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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(137)

「天武紀・持統紀」(52)


人麿が「壬申の乱」を詠った?(6)
城上の宮


(2)
城上の宮〈木上宮〉
「奈良県北葛城郡広陵町という。異説がある」。

 「城上の宮」は題詞にも使われている。「城上の殯宮〈城上殯宮〉」とあり、この歌を「高市皇子への挽歌」と主張する上でのかなめとなる地名だけれど、〈大系〉の注が「・・・という。異説あり」と語る通り、大和内ではうまく比定できていない。古田さんがその議論の経緯を語っている一文を斎藤茂吉著『柿本人麿、評釋篇巻之上』より引用している。

 「城上殯宮(きのへのおほあらき)は、延喜式の三立岡高市皇子在大和國廣瀬郡兆域東西六町南四町無守戸とあるところで、今の北葛城郡(舊廣瀬郡)馬見村三吉字大垣内の三立山(みたてやま)といふ地に當るといはれてゐる。そして明日香皇女の殯宮のあった城上岡の北方約半里の地點に當ってゐる。然るに廣瀬社記には、『城戸郷河合村』とあるし、折口博士は、高市郡飛鳥村木部(きべ)であらうと考へてゐる。

 博士云。『當時特別の事情のない限り、諸皇子の常在處は、都の附辺であったので、飛鳥に近い木部(きべ)に殯宮を造られたのはあるべき事である』(萬葉集辞典)。

 なほ奥野氏云。『此の場合上記廣瀬郡以外に、或は高市・城上・十市等諸郡にも同名地ありしと見て不都合なきが如し。城於道は高市又は十市郡中の城上への往還、又は云ひ得べくんば城上郡への通路か。木上宮。不明。恐らく上記の一に在りしなるべし』(萬葉大和志考)。(668ページ)

 実は〈大系〉の注は「明日香皇女、木缻(きのへ)の殯宮の時、柿本朝臣人麿の作る歌」(196~198)の「注を見よ」との指示に従って、そこの注を書き留めたものである。上記引用文中に「明日香皇女の殯宮のあった城上岡の北方約半里の地點に當ってゐる」とあるが、「明日香皇女」の陵墓についての記載は「延喜式」にはない。「明日香皇女の殯宮のあった城上岡」というのは、逆にこの万葉の長歌によって比定されたもののようだ。要するに「高市皇子尊の城上の殯宮」はどことも分からずじまいなのである。

(「缻」は原文では瓸の「百」の代わりに「缶」という字。漢和辞典にはない。)

 上の引用文中の「木上宮。不明。」の一節を、古田さんは「きわめて意味深い。真実(リアル)なのである。」と述べて、次のように続けている。

 これに対し、九州にも「城邊(きのへ)」がある。筑紫(筑前)の下座(シモツクラ)郡にある。

 城邊 木乃倍   和名類聚抄

 ここは「夜須郡」と近接している。あの「かきやす」だ。また同じく近接する上座(カムツアサクラ)郡の把伎(ハキ)には、あの「麻氐良布神社」があり、そこの祭神の一に、あの「明日香皇子」が祭られていた。この皇子の「名」は「大和」にはなかった。(内田康夫『明日香の皇子』は、実在の人物名ではない。)

 それがここ、朝倉郡(「上座郡」)には存在する。人麿作歌の、本来の故郷。それがどこか、すでに疑うことは困難なのではあるまいか。

 今まで扱ってきた、幾多の人麿作歌(「雷山の歌」(235)や「天帰の歌」(240)「滝の歌」(36)などと同じく、ここでも「九州から大和へ」の移植が見事に行われている。そして残念ながら〝不細工″に。

 わたしは、ことの本質をそのように見すえることとなった。やはり、いわゆる「壬申の乱の歌」(199)は、〝壬申の乱″とは関係がない。

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