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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(140)

「天武紀・持統紀」(55)


人麿が「壬申の乱」を詠った?(8)
「百濟の原」


 もう私(たち)には「百濟の原」が百済国内の原野を指すことに何の疑念もない。しかし念のため、「定説」の「百濟の原」を検討しておこう。

(7)
百濟の原〈百濟之原〉
(注なし)

 199番が詠っている戦いが壬申の乱というのなら、「百濟の原」は最も力を入れて説明しなければならない地名だ。「百濟の原」の前の詩句「言(こと)さへく」に注がある。

「枕詞。百済にかかる。百済人の言葉がわかりにくくひびく意」。

 だが大系は「百濟」に対しては口をつぐんでいる。そこで私は他のところで説明がされているのだろうかと思い、調べてみた。『万葉集』には「百濟」という地名を詠い込んでいる歌がもう一つだけある。

1431番(巻8)
山部宿禰赤人の歌一首
百済野の萩の古枝(ふるえ)に春待つと居りし鶯鳴きにけむかも


 この歌の頭注に曰く
「百済野-奈良県北葛城郡広陵町百済あたりの野。昔は相当広範囲に渡ったらしい。朝鮮半島からの帰化人が居た故の名」。

 城上の宮の候補地の一つとして〈大系〉の注は「奈良県北葛城郡広陵町」を挙げていた。歌には「わご大王の葬列が百済の原を通って城上の宮へ」行くと書かれているので、「百濟」と「城上の宮」を同じ所に求めたのだろう。斎藤茂吉・山田孝雄も次のように述べており、これに異論をはさむ学者はいないようだ。(斎藤茂吉は1431番にも言及している。)

「百濟之原は今の大和北葛城郡、百濟村大字百濟の地で、飛鳥京から城上の殯宮に行くには其虞を通過したものであらう。巻八(1431)に、百濟野乃芽古枝爾の百濟野も同じ處であるやうである。書紀舒明巻に、十一年秋七月詔曰、今年造作大宮及大寺、則以百済川側宮處云々。十二年冬十月、徒百濟宮云々とある。」

「(百済之原は)飛鳥地方より城上の殯宮に至る経過する地にして平野なれば、原とはいへるなり。」

 この「定説」に対して古田さんは次のように反論している。

 しかし、ここには大いなる「?」がある。なぜなら、「百済」 の地名は近畿周辺だけでも、「一つ」 ではない。

 百済 ― 河内国、錦部(ニシキコリ)郡
百済郡 ― 摂津国   (和名類聚抄)

なども、著名だ。特に摂津国の場合、「郷名」「村名」の類ではなく、「郡名」であるから、より〝一般的な著名性″をもっている、とも言いうるのではあるまいか。

 とすれば、長歌の場合、それらに非ざることをしめすため、
 「大和なる百濟の原」
 「葛城の百濟の原」
といった表記が当然、あって然るべきもの。わたしはそう考えるが、ちがっているだろうか。

 この点、斎藤茂吉も、山田孝雄も、例にあげている山部宿禰赤人の歌一首
百濟野の萩の古枝に春待つと居りし鶯鳴きにけむかも
は、同一の談を以て見るべき歌ではない。なぜなら「五・七・五・七・七」という短歌の〝語数の少なさ″と内容的にも〝寓目性の強い″「短歌型式」だから、必ずしも「~の百済野」の形式は、不必要とは言えないまでも、〝入れにくい″要求だからである。

 この点、長歌はちがう。ことに、万葉集随一を誇る長大の詩句が連ねられ、「枕詞」類の修辞句も、豊富に連ねられていること、一見して明瞭だ。

 だからこれに対し、先述のように「葛城の」といった冠辞を付すること、何の困難もないであろう。しかし、それはない。なぜか。

 頭を一新しよう。

 天下に、もっとも著名なる「百済」とは、当然〝朝鮮半島の百済″だ。一点も、疑問の余地はない。これに「~の百済」などという限定詞は必要がない。

 むしろ、右のような「限定詞のない」事実こそ、この「百済」を以て、いずこに比定すべきかをしめす。

 当然、倭国と同盟を結び、新羅・唐と戦った百済国である。その「百済国の原野で戦い、そこで姿を消した王者」それがこの人麿作歌の主題、そして主たる対象なのである。

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