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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(142)

「天武紀・持統紀」(57)


人麿が「壬申の乱」を詠った?(10)
「和蹔が原」(2)



 三国史記の「地理四、百済」の項の中に、朝鮮史関係の研究者には著名な、一地名がある。それは「倭山」である。

 先の「固麻城」記事につづく地名列記中、「三國有名未詳地分」として列記された地名の中に、この「倭山」がある。その前後を記せば

閔中原 慕本 蔚山 倭山 蚕支落 平儒原 狗山瀬

のごとくである。

 この地名列記には「釜山」も入っているから、必ずしも「未詳」とは思えないけれど、ともあれ、「有名」の地名が集録されていることは疑えない。〝名もなき″一小地名の類ではないのである。

 では、なぜこの地名が存在するか。従来の研究者にとって、これが〝悩み″の種だった。先に「著名」と言ったけれど、実は研究者たちにとって〝悩みの種″だったのである。(もちろん、通信使などの後世の「地名」ではない。)

 しかし、実のところ、わたし自身にとっては、必ずしも〝悩みの種″ではなかった。なぜなら、年来わたしは次のように考えてきていたからである。

(A)
 朝鮮海峡の北岸に「加羅」諸国があり、南岸に「津」(佐賀県)がある。同じく、北岸に「伽耶」があり、南岸に「可也山」(前原市)がある。北岸に「新羅」があり、南岸に「白木原」(福岡市)がある。

 同一海峡の両側に「同一地名」の存在することは当然だ。やや離れた宮崎県と鹿児島県・熊本県の県境領域にも、「韓国岳」の地名がある。

(B)
 もう一つの問題は「倭地」問題だ。

 三国志の魏志韓伝によると、朝鮮半島の南岸部は「倭地」である。

 韓は帯方の南東に在り。東西、海を以て限りと為す。南、倭と接す。方四千里なる可し。とあるように、後世のように「東西と南、海を以て限りと為す。」の地勢ではない。

 従って「三世紀の実状況」においては、朝鮮半島の南岸部は「倭地」であった、と見なす他はない。

 これに対し、現代の国家関係や一種のナショナリズム風の見地を「導入」させたならば、歴史の真実を見失うこととなるであろう。この点、特に留意したい。

 このような立場からは、少なくともその「倭地」において「倭語地名」の用いられていたこと、当然である。なぜなら「非、倭語地名」のみの「倭地」という概念は成立不可能だからである。(この点、別に詳論の機をえたい。)

 わたしは従来から、右のような立場に立っていたから、朝鮮半島の「三国」内において「倭山」の地名の存在することを「悩む」どころか、有力な「一徴証」としてこれを看取してきたのである。すなわちこの地名について

(a)
 この地帯は、「倭人」の多く居住する、或は居住した地域であろう。
(b)
 「三国」内といっても、朝鮮半島北半部(現在の朝鮮民主主義人民共和国)ではなく、その南半部(現在の韓国)の中で、南岸域(もとの「倭地」)に近い場所であろう。
(c)
 その上、このような「地名」成立の基礎条件として、「何等かの倭語地名」が背景に存在する可能性が高い。

 そのように考えてきたのである。

 ところで、この「倭山」は、日本列島側の、美濃国(岐阜県)の「和蹔」と〝同音″である。なぜなら

〈〉
 三国史記の成立(1145年成立)当時、「倭」の音はすでに「ヰ」wiではなく、「ワ」waであった。すなわち「和」と同音である。
〈〉
 「蹔」は「サン・ザン」(諸橋大漢和辞典)の音であり、「とくすすむ」「しばらく」「ゆく」等の意味をもつ。「足」は〝進む″を意味する。これに対し、「斬」は音をしめす表記であろう。
〈〉
 従って「和蹔」(美濃国)と「倭山」(三国)とは、全く同音をしめしている。
〈〉
 ところが、一方の美濃国の「ワザン(和蹔)」は、日本語の「わざみ」という地名をもととした漢語表記と考えられている。
〈〉
 ということは、他方の同音の「三国」の「倭山」もまた、「わざみ」という「倭語地名」を背景として成立した。その可能性が高い。

 もちろん、右の美濃国以外にも、日本列島内にこの「わざみ」の地名はありえよう。なぜなら

(イ)
 「わ」は「三」などの「輪」。祭りの場を意味する。
(ロ)
 「さ」(濁音が「ざ」)は「宇」「土」などの地形接尾辞である。
(ハ)
 「み」は「海」もしくは「女神」を意味する「か」の「み」である。

 従ってきわめて通常の「倭語地名」なのである。

 このような状況に立って人麿は「狛釼 わざみが原の」と歌った。この地名が、日本列島内のそれではなく、朝鮮半島の「倭山」、今や〝百済(「こま」)の戦場となっている「わざみが原」″であることをしめす、慎重な「文字使い」をしめしていたのである。

 彼にはこれが、「百済ならぬ、美濃国の地名」へと「換骨奪胎」されて〝転用″されるとは、思いも及ぼぬところであったであろう。そのように「誤解」されるのを恐れたからこそ、わざわざ「狛釼」の冠辞を用いたのであるから。

 その上、この長歌の歌詞を熟読すれば、鮮明な事実がある。それは

(α)狛釼 わざみが原の ― 戦闘の原野
(β)百済の原ゆ ― 葬送の原野

この二つの原野は「同一の原野」なのである。この歌の主人公(「明日香皇子」)は、百済の一部である「わざみが原」で戦い、そこで斃れ、そこから彼の屍は〝運び去られ″ていった。人麿はそのように見なし、そのように歌っているのである。― 壮烈な戦死だ。

 しかるに従来は、
(一)
 高市皇子は壬申の乱において美濃国の「わざみが原」で戦った。(673) (二)
 右の戦勝のはるかのちの24年後(696)、大和の百済原で葬られた。

というように、「場所」と「時」をバラバラにして、この濃密にして壮烈な歌を稀薄に「解しゆがめて」きていたのではなかったか。請い願わくは、再思熟考されんことを。

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