2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(152)

「天武紀・持統紀」(67)


筑紫君薩夜麻とは誰か(8)
(をち)を恋うる嬬(つま)の歌(1)
194番・195番歌


 194番・195番歌を、古田さんは『万葉集』中もっとも哀切な歌だと言う。次のような歌である。

泊瀬部皇女忍坂部皇子に獻る歌一首幷に短歌

(194)
飛鳥の 明日香の河の 上つ瀬に 生ふる玉藻は 下つ瀬に 流れ觸らばふ 玉藻なす か寄り かく寄り 靡合(なびか)ひし 嬬(つま)の命の たたなづく 柔膚(にきはだ)すらを 劔刀(つるぎたち) 身に副(そ)へ寐(ね)ねば ぬばたまの 夜床も荒るらむ〈一に云ふ、あれなむ〉 そこ故に 慰めかねて けだしくも 逢ふやと思ひて〈一に云ふ、君もあふやと〉 玉垂の 越智(をち)の大野の 朝露に 玉裳はひづち 夕霧に 衣は沾(ぬ)れて 草枕 旅宿(たびね)かもする 逢はぬ君ゆゑ

  反歌一首

(195)
敷栲(しきたへ)の袖かへし君玉垂(たまだれ)の越野(をちの)過ぎゆくまたも逢はめやも〈一に曰ふ、越野に過ぎぬ〉

右、或る本に曰はく、河島皇子を越智野に葬る時、泊瀬部皇女に獻る歌そといへり。日本紀に曰はく、朱鳥五年辛卯の秋九月己巳の朔の丁丑、浄大參皇子川島薨りましぬといへり。


(〈大系〉による大意)
(194)
明日香河の上流の瀬に生える藻は流れて下流の瀬に触れあっている。その玉藻のようにああ寄りこう寄りなびき合った夫の尊が、肉付きのいい柔らかい膚さえも身に添えて寝ることがないので、夜の寝床も荒れているのであろう。それ故に、心を慰めようとしても慰め得ずに、もしや皇子にお逢いするかしらと思って、越智の大野の朝露に裳の裾は泥にまみれ、夕霧に衣はぬれ通って、草を枕の旅宿をなさることであろうか。もはやお逢い出来ない皇子であるのに。

(195)
敷栲の袖をかわして共に寝た皇子は越野を過ぎて去ってしまわれた。またも逢うことがあろうか。ありはしないのだ。

 「上つ瀬に 生ふる玉藻は 下つ瀬に 流れ觸らばふ 玉藻なす か寄り かく寄り 靡合(なびか)ひし」と、196番と同じような修辞が用いられているが、一読して明らかなように、今度は「みどりこ」の描写ではない。この後、「嬬(つま)の命・・・」と官能的な描写が続く。夫婦の営みが描かれているのだ。

 ところで、題詞に出てくる人物の出自は次の通りである。「泊瀬部皇女(天武の皇女)と「忍坂部皇子(天武の第九皇子)は〔木穀〕媛娘(かじひめのいらつめ)を母とする同母姉弟(あるいは兄妹)である。題詞はこの官能的な長歌が同母姉弟(あるいは兄妹)という関係の二人に献じられたと言っている。

 しかし、『万葉集』編纂者はそのような題詞を付けておきながら、左注で河島皇子(天智の皇子で泊瀬部皇女の夫)の死に際して「泊瀬部皇女に獻る」挽歌だと示唆している。題詞には挽歌と言うことを示す言葉は皆無なのに、何ともちぐはくな題詞と左注である。

 以上のことが学者・研究家たちを悩ませて、従来からいろいろと議論が行われてきたようだ。しかし、題詞や左注は「第二資料」であり歌そのものが「第一資料」であるという私(たち)の立場では、この問題をなんら悩む必要がない。

 女性には「嬬の」という最高位の身分を示す称号が使われている。例えば、『万葉集』での使用例では「中皇」がある。九州王朝の天子である。『日本書紀』では大王位を継ぐはずだった草壁を「草壁皇子」と呼び、皇太子に準じる高市を「後皇子」と呼んでいる。『続日本紀』でも草壁を「日並知皇子(または尊)」と追号している。

 そして、長歌冒頭の「飛鳥の 明日香の河」を勘案すれば、そう、私(たち)にとってはこの歌が「明日香皇子とその妻」の関わりを歌っていることは明らかだ。

 そしてまた、〈大系〉は男性の方ははっきりと死者として意訳している。つまり挽歌として扱っている。しかし、歌で使われている詩句を正しく捉えれば、男性の生死は不明と読めるはずだ。

 長歌の「逢ふやと思ひて・・・旅宿(たびね)かもする 逢はぬ君ゆゑ」のくだりを、〈大系〉は「旅宿」をしているのは女性の方と意訳しているが、私は次のような意だと考える。

「また逢えるだろうかと思いつつ・・・旅寝をしていらっしゃるでしょうか。逢うことのできない貴方ゆえに(そのように貴方のことを思いやっています。)

 また短歌の方の「またも逢はめやも」を、〈大系〉は「またも逢うことがあろうか。ありはしないのだ。」と、「やも」を反語として訳している。つまり、男の方は亡くなっているという想定している。

 私は「やも」は「疑問の係助詞」であり、「またお逢いすることだできるでしょうか」という意だと思う。

 私は知人から聞いたことがある。大日本帝国による無謀な戦争で兵士として駆り出されたお父上が戦死したとの連絡とともに、国から遺骨が届けられたが、骨壺の中には石ころが一つ入っていただけだったと。お母上は夫の戦死を信じられず、最後まで夫の生存を信じて帰りを待っていたとのことだ。このような悲劇は数え切れないほどあったことだろう。

 ここで私は「岸壁の母」を思い出した。この歌のモデルの女性は端野いせと言う。息子(養子)の新二は満洲国に渡り関東軍石頭予備士官学校に入学する。そこでソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となった。以下、ウィキペディアから引用する。

 終戦後、いせは東京都大森に居住しながら新二の生存と復員を信じて昭和25年(1950年)1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立つ。昭和29年(1954年)9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、昭和31年には東京都知事が昭和20年(1945年)8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)を発行。

 一方、帰還を待たれていた子・新二(1926年 - )は戦後も生存していたとされる。それが明らかになったのは、母の没後、平成12年(2000年)8月のことであった。

 ソ連軍の捕虜となりシベリア抑留、のちに満州に移され中国共産党八路軍に従軍。その後レントゲン技師助手として上海に居住。妻子をもうけていた。

 新二は母が舞鶴で待っていることを知っていたが、帰ることも連絡することもなかった。理由は様々に推測され語られているがはっきりしない。

 新二を発見した慰霊墓参団のメンバーは平成8年(1996年)以降、3度会ったが、新二は「自分は死んだことになっており、今さら帰れない」と帰国を拒んだという。旧満州(現中国東北部)の関東軍陸軍石頭(せきとう)予備士官学校の第13期生で構成される「石頭五・四会」会長・斉藤寅雄氏は「あのひどい戦いで生きているはずがない」と証言し、同会の公式見解では「新二君は八月十三日、夜陰に乗じて敵戦車を肉薄攻撃、その際玉砕戦死しました」と述べられている(北國新聞社平成18年(2006年)10月4日)。

 「みどりこの母の歌」で、私(たち)は明日香皇子が「避城~州柔の戦」で行方不明になったことを知っている。194番・195番は、明日香皇子の生死を知らぬまま、夫の安否を気遣う妻の哀切は心を詠った歌だった。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1593-3433162a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック