FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(144)

「天武紀・持統紀」(59)


人麿が「壬申の乱」を詠った?(12)
「哭澤の社」


(8) 202番
哭澤の社〈哭澤之神社〉
「奈良県桜井市木之本にある」。

 これまで「定説」によるさまざまな地名比定を見てきたが、どれも推測の域を出るものではなかった。それに対して「哭澤の社」の所在地に関しては、「奈良県桜井市木之本にある」と断定して、ためらいはない。どうしてなのか。「定説」の代表的解説として、古田さんは澤瀉久孝著『萬葉集注釋』の次のような解説を引用している。
 泣澤の神社 - 泣澤の神は古事記上巻に 『故尓伊耶那岐命詔之、愛我那邇妹命乎、謂子之一木、乃匐匐御枕方、匐匐御足方而哭時、於御涙成神、坐香山之畝尾本、名泣澤女神』 とあり、今も香具山の西麓、櫻井市木之本にこの神を祀る。
(中略)
 もとは社殿がなく森そのものを神の座すところとして祭ったので、泣澤神社は今も本殿は無く拝殿のみである。

 引用されている『古事記』からの一文は、伊邪那美(いざなみ)命が火を生んだことが原因で黄泉国に去った直後の「火被殺」と呼ばれている段の冒頭の文である。読下し文を転載しておこう。(岩波大系本)

故(かれ)爾(ここに)に伊邪那岐(いざなき)命詔りたまひしく、「愛しき我が那邇妹(なにも)の命を、子一つ木(け)に易(か)へつるかも。」と謂(の)りたまひて、乃ち御枕方(みまくらへ)に匍匐(はらば)ひ、御足方(みあとへ)に匍匐ひて哭きし時、御涙に成れるは、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木の本に坐して、泣澤女(なきさわめのかみ)と名づく。

 この後、文は次のように続く。

故、其の避(かむさ)りし伊邪那美は、出雲國と伯伎国との堺の比婆の山に葬(はふ)りき。

 前段(「神々の生成」)は次のように終っていて、上のくだりはそれに直結している。

故、伊邪那美は、火のを生みしに因りて、遂によりて避り座しき。

 つまり、泣澤女神の故事は「神々の生成」と「火被殺」との間に置かれた挿入文である。『日本書紀』にある例の「分注」に当たるもので、『古事記』編纂者(太安万侶)による「原注」である。この挿入文は、本文の神話を大和の現地名(神社)と関連づけるための作為的な原注ということができる。

 ともあれ、澤瀉氏が述べているように「泣澤=哭澤」という地名、あるいは「哭澤の神社」という神社が桜井市木之本にあることは確かである。

 では、この大和内の地名を詠み込んでいる202番をどう解したらよいのだろうか。202番をもう一度読んでみよう。

或る書の反歌一首
哭澤(なきさは)の社(もり)に酒(みわ)すゑ禱祈(いの)れどもわご王(おほきみ)は高日知らしぬ
右一首、類聚歌林(るいじゆかりん)に曰はく、檜隈女王(ひのくまのおほきみ)の、泣澤神社を怨むる歌といへり。


 「或る書の反歌一首」と書いておきながら、左注ではその書名不明の「ある書」が「類聚歌林」であるとバラしている。この左注が正しいのだ。つまりこの歌は人麿作の歌ではない。左注が言うように檜隈女王の作歌である。

 つまり、『万葉集』編纂者は、『古事記』や『日本書紀』と同様の手口で、199番~201番の人麿歌を「壬申の乱の歌」として盗用するために、「或る書の反歌一首」として202番を挿入した。

 意図的にか単なるミスなのか、『日本書紀』には九州王朝の存在を示す仕掛けがそこここに残されている。私は編纂に参加していた九州王朝出身の編纂者が秘かに残した仕掛けだと思っている。202番の左注もそうした仕掛けの一つだと思う。199番~201番が「壬申の乱の歌」ではないことを、この左注が証言していることになる。

 ちなみに、檜隈女王については〈大系〉の頭注は「伝未詳」と言っているが、古田さんは澤瀉氏の次のような説を紹介している。

 澤瀉久孝は「攷證」「私注」の説に従い、この「桧隈女王」を〝高市皇子の女(娘)″とし、「歌からの感銘も寧ろみての如くである。」(私注)を引文する。その上で、

「たしかに續紀と古文書と並べ見る時この桧隈女王と同人と見る事いよいよ確実と思はれる。私注の説によるべきものと思はれる。」(『萬葉集注釋』422ページ)とのべている。

 「攷證」とは江戸時代(文政年間)に書かれた『萬葉集攷證』という注釈書のことである。

 ところで、古田さんは202番が人麿作ではないことを別の観点からも論じている。最後にそれを引用して、テーマ『人麿が「壬申の乱」を詠った?』を終わることにする。

 この間題のキイ・ポイント。それは「称号」問題だ。

 人麿は右の長歌で、四回にもわたって
「わご大王(「吾大王」)」
の表記を使っている。「皇子ながら」という一句がしめすように、本来は父(或は「先代」)の「甘木の王者」が「大王」であった。例の「天帰の歌」(239と反歌、240)の中で、二回にわたってこの表記が使われている。

