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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(138)

「天武紀・持統紀」(53)


人麿が「壬申の乱」を詠った?(7)
「背面の國」と「吾妻の國」


(5)
鶏が鳴く吾妻の國〈鶏之鳴吾妻乃國〉
(注なし)

 〈大系〉には「吾妻の国」についての注がないが、定説論者にとっては「自明」というわけにはいかない。多くの議論が行われている。ただし、199番を「壬申の乱」の歌としているので、壬申の乱の時の「東国軍団の軍事制度」というテーマとして議論されている。「天武紀(上)」には天武方の将兵として「美濃国司」・「尾張国司」・「東海の軍」・「東山の軍」などが記録されている。これについて、例えば山田孝雄は『萬葉集講義』で次のように論じている。

 吾妻之國之『アヅマノクニノ』とよむこと論なし。『吾妻乃國』は東國なることも論なきが、何によりてかくいふか。普通には日本紀、古事記にいへる如く、日本武尊の故事によりて坂東諸國を『アヅマ』と名づくといひ、(曰本紀には山東諸國とあり)それに異論もなき事なるが、若し然りとせば、ここに美濃國を東之國といへるを如何に解釋すべきか。

 なほこの時美濃に召されし兵は日本紀に東海の軍東山の軍とあるが、その東海の軍は尾張の軍を主とし、東山の軍は釋紀に引ける私記に曰はく『案斗智徳日記云命發信濃兵』とあり。

 これによりて考ふるに、この時『アヅマ』といふ語は坂東といふ固有の義にあらずして、汎く東方をすべて『アヅマ』といひしなることを考ふべし。

 なほ思ふに或は『アヅマ』といふ語はただ東方といふ意の古語にして、日本武尊の故事といふものもその説明の為の傳説ならむも知られず。

 199番で使われている「吾妻の国」とは関東地方を指す固有名詞ではなく、ただ「東方」という意味である、と言っている。つまり、大和から見た東方の国、「美濃国」・「尾張国」を指す、と言っている。

 「壬申の乱」という立場からすればこのように考えるほかない。しかし、これはおかしい。この伝で言うと、九州から見ると中国地方・四国地方・近畿地方の国々は「吾妻の国」と呼んでよいことになってしまう。  ついでながら、「日本武尊の故事」というのは、『古事記』から引用すると、次のくだりを指している。

 それより入り幸(い)でまして、悉に荒ぶる蝦夷等を言向(ことむ)け、また山河の荒ぶる等(ども)を平和(やは)して、還り上り幸でます時、足柄の坂本に到りて、御粮(みかれひ)食(を)す處に、その坂の、白き鹿(か)に化(な)りて來立ちき。ここにすなはちその咋(く)ひ遺(のこ)したまひし蒜(ひる)の片端をもちて、待ち打ちたまへば、その目に中(あた)りてすなはち打ち殺したまひき。故、その坂に登り立ちて、三たび歎かして、「吾妻はや。」と詔りたまひき。故、その國を號けて阿豆腐(あづま)と謂ふ。

 言うまでもなく、これは現地伝承を「倭建説話」に盗用した説話であり、「あづま」という現地名(固有名詞)はすでに定着・流布されていたことを示している。

 ところで、「吾妻」には「鶏が鳴く」という枕詞が付いている。これに関連して、斎藤茂吉が山田孝雄と同じ趣旨の論を展開している。

 「鳥之鳴・吾妻乃國之・御軍士乎・喚賜有」トリガナク・アヅマノクニノ・ミイクサヲ・メシタマヒテと訓む。東國の軍勢を動員したまうての意。

 トリガナクはアヅマの枕詞で、雞は夜明けを見て暗くからアに冠らせたといふ説(仙覺抄・冠辭考)。

 『さは鶏が鳴ぞやよ起きよ吾夫(アヅマ)』の意とする説(古義)。

 暁雞の暗く時に東の方から赤くなるから東方に冠らせたといふ説(福井氏枕詞の研究と釋義)。

 第一と第三とが同じに落着くべく、大體それでよい。

 ただ用例は皆アヅマに懸けたもののみだから、大體福井説の方がいいであらうか。アヅマは畿内以東の諸國で、近江、美濃、尾張などをさう云ふことがある。

 これらの従来の説を、古田さんはつぎのように批判している。

 茂吉は「さう云ふことがある。」と言っているけれど、要は、この長歌によって〝そう判断している″だけなのではあるまいか。

 この長歌の「作歌時点」が、はるか古代ならいざ知らず、「七世紀後半」においてもなお「固有名詞」に非ず、「東方」という普通名詞であったとは、わたしには信ずることができない。それならばなおさら、古事記・日本書紀において「吾妻=美濃」のような行文が現れていいはずだ。

