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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(145)

「天武紀・持統紀」(60)


筑紫君薩夜麻とは誰か(1)
史書のなかの薩夜麻


 筑紫君薩夜麻(つくしのきみさちやま)は、これまでに何度か、断片的に取り上げてきた。今回から、この人物にまつわる「謎」解きがテーマです。

 薩夜麻の名は『日本書紀』に二度現れるだけである。「天智紀」と「持統紀」である。

671(天智10)年11月10日
對馬國司、使を筑紫大宰府に遣はして言さく、「月生(た)ちて二日に、沙門道久(ほふしだうく)・筑紫君薩野馬(さちやま)・韓嶋勝裟婆(からしまのすぐりさば)・布師首磐(ぬのしのおびといは)、四人、唐より来りて曰さく『唐國の使人郭務悰(かくむそう)等六百人、送使沙宅孫登(さたくそんとう)等一千四百人、總合(す)べて二千人、船四十七隻に乗りて、俱に比知嶋(ひちしま)に泊りて、相謂りて曰はく、今、吾輩(われら)が人船、數衆(おほ)し。忽然(たちまち)に彼(かしこ)に到らば、恐るらくは彼(か)の防人、驚き駭(とよ)みて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣はして、預(あらかじ)め稍(やうやく)に來朝(まうけ)る意を披(ひら)き陳(もう)さしむ』とまうす」とまうす。

 唐使の大船団に加わって4人の倭人が帰国した。唐使は、「唐の大船団が倭国を攻撃するために来た」と誤解されること避けるため、あらかじめ4人の倭人を使ってその「來朝」の趣旨を告げさせた。その4人の中に「筑紫君」という称号を持つ人物「薩野馬」がいた。

 ここでは「薩夜麻」ではなく「薩野馬」と表記されているが、これは筑紫君を貶める意図を持った卑語表現である。「筑紫君」とは九州王朝の君主、つまり「天子」を意味する。このような人物がどうして唐使の大船団に同行しているのだろうか。

 「薩野馬」について、〈大系〉の頭注は「百済救援の役に唐の捕虜」と書く。そう言う判断をする根拠が次の記事である。

690(持統4)年10月22日
軍丁(いくさよほろ)筑後國の上陽咩郡(かみつやめのこほり)の人大伴部博麻(はかま)に詔して曰はく「天豐財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)天皇(斉明)の七年に、百濟を救う役に、汝、唐の軍の爲に虜(とりこ)にせられたり。天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇(天智)の三年に洎(およ)びて、土師連富杼(はじのむらじほど)・氷連老(ひのむらじおゆ)・筑紫君薩夜麻(さちやま)・弓削連(ゆげのむらじ)元寶の児、四人、唐人の計る所を奏聞(きこえまう)さむと思欲(おも)へども、衣粮(きものかて)無きに縁りて、達(とづ)くこと能はざるを憂ふ。是に、博麻、土師富杼等に謂ひて曰く、『我、汝と共に、本朝(もとつみかど)に還向(まうおもむ)かむとすれども、衣粮無きに縁り、俱(とも)に去る能はず。願ふ、我が身を賣りて、衣食に充てよ』といふ。富杼等、博麻の計の依(まま)に、天朝に通(とづ)くこと得たり。汝(いまし)、獨(ひとり)他界(ひとくに)に淹(ひさしく)滯(とど)まること、今に三十年なり。朕(われ)、厥(そ)の朝を尊び國を愛(おも)ひて、己を賣りて忠を顯(あらは)すことを嘉(よろこ)ぶ。故に務大肆(むだいしのくらゐ)、幷(あは)せて絁(ふとぎぬ)五匹・綿一十屯・布三十端・稲一千束・水田四町賜ふ。其の水田は曾孫(ひひこ)に乃至(いた)せ。三族(みつのやから)の課役(えつき)を免(ゆる)して、其の功(いたはり)を顯さむ」とのたまふ。

 大伴部博麻は「斉明7年の百済を救う役」で唐軍の捕虜となった。その捕虜生活では筑紫君薩夜麻をふくむ4人と一緒だった。ただし、薩夜麻が捕虜になったのは「避城~州柔の陸戦」か「白村江の海戦」の時である。

 唐の大船団で薩夜麻とともに帰った3人は不明(頭注「他に見えず」)な人物だが、ここの3人はその出自がある程度分かっている。(『失われた九州王朝 第5章「九州王朝の領域と消滅」』を使います。)

大伴部博麻
 上の記述の通り、筑後国の上陽咩郡の軍丁。つまり、筑紫君薩夜麻の都城の地、直属の兵士だった。
韓智興
 九州王朝「倭国」の使節団の長であった。(論証は省略する。)
弓削連元宝の児
 孝徳紀白雉5年(654)2月の項の「伊吉博得の言」の中に、「別に倭種韓智興・趙元宝、今年、使人と共に帰れりといふ」とあるのが、この趙元宝だ、と思われる。この人物も倭軍の兵士だったと考えてよいだろう。

 このように筑後の「君主―上級官人―下級兵士」たちが共に捕虜生活を送っていたことになる。

 人々が敗戦を忘れようとしていたとき、いまだに白村江から還って来ない者はもはや死んでしまったのだ、と信じ切っていたとき、突如博麻が帰国したのである。しかも、“主君、筑紫君薩夜麻の生還のために、自分の身を奴隷に売った”という、人々の肺腑をえぐる「美談」とともに。そのような“壮烈な心情”が「当然の覚悟」として奨励されていた「戦前」のことを人々は思い浮かべたであろう。

 しかし、時代は変っていた。このとき一層みじめな形で、浮かび上がってきたのは、いわば“部下を奴隷に売って”生還した薩夜麻の姿であった、と思われる。

 近畿天皇家持統天皇から出された博麻への詔では、「彼の苦心は、唐人の計を(近畿天皇家へ)奏聞するためであった」という理由づけがなされている。しかし、今(持統4年)は、もはや日本国は唐朝に敵対していたわけではない。それどころか、新しい和親政策の時代であった。「唐人の計」という言葉は実体をもたない。だから、真実は「九州王朝の君主の生還」のためであった博麻の忠節を、「唐人の計」という抽象的な表現によって、“近畿天皇家への忠節”として、この詔はとらえ代えようとしているのである。ここには権威を失った九州王朝と、新しい賞罰の権威を樹立してきた近畿天皇家。その明暗があまりにも鮮明に表現されている。

(上の「持統紀」の記事を分析・解明している好論文があります。参照してください。)

正木裕『薩夜麻の「冤罪」Ⅰ』
正木裕『薩夜麻の「冤罪」Ⅱ』

 さて、この筑紫君薩夜麻とは誰であろうか。ずばり、結論を先に言おう。古田さんは明日香皇子こそ、この筑紫君薩夜麻だと言う。

 この仮説の最終論証を理解するためには、そこに到るまでの「一連の論考」を読む必要がある。いま一通り読み終わったところだが、一つ納得できない点がある。その疑念が解消されるかどうか、ともかく精読し直してからその一点について考えようと思う。

 「一連の論考」とは『人麿が「壬申の乱」を詠った?』のもとになった『壬申大乱 第2章「真実の白村江」の第2説』の続編に当たるもので、次の4編である。

第8章
〈別論1〉月西渡る
〈別論2〉筑紫の飛鳥
〈別論3〉みどりこの母の歌
〈別論4〉越(をち)を恋うる嬬の歌

 〈別論1〉・〈別論2〉は既にそれぞれ「日並知皇子の謎」・「飛鳥浄御原宮の謎」で取り上げた。よって、次回からは「みどりこの母の歌」を取り上げることになる。
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