吾大王 - 長歌(239)
我大王 - 反歌(240)

 その「大王」が不慮の事故で狩獵の途次、急死したので、その「皇子」であった「明日香皇子」が急遽「大王」の座につき、百済の戦場に向ったのである。(「大王」は「天子」ではない。「天子」の配下の「甘木の大王」である。)

 その点を人麿は強調した。あくまでこの「明日香皇子の悲劇」を、あの「甘木の大王の狩獵時の悲劇」の延長線上に「見ていた」のだ。そのような「目線」に立ったからこそ、いくらこの長文の「長歌」とはいえ、いささか〝くどすぎる″くらい、この「吾大王」をくりかえしたのである。いいかえれば、
「貴方は若くして、姿を消されましたが、立派な『大王』として、父君に継ぎ、その任務を終えられましたね。」
という、深い哀悼の心情の表明なのである。単に「冗漫」なるくりかえしではなかった。

 ところが、一転し、この「泣澤の歌」202)では
「わご王 (我王)」
の表記を使っている。「大王」ではない。これはなぜであろうか。その答は一つ。

 「この『泣澤の歌』は『人麿作歌』ではない。」

 この簡明な帰結である。

(中略)

 わたしは従来、不審だった。

 「なぜ、万葉学者は『大王』も『王』も『皇』も、原文のいかんにかまわず、同一の訓み(「おほきみ」)を当てるのか。」と。厳正にして緻密なはずの「万葉学」としては、〝解(げ)しがたい″現象だった。

 従来は、わたしは次の二点からこれを「理解」してきた。

第一
 「漢字」は〝仮り物″であり、「日本語」の〝訓み″の方が本来である。 - 本居宣長の方針(真淵を継ぐ。)

第二
 「長歌」や「短歌」は「五、七調」が〝定型″である。 - 平安時代に成立。

 けれども、この「ル一ル」 には、〝問題″がある。それは次のようだ。

第一について。
 「日本語」がもと、「漢字」が仮り物。この考えは正しい。地名などを考えるとき、あくまで「現地住民の発音」がもとであり、「漢字」は〝仮り物″である。この基本を〝侵″し、「漢字表記」から、その地名の意味を考えようとする、いわゆる「地名解説」が往々存在するけれど、これは方法上〝逆立ち″している。留意すべきだ。

 たとえば、わたしの住地の「日向市」の場合なども、「むこう(向う)」(京都側から見て、桂川の「向う」にある。)という現地音が基本であり、「佳字」としての「向う日」というのは、「類音」による〝当て字″なのである。「佳字」を当てているのだ。

 しかし、古事記、日本書紀、万葉集などの古典の場合は、ちがう。それぞれ、テープの録音つきで残っているわけではない。この場合は「訓み」をつけたのは、後代の写者、国学者、万葉学者である。それなのに、〝自分たちのつけた訓み″を「本来のもの」と称するのは、ほほえましい「自己主張」ではあっても、史料事実の基本ではない。

 この場合、「基本」はあくまで「漢字」の方であり、自分たちの「訓み」は〝後世の解釈″にすぎない。この「本末」関係を顛倒することは許されない。

 このように考えてみれば、やはり「王」「大王」「皇」を、各表記の差異を無視し、一様に「おほきみ」と訓んで「同一視」しようとする、「国学者流」の手法には大きな「?」が向けられねばならないのである。

第二について。
 これはすでに前著でのべた通り、「平安時代の常識」ではあっても、それを「八世紀以前」に対して〝ひとしなみ″に当てはめようとするのは乱暴である。

 同じ平安時代でも、紀貫之は「定型の発生」について、深い省察をのべている(前著)。それは「不定型」→「定型」という発展とされた。この省察は正しい。正しいけれど、「定型」が発生してより、あらゆる歌から「不定型の要素」が一掃されたはずはない。ことに「大王」「王」「皇」といった重要語句(身分社会内において)の場合、その「称号」は安易に〝変改″すべきものではなかった。わたしにはそう思われるのである。

 以上は、すでにのべたところ、すでに語ってきたところだ。ところが、今回、新たなテーマの存在することを知った。

 右の「壬申の乱」歌(199) と「泣澤の歌」(202)において、一方は「吾大王(4回)」に対し、他方は「我王」という表記だ。この後者(202)を以て前者(199)の「反歌」だと主張しようとすれば、当然「大王=王」とならざるをえない。背理だ。

 このような、国学者が歴代〝侵″してきた背理、その淵源は実に「万葉集(巻一、二)の偽編修」そのものにあったのである。

 いうなれば、国学者たちはその「偽編集の合理化」という役どころを、歴代〝仰せつかっていた″こととなろう。

スポンサーサイト



 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1585-bc4d924a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック