733)に渤海・靺鞨国と紛争を生じ、唐が遠征軍を派遣した事件」としている。しかし、この遠征は失敗し、唐軍は何の成果も上げられずに帰還している。要するに敗戦したのだった。とても「爵を拝して黄金を賜う」ことなどあり得ない。この矛盾を趙殿成は次のように解決している。

「或いは疑う、この時、軍出でて功なし。いずくんぞ拝爵賜金のこと有るを得んや。無くんばすなわち、固(こ)に近からんか。蓋し、詩人の溢美(いつび)の語なり。」

 功がないのに褒美を貰うわけがない。それなのに従弟の蕃などが褒美を貰ったらしく描くのは、人間がいやしい(「固」)。詩人が誇大に美化した表現だ(溢美の語)。このように述べている。

 つまり、詩の内容が自説に合わないことを詩人のせいにしているのだ。三流どこの詩人ならいざ知らず、王維ほどの詩人がそのような詩を創るだろうか。これは濡れ衣ではないか。理性的な者なら、自説(仮説)を疑うべきであろう。

 趙殿成説にはもう一つ矛盾がある。隋・唐の高句麗攻めでは海軍も使われたようだが、渤海・靺鞨国攻めは陸戦だけではないだろうか。「むしろの帆もて」という詩句が浮いてしまう。もっともこのことについての私の知識は韓国歴史ドラマ(「ヨンゲソムン」とか「テジョヨン」)から得たものだから、確言はできない。

 ではここに記されている戦いは何なのだろうか。唐が「帰り来たりて天子にまみえ/爵を拝して黄金を賜う」ほどの大勝利を挙げた戦い。それに当てはまるのは「白村江の戦」しかないだろう。この場合だと「いささかの罪」とは「唐以外に九州を名乗り、天子を名乗る」罪であり、それを「むしろの帆もて」懲らしめるとなり、詩句の表現と矛盾しない。そして、その結果は「卉の服きたるは盡く擒と」なった。

 王維は8世紀前半の人で、「白村江の戦」は70年~80年ほども以前の事件ということになるが、そのことには別段不審はない。大日本帝国の敗戦は70年ほどの前のことになるが、今でもあの戦争にまつわることを盛り込んでいる詩はいくらでもいるだろう。しかも、王維の詩の場合は、「白村江の戦」を題材に取り上げるきっかけがあった。そして「白村江の戦」を詠い込みながら、「空しく天の際」に残るもう一人の「禽」を暗示することにその詩の重点がある。それは次のような歴史的事件が背景になっている。

 「白村江総の戦」での唐の司令官は劉仁軌であり、『日本書紀』に出てくる劉仁願は副将だった。劉仁願は大活躍しているが、あくまでも劉仁軌の指導の下での活躍だった。この二人の後日談は次のようだ。

 歳をとった劉仁軌は引退を願う上表文を出すが、引退は許されなかった。かえって高い役職を与えられている。そして垂拱元年(685)年に84歳で亡くなる。そのときの唐の実力者・則天武后は「廃朝三日」(朝廷の公務を3日間休み、功臣の死を悼むこと)という異例の待遇で死を弔った。劉仁軌は恵まれた一生を送った人と言えよう。

 ところが、その子の「濬(シユン)」のとき「垂拱2年(686)、酷吏のために陥れられ、殺され、妻子籍没(除籍、いなかったことにされる)」という憂き目に会う。しかし、その子の「冕(ベン)」は秘書省小監となり、「表して請い、仁軌の為に碑を立つ」と、一族の名誉回復を成し遂げた。これは玄宗皇帝の開元年間(713~741)のことであり、まさしく王維と同時代の出来事であった。これが王維に70年ほどの前の「白村江の戦」を思い起こさせたのだった。

 劉仁軌の一族は、一度は大変な目に会っているが、最後は名誉回復を遂げた。ところが「白村江の戦」で実質的な大活躍をし、勝利の直接の功績者であった劉仁願は、褒美をもらうどころか、高宗の総章元年(668)に姚州(ようしゅう)に流刑されるという憂き目に会っている。それも「高麗の戦で滞在が長すぎ、期日に遅れた」という変な理由でであった。王維がこの詩を作った頃には、劉仁願はすでに亡くなっていただろう。そして、仁願の一族は名誉回復されずに終わってしまっている。

 韓信を殺したのは高祖の皇后・呂后であった。劉仁願を流刑に処したのは誰だろうか。高宗の時代だが、実力者は皇后の則天武后だから、則天武后に流された。ここまで二人は符合している。劉仁願こそ「空しく天の際」に残っているもう一人の「禽」にふさわしい。

 見てきたようななんとか、になりそうだが、王維の詩作の経緯を想像してみよう。

 劉仁軌一族の名誉回復譚という同時代ニュースから「白村江の戦」を思い出し、悲劇の劉仁願を詠い込みたかった。王維がこの詩を書いた時代は、則天武后はもう死んでいて、玄宗皇帝の時代だった。しかし、まだ同じ王朝が続いているのだから、劉仁願は則天武后によって無実の罪に落とされたとは、表立っては書けない。そこで、最初に漢の時代の有名な韓信の話を暗示し、続いて汚名を着たままの劉仁願を暗示的に詠み込んだ。
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