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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(150)

「天武紀・持統紀」(65)


筑紫君薩夜麻とは誰か(6)
みどりこの母の歌(5)
「朝宮」・「夕宮」とは何か


 196番の冒頭の詩句には立て続けに「生」の字が4回の使われている。

飛鳥(とぶとり)の 明日香の河の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に (お)ひ靡(なび)ける 玉藻もぞ 絶ゆればふる 打橋に ひををれる 川藻もぞ 枯るればはゆる 何しかも わご(みどりこ)の

 古田さんはこの異例な文字の使い方を取り上げて、次のように読解している。

 文字使いに敏感な人麿が、偶然の「ミス」でこのような使い方をするはずはない。もちろん「意図ある使用」だ。

 それはおそらく、前述の〝当人(明日香皇子)の行方不明″とかかわりがあろう。

 その「生」を願う心、その「健在」をのぞむ気持、それをこの「冒頭部、4回の『生』使用」にしめしているのではないであろうか。心にくい「文字使用」だ。

 それを「生(みどりご)」当時の描写へとつなげているのだ。その上そのあとの、成人してから後を

 朝宮を 忘れ給ふや
 夕宮を 背き給ふや


という形で表現している。彼(明日香皇子)が健在だった頃、「朝宮」や「夕宮」を訪れることを「常」としていた、というのである。

 前書で「朝庭(みかど)」「夕庭(きさき)」の表記を〝固有名詞″化している用法ではないか、と注意したけれど、或はそれとかかわりのあるテーマかもしれない。(前書、第10(夕庭)の件(再論)、345~8ページ、参照)

 「前書」というのは『古代史の十字路』である。その第7章「太宰府の「中皇命」の歌」で3・4番歌を取り上げている。このブログでも「壬申の乱(2):中皇命って誰?」で取り上げた。その3番に次の一節がある。

我が大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし
(原文)
我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之

 ここの「朝庭」・「夕庭」を古田さんは「「みかどには」・「きさきには」と訓じている。この論考の一環として「第10(夕庭)の件」が書かれた。今回のテーマと深く関わっているので、それも紹介しておこう。

 先述の「夕庭」については、注目すべき点がある。それは出現個所が「特定」されていることだ。

 今問題の3番歌以外では、巻13・3274と巻13・3329の二例しかない。しかも、その前者は後者の「前半部」を〝カット″した形のものだ。だから結局、巻13・3329の一例のみ、となる。

3329番は「柿本朝臣人麿の集の歌」という題詞がついた一群の歌の中の一首で、挽歌に分類されている。次のようである。(「朝庭」・「夕庭」は古田さんの訓読に従った。)

白雲の たなびく國の 青雲の 向伏す國の 天雲の 下なる人は 吾(あ)のみかも 君に戀ふらむ 吾のみかも 君に戀ふれば 天地に 滿ち足(たら)はして 滿ふれかも 胸の病みたる 思へかも 心の痛き 吾が戀ぞ 日にけに益(まさ)る 何時(いつ)はしも 戀ひぬ時とは あらねども この九月(ながつき)を わが背子が 偲ひにせよと 千世にも 偲ひわたれと 萬代に 語り續(つ)がへと 語りてし この九月の 過ぎまくを いたも(すべ)なみ あらたまの 月の変れば 爲(せ)む爲方の たどきを知らに 岩(いわ)が根の 凝(こご)しき道の 岩床の 根延(は)へる門(かど)に 朝(みかど)には 出で居て嘆き 夕(きさき)には 入り居戀ひつつ ぬばたまの 黒髪敷きて 人の寝(ぬ)る 味眠(うまい)は寝ずに 大船の ゆくらゆくらに 思ひつつ わが寝る夜らは 数(よ)みも敢(あ)へぬかも

 この歌は、2000年の2月27日、東京(文京区民センター) の臨時講演会で

 「薩夜麻を恋う」皇后(きさき)歌

の発見として報告したものである。その要約は「多元」36号に掲載されているが、その要点は次のようだ。

(A)
 冒頭の「白雲の たなびく國の 青雲の 向伏す國の 天雲の下なる人は」という表現は、「直接統治領域」(白雲のたなびく国)と「間接支配領域」(青雲の向伏す国)を併せ「天下の民衆」(天雲の下なる人)をしめしている。すなわち彼女(作者)の夫は「天子」の〝位取り″に立っていることを明示している。

(B)
 長歌中、「この九月を」「この九月の」とくりかえしている。夫が出発時にのべた「決戦の時点」である。

(C)
 日本書紀の天智紀によれば、天智2年(663)の8月27日から9月7日の間に、白村江の戦が行われ、百済の州柔城が唐に降服した。

(D)
 筑紫の君、薩夜麻は「捕囚」の身となり、久しく帰ってこなかった。

(E)
 従ってこの歌は、薩夜麻(九州王朝の天子)の妻(皇后)が「帰らざる薩摩麻」を恋うる歌と解する他はない。

(F)
 従来の万葉学は「近畿天皇家、一元論」という仮説を(「仮説」と知らずに)固持してきたから、右のような理解は不可能であった。

以上だ。だから、この「夕庭」という表現が出現するのは、

(その一)
 「中皇命」(九州王朝の天子)を主人公とした3番歌。
(その二)  薩夜麻(九州王朝の天子)の皇后の作歌(巻13・3329)。

右の二首に限られる。このような「出現状況」から見れば、この「夕庭」の二字は、当王朝(九州王朝)内で〝作り″〝使われ″ていた、特有の用語だったのではないか。―この問題だ。(この点、古賀達也氏の御指摘をうけた。)

 隋書俀(たい)国伝に、倭国側の統治組織内に、一種奇妙な「王朝内の時間的二分法」の存在したことが報告されている。

(α)  使者言う「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺して坐し、日出ずれば便(すなわ)ち理務を停め、いう我が弟に委ねんと」と。

 右のように
 ①「天未明」―兄
 ②「日出」―弟
というように、一日の中の「時間帯」によって「二分」されている。

 この「日出ずる処」は、やがて「天子」の場と称され、「朝庭」となった(多利思北孤)。

 次の局面を見よう。

(β)
 王の妻は雞弥と号す。後宮に女六・七百人あり。

 これは、ややもすれば「誤解」されていたように、〝倭王を取り巻いて「後宮」の女、六、七百人が囲繞していた″のではない。右の文面に〝正確に″表現されているように〝王の妻の「雞弥」を取り巻いて、「後宮」の女たち六・七百人がいた″のである。なぜなら、三国志の魏志倭人伝中の有名な一節、

(卑弥呼)王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。

とある「女の館」の伝統を継承するものであったからだ。すなわち、右の「朝庭」に相対し、陰然たる、女性中心の大勢力の伝統的「機構」をなしていたのである。

 とすれば、先の「朝庭」に対し、こちらの、いわゆる「後宮」(中国側の理解による呼称)が、実は「夕庭」と称されていたとしても、これを怪しむべきではないであろう。

 この点、今後の楽しき未知の課題としておきたい。

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