2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(135)
「天武紀・持統紀」(51)
人麿が「壬申の乱」を詠った?(4)
199番歌と239番歌の関係
(A)
鹿(しし)じもの い匍(は)ひ伏しつつ ぬばたまの 夕(ゆふべ)になれば 大殿(おほとの)を ふり放(さ)け見つつ 鶉(うづら)なす い匍ひもとほり 侍(さもら)へど 侍(さもら)ひ得ねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 憶(おも)ひも いまだ盡きねば
199番の中のこの詩句に出会ったとき、誰もが「飛鳥浄御原宮の謎(10)」 で取り上げた239番歌を思い出すことだろう。その歌の中に類似の詩句があった。
(B)
獵路の小野に 猪鹿(しし)こそば い匍ひ拜(おろが)め 鶉こそ い匍ひ廻(もと)ほれ 猪鹿じもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひ廻ほり 恐(かしこ)みと 仕へ奉りて
人麿は、どのような情意を込めて、199番と239番に同様の詩句を用いたのだろうか。
199番は高市皇子への挽歌であり、239番は長皇子の猟の時の歌である、と題詞どおりに扱っている学者たちはこれをどのように説明しているのだろうか。
さて、前回の地名改訂のトリック解明により、高市皇子への挽歌(199番)が、舞台を筑紫から大和へと偽装した盗用であることが判明した。では、もともと人麿は誰にこの挽歌を捧げたのだろうか。前回の議論の中にもうその答は内包されている。そう、「明日香皇子」だ。
239番は長皇子の猟の時の歌とされているが、実は甘木(筑紫)の大王への挽歌だった。人麿は二つの挽歌(199番・239番)に同じような詩句を使っている。そこに込められた人麿の情意を古田さんは次のように読み解いている。
『「?」の戦闘』の「?」には何が入るのだろうか。
「天武紀・持統紀」(51)
人麿が「壬申の乱」を詠った?(4)
199番歌と239番歌の関係
(A)
鹿(しし)じもの い匍(は)ひ伏しつつ ぬばたまの 夕(ゆふべ)になれば 大殿(おほとの)を ふり放(さ)け見つつ 鶉(うづら)なす い匍ひもとほり 侍(さもら)へど 侍(さもら)ひ得ねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 憶(おも)ひも いまだ盡きねば
199番の中のこの詩句に出会ったとき、誰もが
(B)
獵路の小野に 猪鹿(しし)こそば い匍ひ拜(おろが)め 鶉こそ い匍ひ廻(もと)ほれ 猪鹿じもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひ廻ほり 恐(かしこ)みと 仕へ奉りて
人麿は、どのような情意を込めて、199番と239番に同様の詩句を用いたのだろうか。
199番は高市皇子への挽歌であり、239番は長皇子の猟の時の歌である、と題詞どおりに扱っている学者たちはこれをどのように説明しているのだろうか。
従来の万葉学者にとっては、この二つの「類似したフレーズの用法」について、合理的に、そして有機的に理解することはおよそ不可能だったのではあるまいか。
なぜなら、一方は「長皇子の『生前』の狩猟歌」、他方は「高市皇子への『没後』の挽歌」において、ほとんど「相似形をなす、特異な修辞」がダブって出現しているのだ。
しかも、高市皇子の場合、「壬申の乱」に対する、延々たる戦闘場面のあと、なぜ突如「狩獵の場面」へと〝話題が転換する″のだろう。ほとんど〝常軌を逸している″といっても、過言ではないのではないか。わたしはそう思う。
従来はこれに対し、「拝礼の儀式」のように解してきた。
「伊波比伏管『イハヒフシツツ』なり。『イハヒ』の『イ』は所謂發語といはるる接頭辭にして深き意なく、いはひにて『ハヒ』といふに同じ。(中略)即ち『這ひ伏しつつ』といふ事なるが、これは貴人に對する拝禮の容をいへるなり。」(山田孝雄『萬葉集講義』490ページ)
のようだ。斎藤茂吉も
「また、書紀天武紀に、11年9月、辛卯朔壬辰、勅自レ今後跪禮匍匐禮(ヒザマヅクヰヤハフヰヤ)並止レ之、更用二難波朝廷之立禮云々とあるを以て、攷證では、『匍匐は禮なるをしるべし』 と云いて居り、なは續日本紀文武天皇の慶雲元年正月の條に、辛亥始停二百官跪伏之禮一とあるから、其頃までは未だ跪伏の禮が行はれてゐたやうである。」(『柿本人麿評釋篇巻之上』708ページ)
という。右の茂吉の引文の直前に、例の「天帰の歌」(239)中の〝類似文″が一部引用されているけれど、肝心の「問い」たる「なぜ、狩猟の最中に『跪拝の礼』などが行われるのか。」という「問題提起」はない。当然、その「回答」もない。
従来の万葉学者にとって、このような「問題提起」を行なってみても、これに答えうる「術(すべ)」は全くなかった。
それ故、そのような「問題」の存在すること自体を、読者にあえて〝告げよう″とはしなかったのではあるまいか。
従来の万葉学が強く「大和わく」に縛られ切った姿を、わたしはここでも残念ながら見出さざるをえなかったのである。
さて、前回の地名改訂のトリック解明により、高市皇子への挽歌(199番)が、舞台を筑紫から大和へと偽装した盗用であることが判明した。では、もともと人麿は誰にこの挽歌を捧げたのだろうか。前回の議論の中にもうその答は内包されている。そう、「明日香皇子」だ。
239番は長皇子の猟の時の歌とされているが、実は甘木(筑紫)の大王への挽歌だった。人麿は二つの挽歌(199番・239番)に同じような詩句を使っている。そこに込められた人麿の情意を古田さんは次のように読み解いている。
右の(A)の一節は、明らかに(B)と同一のテ一マだ。若干の語句のちがいはあるけれど、
「猪鹿―鶉―い匍ひ伏しつつ―い匍ひもとほり」
という二連の特徴ある語句を「共有」している。この点からも、両者「同一のテーマ」であることは明瞭である。これは、一体何を意味するか。
ただ、両者のちがいとしては、先の(B)ではなかった
「ぬばたまの 夕になれば 大殿を ふり放け見つつ」
の一句が、こちらの(A)で加えられていることから見れば、
(B)―先、
(A)―後
の「先後関係」にあることが、判明する。
もう一歩、立ち入って言えば、この「明日香皇子」を悼む長歌における「かっての『甘木の王者』の死」を、あえて〝想起″せしめようとしているのだ。誰に対して。もちろん、この「明日香皇子を悼む」ために集うた人々に対して、である。
そのために、この「特徴ある語句」をあえてくりかえし、参列者に対して、いやでも
「悲劇が二度おこった」
ことを印象づけようとしている。これがこの「くりかえされたフレーズ」という仕組みのもつ、重要な役割なのである。
「春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 憶ひも いまだ盡きねば」
とあるように、「明日香皇子」は「皇子ながら」父親ないし、先代に当る「甘木の王者」 の不慮の死をうけ、その代りに、この「?」の戦闘に参加してきた。その挙句の、この新たな、二度目の悲劇。人麿はそのように認識し、そのように歌っていたのである。
『「?」の戦闘』の「?」には何が入るのだろうか。
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