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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(136)

「天武紀・持統紀」(51)


人麿が「壬申の乱」を詠った?(5)
「白村江の戦」の前に陸戦があった


 白村江の海戦は663(天智2)年の秋8月に行われた。それより先、662(天智元)年冬12月から663(天智2)年春3月にかけて、百済の地で陸戦が行われていた。

 12月、百済復興を目指して百済に帰った百済王・豊璋(ほうしょう)は避城(へさし)を都とした。2月に唐・新羅連合軍に攻められて、倭・百済連合軍は州柔(つぬ)へ敗走した。3月、倭国は27,000人の大軍を百済に送った。倭・百済連合軍 対 唐・新羅連合軍の陸戦も大規模な激戦だったと思われる。この戦いの経緯を「天智紀」は次のように記録している。

 冬十二月の丙戌(ひのえいね)の朔(ついたちのひ)に、百濟の王(こきし)豊璋(ほうしやう)、其の臣(まへつきみ)佐平信(さへいふくしん)等、狭井連(さゐのむらじ)〈名を闕せり。〉、朴市田來津(えちのたくつ)と、議(はか)りて曰はく、「此の州柔(つぬ)は、遠く田畝(たはたけ)に陥(へな)りて、土地磽确(つちやせ)たり。農桑(なりはひこかひ)の地に非ず。是(これ)担(ふせ)き戦ふ場(には)なり。此に久しく處(を)らば、民(たみ)飢饉(う)ゑぬべし。今避城(へさし)に遷るべし。避城は、西北(いぬゐ)は帯ぶるに古連旦(これんたんけい)の水(かは)を以てし、東南(たつみ)は深泥巨堰(しむでいこえん)の防(ふせき)に據(よ)れり。繚(めぐら)すに周田(まときた)を以てし、渠(みぞ)を決(さく)りて雨を降らす。華實(はなみ)の毛(くにつもの)は、三韓(みつのからくに)の上腴(よきもの)なり。衣食(きものくらひもの)の源(みなもと)は、二儀(あめつち)の隩區(くむしら)なり。地卑(ところくだ)れりと曰ふとも、豈(あに)遷らざらむや」といふ。是に、朴市田來津、獨(ひと)り進みて諌(あさ)めて曰はく、「避城と敵(あた)の所(を)在る間(ところ)と、一夜に行(あり)くべし。相近きこと玆(これ)甚(はなはだ)し。若し不虞(おもほえぬこと)有らば、其れ悔(く)ゆとも及び難(がた)からむ。夫(そ)れ飢(うゑ)は後(のち)なり、亡(ほろび)は先(さき)なり。今敵の妄(みだり)に來(きた)らざる所以(ゆゑ)は、州柔、山檢(やまさか)を設(ま)け置きて、盡(ことごとく)に防禦(ほせき)として、山峻高(やまさが)しくして谿隘(たにせば)ければ、守り易くして攻め難きが故なり。若し卑(みじか)き地(ところ)に處(を)らば、何を以てか固く居りて、搖動(うご)かずして、今日 に及ばましや」といふ。遂に諫(あさめ)を聽かずして、避城に都(みやこ)す。

 是歳、百濟を救はむが爲に、兵甲(つはもの)を修繕(をさ)め、船舶(ふね)を備具(そな)へ、軍(つはもの)の粮(くらひもの)を儲設(ま)く。是年、太歳壬戌(みづのえいぬ)。

 二年の春二月(きさらぎ)の乙酉(きりとのとり)の朔(ついたち)丙戌(ひのえいぬのひ)に、百濟、達率金受(だちそちこむじゅ)等を遣(まだ)して、調(みつき)進(たけまつ)る。新羅人(しらきのひと)、百濟の南の畔(ほとり)の四州(よつのくに)を焼播(や)く。并(あはせ)て安徳(あんとく)等が要地(ぬみのところ)を取る。是に、避城、賊(あた)を去(きさ)ること近し。故、勢(いきはひ)居(を)ること能(あた)はず。乃ち還(かへ)りて州柔に居り。田來津(たくつ)が計(はか)る所の如し。