 第一、それでは、あの関東において特に、「吾妻はや」の説話を〝唱導″すべき意味がないのではないか。

 私(たち)の立場からは「吾妻の国」がなにを指しかは、もうほとんど「自明」である。しかし、念のため古田さんの論評を読んでおこう。

 「州柔の戦い」に派遣された将軍たちは次のようであった。

前將軍
 上毛野君稚子・間人達大蓋
中將軍
 巨勢前臣評語・三輪君親戚呂
後將軍
 阿倍引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄

  全軍の先頭を切ってリードしているのは、「上毛野稚子」である。右の六人の将軍の中で、「君」の称号をもつのは、彼と「三輪君根麻呂」だけだ。全軍の「キイ・マン」だったのではあるまいか。

 彼のひきいる「関東」の軍は、この一大陸戦の〝中枢″をなしていた。そのように考えてあやまるまい。それが、文字通りの「吾妻之國」だ。本来の「吾妻」の地名は「上毛野国(群馬県)」に集中している。

 吾妻川・吾妻神社・吾妻町・吾嬬これらの固有名詞「吾妻」の群集地、ここが本来の「吾妻」伝承の発生地なのである。

 それ故、この「上毛野君の国」を「吾妻之国」と呼ぶのは、100パ一セント、正確なのである。何の疑いもない。


(3)
背面の國の・・・不破山〈背友乃國之・・・不破山〉
背面の國「美濃の国(岐阜県)を指す。ソトモは北」。52番の注:背面―北「ソ(背)ツ(の)オモ(面)」の約」。
不破山「岐阜県不破郡と滋賀県坂田郡との境の山]

 古田さんの論評は次のように続く。

 「鶏が鳴く 吾妻の國の 御軍士(みいくさ)を 召し給ひて」
とあるように、この上毛野君稚子という有力な「君」が関東からはるばる「不破山」を越えて馳せ参じてくれたのは、今この長歌の主人公「明日香皇子」その招請に依ったもの。人麿はそのように見なし、そう歌ったのである。

「やすみしし わご大君の きこしめす 背面(そとも)の國の 真木立つ 不破山越えて」

 「わご大君(吾大王)」とは、この長歌の主人公「明日香皇子」だ。

皇子ながら 任(ま)け給ひ」
とあるように、彼は「天子」(「倭国」九州王朝)の皇子として「大王」の位置にあったのである。

 「背面の國」とは、九州の「筑紫」を中枢点として、「吾妻の国」を指している。

 「不破山」の解釈については、古田さんは「定説」のものを踏襲している。しかし、私はこれには異議がある。文脈から「不破山」を越えたのは「わご大君」であって、「吾妻の國の御軍士」ではない。

 私はここの「不破山」は固有名詞ではなく、「踏破しがたい山」あるいは「難攻不落の山」という意味合いの普通名詞だと思う。 倭・百済連合軍が避城で敗れて第二の拠点とした州柔は
「山檢(やまさか)を設(ま)け置きて、盡(ことごとく)に防禦(ほせき)として、山峻高(やまさが)しくして谿隘(たにせば)ければ」
と描写されている。まさに「不破山」である。

 また、「背面」が〈大系〉の注が言うとおりの意味「北の方面」ならば、「背面の國」とは「吾妻の國」ではなく、「百濟」がピッタリと妥当する。

 つまり
「背面(そとも)の國の 真木(まき)立つ 不破山越えて 高麗剱 和蹔が原の 行宮に天降り座して」 の意味は
「百濟の険しい山を越えて、和蹔が原の行宮にお出ましになって」
となる。もしそうなら、次は「和蹔が原」の所在が問題となる。

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