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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(153)

「天武紀・持統紀」(68)


筑紫君薩夜麻とは誰か(9)
(をち)を恋うる嬬(つま)の歌(2)
「越」とはどこか。


 194番・195番が「明日香皇子とその妻」の関係を詠った歌だということを確実に示す決め手は「越」がどこをなのかを明らかにすることである。

妹を見ず越の國邊(くにべ)に年經れば我が情(こころど)の和(な)ぐる日もなし(4173)
しなざかる越の君らとかくしこそ楊(やなぎ)蘰(かづら)き楽しく遊ばめ(4071)
み雪降る越の大山行き過ぎていづれの日にかわが里を見む(3153)


 上の歌を読むとき、振り仮名が付いていなくとも、だれでも「越」を「こし」と読むだろう。

 では195番の「越野」はどうだろうか。全くの素人の私は、振り仮名がなければ、「こしの」と読んでいただろう。では、この場合はどうして「こし」ではなく「をち」と読むのだろう。

 4071番・3153番にあるように、「こし」の枕詞は「しなざかる」あるいは「み雪降る」である。194番・195番では「玉垂乃越」・「玉垂之越野」であり、「たまだれの」という枕詞が使われている。これについて〈大系〉の頭注は次のように解説している。

「玉を緒につらぬいて垂れるものをいうか。ヲ(緒)にかかる枕詞。」

 「玉垂れの」という語句を含む歌は他に三歌ある。

玉垂の小簾(をす)の間通しひとり居て見る験(しるし)なき暮月夜(ゆふづきよ)かも(1073)
玉垂の小簾の隙(すけき)に入り通ひ來(こ)ねたらちねの母が問はさば風と申さむ(2364)
玉垂の小簾の垂簾(たれす)を行きかちに寝(い)は寝(な)さずとも君は通はせ(2556)


 これは「玉垂」を「ヲ(緒)にかかる枕詞」という解説が正しいことを示している。人麿は「越」を「こし」ではなく「をち」と読ませたかった。つまり人麿は、これは「越(こし)の国」ではないと強調しているのだ。

 では、その「越(をち)」とはどこか。〈大系〉は194番の「越」を「越智」と表記して、
「奈良県高市郡高取町越智」
に比定している。原文が「越」なのにわざわざ「越智」と表記している意図は明らかだ。「越」を奈良県に持ってきたいのだ。そしてこれが「定説」となっている。

 ここで199番の「百濟の原」のときの理路を思い出そう。人麿は「大和なる百濟の原」とか「葛城の百濟の原」とか、比定地を示すための限定語を付けなかった。ただ「百濟」と言えば朝鮮の「百濟」と考えるのが「常識」だからだ。

 「越智」は奈良県だけではない。愛媛県にもある。「越智」で地図検索してみたら、愛媛県今治市の北方にある島嶼の中に「越智郡」とあった。

 しかるに、人麿は「大和なる越」とか「高市なる」とか「伊予なる越智」とか、限定語を付していない。

 そのような限定がなければ「越の国」と考えるのが「常識」だが、人麿は「そうではない、ヲチと読むのだ」と明記している。ではただ「ヲチ」と言った場合、「常識」ではどこを指すことになるだろうか。この問題でも古田さんの真骨頂が発揮される。以下は、古田さんの文章をそのまま引用しよう。

 もし右のように「越(こし)の国ではない。」という「配意」をもって文字構成している点から見ると、少なくとも「日本海岸」は視野に入っていることとなろう。

 そのような視野にあって「越(をち)」と言えば、一体どこを指すのが「常識」だろうか。

 越
   ヱツ 〔集韻〕 王伐切
   ヲチ
  〈国の名〉
  春秋、十四列国の一。姒姓。子爵。夏の少康の子が会稽に封ぜられた處。今、新江省紹興
  縣治。浙江省杭縣以南、東、海に至る地を有す。
  (下略)          (諸橋、大漢和辞典)

 わたしたちは普通「呉越(ごえつ)同舟」などと言うけれど、この「えつ」というのは、いわば「漢音」系であり、「呉音」系では「をち」なのである。もちろん、当の「越」の地における人々の発音は、本来「をち」であろう。

 右によってみれば、東アジア世界で、いきなり「をち」と言えば、どこを指すか。

 (α)中国の浙江省の「をち」
 (β)大和の中の「一小字、地名」としての越智。

 おそらく、問題なく(α)の方だ。これに対し、「揚子江下流域の」などといった「冠詞」は必要がない。

 しかし、この有名な「越」ではなく、日本列島中の一地域の中の〝些々たる小地名″である「越智」を指そうと思えば、やはり「大和の」とか、 「高市なる」といった冠辞は「必須」なのではあるまいか。

 ここで人麿が指しているのは、まざれもなく、「呉越の地」の「越」なのである。

 「呉越同舟」では「越」を「えつ」と読み習わしてきているので、私にとってこの解答は「常識」外のことであった。私の「常識」も当てにならない。心しよう。

 では、なぜ浙江省の「をち」が歌い込まれているのだろうか。この問題でも古田さんの博覧強記ぶりに脱帽です。

 伊豫国越智郡の大領之先祖、越智の直、百済を救わんが為に、遣わして軍を到らしむるの時、唐兵に擒にせられ、其の唐国に至る。
 我が国の八人、同じく一洲に住む。一観音菩薩像を償ひ得(え)、舟上に安置す。
 各(おのおの)誓願を立て、彼の観音を念ず。爰(ここ)に西風に随ひ、直ちに筑紫に来る。
 朝庭之を聞き、召して事を問い、天皇乗じて楽する所を申さ令(し)む。是に於て越智の直、郡を立て仕えんと欲す。天皇、可とす。
 然る後、郡を建て寺を造り、即ち其の像を置き、時より今の世に迄(まで)、子孫相繼ぎて歸敬す。
 (又、今昔物語に見ゆ。)
(「日本霊異記、上」兵灾に遭ひ、観世音菩薩を信敬し、現報を得る縁、第十七。訓み下し、古田)

 案ニ越智直守興、斉明天皇七年従軍シテ天智天皇三年歸朝セシ事、越智氏族、考證ニ詳ナリ、郡領神事ノ條参看セヨ。
(三島大祖家譜資料、第三、従兵事)(40ペ一ジ)

 按ニ豫陽盛衰記ニハ陸戦ノ状ニ書成サレタレトモ、實ハ三島水軍ノ將トシテ渡韓シ、天智帝二年八月唐水軍ト海戦シテ大敗セシガ如シ、
 (同右、41ページ)

 越智氏は、三島水軍の名家であるが、白村江の戦や避城~州柔の戦にも参加したようである。右の「豫陽盛衰記」には、白村江の戦における劉仁願や劉仁軌の唐軍との交戦状況が戦記物風に描写されている。

 その大敗の結果、中国(唐)側で捕囚生活を送った者もあり、それが右の観者霊験譚の形をとって伝承されたものと思われる。

 その捕囚地を「越(をち)」とし、「越智(をち)の姓(漢字当て)の源由」とするものがある。(巻末資料「豫章記」参照。)

 木村賢司氏(古田史学の会、会員)はその越智氏の子孫として、水野孝夫氏の協力をえて巻末資料を提供して下さった。

 ともあれ、右の「日本霊異記」の捕囚地(一洲)は、「呉・越」の地である可能性はきわめて高いのではあるまいか。なぜなら、唐の水軍(白村江の戦の主力)は揚子江河口付近を出発地としていたようであるから。(「日中関連史の新史料批判 - 王維と李白」『九州王朝の論理』明石書店刊、参照)

 その「一洲」から「西風」に乗じて筑紫に帰着した、という描写は、「呉」よりもむしろ「越」たとえば寧波(明州)などを思わせる。

 なぜなら「黒潮の分流(対馬海流〉」という海流の方向から考えれば、その方がより〝自然″であると思われるからである。

 「唐の水軍(白村江の戦の主力)は揚子江河口付近を出発地としていた」という説の論証も知りたいと思う。幸い『九州王朝の論理』が近所の図書館にあることが分かったので、借りてくることにした。
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 コメント
この記事へのコメント
なかなか見事な推論です。
一部ウン?と思わせる所もなくはありませんが,なかなかいい線行っているのではないでしょうか。

今後に期待したいと思います。
2011/03/17(木) 15:55 | URL | 隠居 #hvIICHmQ[ 編集]
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