 是の月に、佐平信、唐の俘(とりこ)續守言(しよくしゆげん)等を上げ送る。

 三月(やよひ)に、前將軍(まへのいくさのきみ)上毛野君稚子(かみつけののきみわかこ)・間人達大蓋(はしひとのむらじおはふた)、中將軍(そひのいくさのきみ)巨勢前臣評語(こせのかむさきのおみをき)・三輪君親戚呂(みわのきみねまろ)、後將軍(しりへのいくさのきみ)阿倍引田臣比邏夫(あへのひけたのおみひらぶ)・大宅臣鎌柄(おほやけのおみかまつか)を遣して、二萬七千人(ふたよろづあまりななちたり)を率(ゐ)て、新羅を打たしむ。


 この戦闘を古田さんは「州柔の戦闘」と呼んでいる。この戦闘は冬から春にかけて行われている。399番が書き記す季節とピッタリ一致する。これまでに明らかになったことから、論理的必然として次の説が成り立つ。

 この「州柔の戦闘」に、今は亡き甘木大王の後を継いだ明日香皇子が倭軍の総帥として参戦したのだった。しかし、明日香皇子はこの戦闘で帰らぬ人となった。高市皇子への挽歌は実はこの明日香皇子への挽歌の盗用であった。なお、長歌(199番)の克明な情景描写から考えると、人麿も明日香皇子の随員としてこの戦闘に従軍していたと考えられる。

 この仮説が正しいことはもうほとんど疑いようがないと私には思われるが、もっと確実なものとする論証が必要だろう。199番~202番には原文改訂された地名(香具山・埴安)のほかにも以下のような地名が使われている。それらの地名の検証がそれである。

地名の訓読み〈原文〉
「定説」(岩波大系)による比定

という形式で列記しておこう。

(1)
明日香の真神の原〈明日香乃 真神之原〉
「奈良県高市郡明日香村。飛鳥寺南方一帯の地」。

(2)
城上の宮〈木上宮〉
「奈良県北葛城郡広陵町という。異説がある」。

(3)
背面の國の・・・不破山〈背友乃國之・・・不破山〉
背面の國「美濃の国(岐阜県)を指す。ソトモは北」。52番の注:背面―北「ソ(背)ツ(の)オモ(面)」の約」。
不破山「岐阜県不破郡と滋賀県坂田郡との境の山]

(4)
高麗剱<和蹔が原〈狛劔 和射見我原〉
高麗剣「枕詞。わざみが原のワにかかる。高麗の剣は、柄頭に鐶(わ)があるので、ワにかかる。
和蹔が原「岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原。一説に、同郡青野が原(同郡赤坂町青野のあたり)」。

(5)
鶏が鳴く吾妻の國〈鶏之鳴吾妻乃國〉
(注なし)

(6)
渡會の齋の宮〈渡會乃齋宮〉
渡会「伊勢の渡会郡」。
斎の宮「斎宮のことではなく、天照大神をいつきまつった宮、すなわち伊勢神宮」。

(7)
百濟の原〈百濟之原〉
(注なし)

(8) 202番
哭澤の社〈哭澤之神社〉
「奈良県桜井市木之本にある」。

 (1)については既に「飛鳥浄御原宮の謎(8)」で、検討済みである。次回から(2)以降を検討していこう。
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白村江の戦いの時期のくい違い
初めてお便りします。
今年になってからこのブログを見つけて、過去の「真説・古代史」、《「真説・古代史」拾遺編》も周回遅れでフォローして、楽しく読んでいます。

白村江の戦いが書紀では663年、旧唐書では662年と1年のくい違いがあります。 この理由として納得できる説明を見たことがありません。 歴史の大きな流れには影響しないと思いますが、何となく気になります。 何かご存知でしたらご教示下さい。
2011/02/22(火) 18:36 | URL | 向井 藤司 #-[ 編集]
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