2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(154)

「天武紀・持統紀」(69)


筑紫君薩夜麻とは誰か(10)
(をち)を恋うる嬬(つま)の歌(3)
唐水軍の出立地(1)


 唐水軍の出立地が中国の越だとすると、それは倭国将兵の捕囚地が越であることの重要な証拠の一つとなる。そこで、ちょっと横道に入るきらいがあるが、唐水軍の出立地についての古田さんによる論証を取り上げよう。

(「日中関連史の新史料批判 - 王維と李白」を教科書にしますが、これは講演録でした。いろいろな話題が盛り込まれていてかなり複雑なので、必要な部分だけを私なりに再構成します。すべて古田さんの論考による記事なので、いちいち「古田さんよれば」というような断り書きを省きます。)

 王維に「送従弟蕃游淮南」(従弟蕃の淮南に游ぶを送る)という詩がある。次のようである。(読下し文は王維研究家・入谷仙介氏による。)

書を読み復た騎射し
剣を帯びて淮陰に游ぶ
淮陰の少年の輩は
千里遠く相尋ぬ
高義はおのずから隠し難く
おさまれる代にいずくんぞ沈み隠れん
島夷は九州の外
泉館は三山に深し
むしろの帆もていささか罪を問い
卉(くず)の服きたるは盡く擒となる
帰り来たりて天子にまみえ
爵を拝して黄金を賜う
忽ち鱸魚(ろぎょ)の檜(なます)を思い
また滄州の心あり
天は蒹(おぎ)と葭(よし)の渚に寒く
日は雲夢の林に落つ
江城に楓の葉はちり
淮の上(ほとり)に秋の砧(きぬた)を聞く
帰るを送るは青門の外
馬車は去くこと駸駸たり
新豊の樹にこころむすぼれて
空しく天の際(はて)の禽をのこす


 まず、「九州」について。

 九州については「王維の詩『送晁監帰日本』について(2)」で学習済みだ。詩「送晁監帰日本」の中に出てくる九州は日本の九州を指していた。今度の場合はどうだろうか。今度の場合も「九州」の解明がこの詩を解読するカギとなる。

 ところで「九州」という語が表わす概念は四通りあるようだ。それをまとめておく。


 禹帝が中国国内を九つの地域に分割した。これを「禹貢(うこう)九州」と呼んでいる。

 後に、戦国時代の学者騶衍(すうえん)が「禹貢九州」を拡大解釈した九州。中国の外に同じような世界が九つあり、その全世界の中心が中国であるとする。いわば「全世界九州」説。

 現代の学者による説で、これも「禹貢九州」の拡大版で唐時代の中国全土が本来の「九州」だとする。つまり「中国全土九州」説。

 「日本の九州島」説

 この四つの九州のうち、どれが該当するかが問題になっている。

 「送晁監帰日本」のとき、「禹貢九州」についてはよく分からないままやり過ごしてしまっていた。『詩経国風・書経』(筑摩書房版世界古典文学全集)が手元にあるので調べてみた。

『書経』の中の一書・「夏書」の冒頭
禹貢 第一
 禹別九州。随山濬川。任土作貢。


(読下し文)
 禹 九州を別ち、山に随い、川を濬(さら)え、土(ど)に任じて、貢(こう)を作る。

(現代語訳)
 禹は、九つの州の境界を定め、山々を巡り、川を浚(さら)って深くし、その土地土地の産物によって、朝廷への献上物の種類と額とを定めた。

 この後、九つの州それぞれについて、その地理・風土・産物・貢物などの記述が続く。それをもとに作成された「禹貢九州」の地図が掲載されていたので、それを転載しておく。

禹貢地図

 この地図を見ると、上の③説は正確でなくダメなことが一目瞭然だ。次の唐時代の地図(中国旅行情報局から拝借)と比べてみよう。

唐時代地図

 「禹貢九州」は唐全体の四割ぐらいだろうか。呉は「禹貢九州」に入っているが越は入ってない。現代の広西省や福建省は入ってない。もちろん、雲南省や新疆が入っているわけがない。あくまでも本来の「九州」は「「禹貢九州」であり、これを改編することは許されない。

 さて、私は中国の地理には暗い。地名を聞いただけでは地図でどこなのか指し示すことが出来ないものが多い。そこで次に、詩に出てくる地名を確認しておこうと思う。

淮南(えなん)
 現在の安徽省淮南市で、今は漢音で「わいなん(中国語読みでファイナン)」と呼ばれているようだ。
淮陰
 江蘇省淮安市。2001年以前は淮陰市と呼ばれていた。

 淮南市・淮安市・南京市を結ぶと正三角形が出来る。その三角形の中に中国で4番目に大きい洪沢湖(こうたくこ)がある。洪沢湖は淮水(現在は淮河と呼んでいる)が形成した湖で、淮水はそこを流れ出て揚子江(長江)に合流している。その三角形は「禹貢地図」では淮水と江水の間の海よりの地帯になる。

 「禹貢地図」では淮水は東西に流れている。現在は南北に流れる。これには次のような事情がある。

「淮河はかつて淮安から東の黄海へと流れていたが、黄河の流路が南へ移り淮河の流路を乗っ取ったために淮河は溢れ出して南の長江へと流れるようになった。このときあふれた水で形成されたのが、淮安西部の市境に広がる中国第4位の大きさの湖・洪沢湖である。」(「ウィキペディア」より)

滄州
 滄州市は北京市の南に位置している。その2市の中程よりやや南の位置に天津市がある。「禹貢地図」では「泰山」の少し北の「済水(せいすい)」のあたりだろうか。

 次に詩の内容に立ち入ってみよう。

 いきなり最後の4行から。

従弟蕃の淮南に游ぶを送る
・・・・・・
帰るを送るは青門の外
馬車は去くこと駸駸たり
新豊の樹にこころむすぼれて
空しく天の際(はて)の禽をのこす


 王維は淮南へ行く従弟の蕃のために別れの宴をはった。酒宴の場所は長安の南の郊外にある新豊。ここは酒の名産地でその酒を「新豊の酒」といって王維の詩によく出てくる。日本の「灘の生一本」のようなブランドもの。そこで帰り道に青門、これも固有名詞で長安の東南の門である。そこを通って帰って行った。

この詩は文学的表現の裏に政治的表現が暗喩されている複雑な詩である。いずれ最終行に隠された意味を問うことになるだろう。
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