2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(151)

「天武紀・持統紀」(66)


筑紫君薩夜麻とは誰か(7)
みどりこの母の歌(6)
筑紫の明日香川


 196番・197番・198番にはどれにも「明日香川」が読みこまれていて、「明日香川」が重要なキーワードになっている。ではこの「明日香川」はどこにあるのだろうか。

 まず、大和の飛鳥川について。

 残念ながら、私は飛鳥川を見たことがない。古田さんの解説を読もう。

 大和の飛鳥の地を訪れた人は、はじめて音に聞く「飛鳥川」を見て驚く。否、多くの人々は「失望」するであろう。

 万葉集を通して〝つちかわれ″たイメージ、それを求めて現地にやってきたとき、現実の「飛鳥川」があまりにも貧弱なのにガッカリするのである。

 しかし、これはいわば「無いもの、ねだり」だ。現実の山や川は、何も後代の「歌人」のために存在しはじめたわけではない。当然のことだ。

 だから、罪は、あらかじめイメージを〝ふくらませ″切ってその地を訪れた、人々の「期待」の方にこそある。そう言っては酷だろうか。

 ともあれ、現実の「大和の飛鳥川」は、どの国、どの地帯にも見られる「川」というより、やや「溝」めいた流れであること、現地を訪れた人みなの知るところだ。

 要するに、全国に十数ヶ所もあるという「飛鳥」の地の近傍に、大・中・小さまざまの「飛鳥川」があっても、何も不思議はないのである。

 昨日、録画しておいた朝日テレビの「万葉集の謎紀行」(解説者 奈良大学教授・上野誠)という番組を見た。「明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに」(325番)という歌を取り上げているとき、飛鳥川を映していた。まるで谷川のように澄んだ水が滔々と流れていて、上手の段差のある所は小さな滝となって、しぶきを上げていた。カメラはそこにズームアップして、しぶきの中で躍り上がっている小魚を捕らえた。「えっ、これが飛鳥川? 別の川の映像を使ったんじゃないかな。こんなことにまで偽装を凝らすのかね」と思った。映像はいくらでも作為ができるので油断がならない。

 手元にある『万葉の旅』(犬養孝著)を調べたら、飛鳥川については、犬養氏も古田さんと同様の解説をしていた。

 飛鳥川といえば、淵瀬常ならぬ川としてあまりにもきこえ、誰でもあこがれをいだく。さてきてみれば、どこにでもある田舎の里川、大字飛鳥から下流は近ごろドブ川にさえ化してがっかりしてしまう。

飛鳥川
(橘寺からおりた岡寺への旧道の橋)

 ところがそれでよいので、名所でもなんでもない、この川筋を中心に定住した万葉人たちが、朝夕見なれた親しい里川に、抒情の場をもとめたにすぎない。

 源は竜門・高取の山塊に発して柏森・稲淵の谷あいをくだり、祝戸で多武峯からくる冬野川(細川)をあわせ、飛鳥の中心部から藤原京をななめによこぎって、寺川と曽我川の間を北流、大和川にそそぐ川である。

 飛鳥の人たち、飛鳥文化もつまりはこの川筋にたよったものだ。上流に住まった帰化人らの伐木を禁じて水源をたもとうとしたこともある。いちど雨が降れば、「水ゆきまさり」「水脈早み」の「高川」となるし、ふだんは「上つ瀬」「下つ瀬」「早き瀬」「七瀬」「瀬々」の玉藻や千鳥や河鹿の清流となり、「石橋」(飛び石)を渡って妻のもとにも通い、「しがらみ」(杭をうって竹や枝をからませたダム)をかけて濯漑に便する。まったく一日として飛鳥びとに欠くことのできない川だ。

 犬養氏が取りだしている詩句のうち、「上つ瀬」「下つ瀬」「石橋」「しがらみ」は196番・197番でも使われている。犬養氏は1998年に亡くなられている。たぶん古田さんの万葉歌の解読を知ることはなく、最後まで全ての明日香川を大和の飛鳥川と考えていた。

 では筑紫の明日香川はどこにあるのだろう。

 私(たち)は、「飛鳥浄御原宮の謎(9)」で、飛鳥という地名が福岡県小郡市井上にあったことを知っている。そして、「あすか」という地名は明日香皇子に由来することも。従って「明日香川」も小郡市井上に求めることになろう。

 「飛鳥浄御原宮の謎」で学んだことを重複する事項もあるが、古田さんの解説を読もう。(引用文中に井上の小字地図を再掲示しておく。)

 今問題の「九州の朝倉近辺の飛鳥川」も、同じだ。

 前述のように、「下座郡の飛鳥」に流れている中流、それが当時は「飛鳥川」と呼ばれていたのではあるまいか。

井上の地名図

 「井上廃寺」の地、「本山」には「北大門」と「南大門」をもつ館があり、そばには「長者堀」と呼ばれる「堀」があった。

 さらに「井上」や「御井」の語源となった、有名な井戸があり、そこから〝浄水″が湧き出ていた。その湧き出た水は、南の「飛鳥」の方へと流れ出していたのではあるまいか。この地帯は「北」が太宰府方面へとつづく山地、「南」が筑後川流域であるから、当然「水」は〝北から南へ″流れていたことであろう。

 或は、現在の地図(上の地図)がしめしているように、「長者堀から飛鳥方面へ」と流れていた小川の「水流域」が、この「ゲリマンダ一」めいた〝飛び出し地帯″として、その跡を今にとどめているのかもしれない。

 今後の学術上の発掘研究を深く楽しみとしたい。

 これで「みどりこの母の歌」を終わります。
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