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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(148)

「天武紀・持統紀」(63)


筑紫君薩夜麻とは誰か(4)
みどりこの母の歌(3)
なぜ「わご大王」ではなく「わご王」?


 196番の主人公は「木缻之宮」に葬られている。原文で使用されている文字は異なるが、当然これは199番の「木上宮」と同じ宮だ。〈大系〉の訓読では両方とも「城上の宮」と表記している。

196番
「城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 定め給ひて・・・」

199番
「城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 高くまつりて・・・」

 このことも196番の主人公が明日香皇子であるという比定が正しいことを示している。

 しかし、明日香皇子は199番では「わご大王」と呼ばれているのに、196番では「わご王」となっている。これはどういうわけだろうか。この問に対する答のカギも
何しかも わご王(きみ)の 立たせば 玉藻のもころ 臥(こや)せば 川藻の如し 靡かひし 宜(よろ)しき君が 朝宮を 忘れ給ふや
の中にある。

 〈大系〉では「わご王の」の原文は「吾王能」となっているが、「吾王能(金・紀)―生乃」という校異が示されている。つまり、「元暦校本」や「西本願寺本(〈大系〉はこれを底本としている)」などの古写本ではすべて「吾生乃」となっているのに「金沢本・紀州本」という「後代写本」で行われている「原文改竄」の方を採用しているのだ。

 「後代写本」が「生乃→王能」という「改ざん」を行ない、現代の諸専門家こぞって、これに従ってきたのである。

 この長短歌中、このあとにも
乃(わご王(きみ)の)(196、末尾)
(わご王の)(198)
と「王」字が出現しているから、それらに先立つ、ここも「吾王能(わご王(きみ)の)」と〝改定″して、何の支障もないように、一見、見なされよう。しかし、それにつづく形容句たる
立たせば 玉藻のもころ
 臥(こや)せば 川藻の如く
 靡(なび)かひし 宜(よろ)しき君が」
を見れば、この叙語部分に対する「主格」が、「王」であったとすれば、それが「男性」にせよ、「女性」にせよ、ふさわしくない。わたしにはそう思われる。

 すでに、前節で分析したように、この歌の対象(主人公)は「男性」(「君」「王」)なのであるから、いよいよ、この形容句は〝似つかわしく″ないのだ。

 では、もともとの原文「吾生乃」はどう訓読したらよいのだろうか。従来は全ての学者・研究家が改竄された方の原文を採用しているので、かつてこの「生」を検討した人はいない。古田さんが始めて「吾生乃」の訓読を試みている。

 わたしはこれは「みどりこ」であると思う。

 万葉集中、「みどりこ」 に当る表記は多彩だ。

 弥騰里兒(巻18、4122)
 緑子 (巻16、3791)
 緑兒(巻2、213。巻3、481。巻12、2925)
 小兒(巻12、2942)
 若子(巻3、458。巻3、467)
 若兒(巻2、210)

 ここでは、人麿は得意の「一字表記」の手法を用いて、「生」一字で「みどりこ」と訓(よ)ませているのであるまいか。「みどりこ」なら、右のような
 「立たせば……臥せば」
という表記、その〝ふるまい″を「玉藻」や「川藻」の〝靡く″さまにたとえたのも、不思議ではない。男でも、女でも、「大人」では、こうはゆくまい。

 「みどりこ」でも、ここで〝形容″されているのは、〝生れたばかりの、産湯(うぶゆ)を使った時の記憶″が歌われているのではあるまいか。明日香皇子、誕生の一瞬だ。

 すなわち、この歌の「対象」は明日香皇子だけれど、この歌を〝献ぜられ″ているのは、「明日香皇子の」に対してなのである。その「母」の〝失いえぬ記憶″それを人麿は歌っているのだ。

 一つの単語は、前後の文章の中で〝生きて″いなければならない。

 私は古田さんのこの詠みを正しいと認めざるを得ない。見事である。この解読によって、歌全体が見事に生き返る。

 歌は「みどりこ」の時の思い出から始まり、さらに成長していく皇子の思い出を綴っている。「わご大王」ではなく「わご王」と呼ぶのがふさわしい。

 その思い出の詩句の後に「片戀嬬」という聞き慣れない語句が出てくる。〈大系〉は「片恋に苦しむ背の君」と意訳しているが、この歌は皇子の母に献じられた歌であるから、当然こんな解釈は成り立たない。古田さんは次のように解読している。

 これ(片戀嬬)については、多言の必要はない。「明日香皇子の母」は、すなわち「甘木の大王の妻」である。

 その「甘木の大王」は、すでに〝狩り″の途中で死んだ。それ故、その妻は「未亡人」となっていた。それ故、これを「片戀嬬」と表現している。

 現代のわたしたちの慣用させられている「未亡人(いまだ亡(う)せざる人)」などという、〝変な″中国語とは、比較にもならぬ、古来の「美しい日本語」なのではあるまいか。

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2011/03/08(火) 09:14 | | #[ 編集]
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