2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(139)

「天武紀・持統紀」(54)


番外編


 昨日、向井藤司さんから次のようなコメントをいただきました。

白村江の戦いの時期のくい違い

初めてお便りします。
今年になってからこのブログを見つけて、過去の「真説・古代史」、《「真説・古代史」拾遺編》も周回遅れでフォローして、楽しく読んでいます。

白村江の戦いが書紀では663年、旧唐書では662年と1年のくい違いがあります。この理由として納得できる説明を見たことがありません。歴史の大きな流れには影響しないと思いますが、何となく気になります。何かご存知でしたらご教示下さい。

 故・中村幸雄さんがこの問題を論じていたのを思い出した。紹介しよう。

「辛酉革命説」私説   ―「白村江の戦い」年代の謎を解く―

 戦前、我々は歴史教育を、『日本書紀』の天皇治世をそのまま列挙した「皇紀(西歴より六六〇年長い)」により受けたが、神武以後の天皇が異常に長命であり不審に思っていた。

 当然、歴史学者も疑問を持たれたのであり、特に那珂通世氏は『上世年紀考』で、『日本書紀』は大和朝廷の成立を修飾する為、故意に年数を延長したのではないかと推定し、その基準は『周易』では「辛酉」を革命の年とし、「一蔀=廿一元日千二百六〇年」に大革命があった筈だとして、「皇紀1261年=601年=推古9年」から1260年前に、神武即位年を設定したのであると云う「辛酉革命説」を提唱した。

 だが、『日本書紀』 の推古9年には、聖徳太子が斑鳩宮を造った以外にはさしたる記事はなく、那珂説には納得出来ず、私は那珂氏が「一蔀=二一元=二一六〇年」のみを固執されたことを残念に思うのである。

 実は「辛酉革命説」を最初に提起したのは、平安中期の菅原道真と同時代人の三善清行『革命勘文』であった。

〝易緯(鄭玄注)云、辛酉為革命、甲子為革命、天道不遠、三五而反、四六二六交相乗、七元有三変、三七相乗、廿一元為一蔀、合千三百廿年。″

 この数理は難解であり、何を意味しているか不明であるが、清行は要するに、『周易』では、1320年が重要な意味を持った年数であると考えていたことは明らかであり、『日本書紀』では「皇紀1321年=661年」である斉明7年を基準として、遡って神武皇紀元年が設定され、古代天皇の年令も作為的に延長されたことを示唆しているのである。

 この様に清行説を紹介すると、当然、読者は斉明七年にどの様な歴史上の重要事件があったのか、と問われるであろう。この予想される質問に対し、清行は次の通り解答している。

〝天皇財重日足姫(斉明)天皇七年(661年)、辛酉秋七月崩、天智天皇位。″

 即ち、潜行の主張は、「皇紀1321年=661年=斉明死亡=天智元年」であったのである。

 平安時代、天智が最も重要な天皇であると認識されていたことは清行と同時代に成立している『延喜式」で朝廷行事「国忌」の最古が「天智忌」である事実により確認され、その理由は天智が〝天命を受けた天皇″であり、大和朝廷の始祖であったからであると推定し得る。

 ここまでの話(「国忌」と「辛酉革命説」)については、既に「「天智紀」(1)」
「「天智紀」(2)」で取り上げている。参照してください。

 この様に述べると、次の反論が予想される。

(1) 661年は、天智「素服称制」であり、
(2) 天智の即位は、668年である。
(3) 『日本書紀』 の編年によると、天智元年は662年である。
(4) 故に、三善清行の年代認識は誤りであり、『革命勘文』は信頼出来ない。

 成程、『日本書紀』をそのまま、正しいと信用すると、その通りである。然し、私は『日本書紀』には作為があると考えており、その編年に、次の疑問を持っていた。

(5) 斉明・天武の例の様に、年の途中に死亡しても、その年末までは治世は継続していたとしているケースがある。
と共に、
(6) 皇極・持統の例の様に、年の途中に王位交替があったとき、即時に治世は交替しているケースがあり、
両者のどちらが「治世変更」の原則であるかが一定していないからである。

 現代の「改元」の常識で判断すると、その原則は当然後者であり、恐らくは古代に於いても同様であり、前者は『日本書紀』の造作ではないかと推定される。

 故に、私は本来の天智元年は、斉明死亡年である661年であり、『日本書紀』の造作により、「一年おくれ」の662年に変更されたが、原伝承は継承され、『革命勘文』に登場したのではないかと推測するのである。

 角度を変えて、「白村江の戦、年代の謎」を考えてみよう。周知の通り、『日本書紀』では白村江の戦は「天智2年=663年」であり、外国史書と一年の誤差があり、疑問とされてきた。

 私見の通り、天智2年の原形は662年であり、『日本書紀』の造作により、一年繰下げられたにも拘らず、「白村江の戦=天智2年」のまま収録された為、一年の誤差を生じてしまったと解釈すると、この謎は解けるのである。

 白村江の戦は、大和朝廷とは無縁の九州王朝の出来事であり、大和朝廷の史書である『日本書紀』の史官はさほど重要視せず、誤って編集し、校正を怠ったと推定される。

 「天智称制」そのものを「造作」とする私(たち)の立場からは納得しがたい点があるが、一応こういう議論があるということで紹介した。

 なお、向井さんの問題提起を受けて考え始めたばかりなので、まだ漠然としたものでしかないが、いま私なりに考えていることを記しておく。

「「天智紀」(3)」では、現在残されている『日本書紀』は一度完成したものを「辛酉革命説」に則って書き換えられたものであるいう山崎説を取り上げた。その一節を転載する。

《山崎さんは、『日本書紀』の前に一度完成していた史料を『「書紀」初稿』と呼んでいる。山崎さんによると、『日本書紀』の中には、『「書紀」初稿』のままの修正漏れのミス・矛盾と推定されるものがたくさん紛れ込んでいるという。山崎さんの計算によると『日本書紀』全体の「誤りと矛盾」が312ヶ所のうち、書き替えによる「誤りと矛盾」は153ヶ所で50パーセント弱になるという。》

 私(たち)の立場からは、「一年の誤差」も書き換えの上で起こった齟齬の一つだと考えることができる。たぶん、斉明の死亡年を661年にずらしたため、661年から始まる「州柔の陸戦」・「白村江の開戦」関連の全ての記事を一年ずつ後の方にずらさざるを得なかった。
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この記事へのコメント
古代史は石渡信一郎ぬきでは語れない
古代真実追究しましょう
そのためには石渡信一郎をぬいては
まとまりがつかなくなると思います倭韓交差論なるもの お読みになりその感想を聞かせてください。
倭韓2度通過論が本当の名前かも。
ぜひ、一度 石渡論を論じてください。
2011/02/24(木) 00:11 | URL | むらかみからむ #-[ 編集]
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