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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(134)
「天武紀・持統紀」(50)
人麿が「壬申の乱」を詠った?(3)
原文改定という奥の手
従来の万葉学者は題詞を第一次資料としているので、199番~202番に出てくる地名の探索も奈良の中でしか行わない。地名を奈良の中に見いだすためにさまざまな手を使う。199番~202番では古写本より後代の写本を採用するという原文改訂を行っている。
『万葉集』の最も古い写本は「元暦校本」(平安中期)であるが、全歌揃っていない。しかし、6割以上の歌を網羅し、それぞれに校訂があるので、最も重要な写本とされている。〈大系〉は「元暦校本」ではなく、「西本願寺本」を底本としている。「西本願寺本」は鎌倉時代後期の写本だが、20巻すべてそろったものでは一番古い写本なので、これを底本に選んだのだろう。しかし多くの点で「元暦校本」による文字改訂を行っているので、「元暦校本」を重要視していることがうかがえる。
〈大系〉では「西本願寺本」の原文を改訂した文字にはその根拠となった写本を示している。199番に出てくる地名に関しては次のような改定が行われている。
底本文→改訂文〈根拠写本〉(歌番号)という形式で示すと
A
香未山之宮→香來山之宮〈金・類・紀〉(199番)
B
垣安乃→埴安乃〈温・矢・京〉(199番)
C
垣安乃→埴安乃(紀)(201番)
となる。
(古田さんは「元暦校本」を、後代写本に比して純然たる古写本と評価していて、「元暦校本」を底本として比べている。上の例では「元暦校本」を底本とした場合も同じである。)
改訂根拠となっている写本は略記号で示されているが、復元すると次のようになる。
〈温〉→温故堂本(室町末期)
〈矢〉→大矢本(室町末期)
〈京〉→京都大学本(江戸初期)
〈金〉→金沢文庫本(室町時代初期)
〈類〉→類聚古集(平安時代後期または鎌倉初期)
〈紀〉→紀州本(1~10巻 鎌倉時代末期 11~20巻 室町時代後期)
全て後代写本だ。「類聚古集」以外は「新点本」と呼ばれている。「類聚古集」は比較的古く、「元暦校本」と同じく「次点本」に分類されているが、古田さんによると、『「類聚者の手」の加えられている点、「元暦校本」のような、純然たる古写本ではない』という。
以上のような改訂状況を、古田さんは次のように分析している。
後代写本が「未」→「來」・「垣」→「埴」という改定を行ったのは、写本者の不注意によるミスではなく、すでにその写本者に地名改竄の意図があったと、古田さんは言っている。
では、底本に従った場合、Aの「香未山之宮」はどこに比定できるのだろうか。
「麻氐良布神社」・「明日香皇子」は私(たち)にはおなじみの存在だ。既に「飛鳥浄御原宮の謎(8)」
でお目にかかっている。
次に、B・Cの「垣安」はどうだろうか。
「天武紀・持統紀」(50)
人麿が「壬申の乱」を詠った?(3)
原文改定という奥の手
従来の万葉学者は題詞を第一次資料としているので、199番~202番に出てくる地名の探索も奈良の中でしか行わない。地名を奈良の中に見いだすためにさまざまな手を使う。199番~202番では古写本より後代の写本を採用するという原文改訂を行っている。
『万葉集』の最も古い写本は「元暦校本」(平安中期)であるが、全歌揃っていない。しかし、6割以上の歌を網羅し、それぞれに校訂があるので、最も重要な写本とされている。〈大系〉は「元暦校本」ではなく、「西本願寺本」を底本としている。「西本願寺本」は鎌倉時代後期の写本だが、20巻すべてそろったものでは一番古い写本なので、これを底本に選んだのだろう。しかし多くの点で「元暦校本」による文字改訂を行っているので、「元暦校本」を重要視していることがうかがえる。
〈大系〉では「西本願寺本」の原文を改訂した文字にはその根拠となった写本を示している。199番に出てくる地名に関しては次のような改定が行われている。
底本文→改訂文〈根拠写本〉(歌番号)という形式で示すと
A
香未山之宮→香來山之宮〈金・類・紀〉(199番)
B
垣安乃→埴安乃〈温・矢・京〉(199番)
C
垣安乃→埴安乃(紀)(201番)
となる。
(古田さんは「元暦校本」を、後代写本に比して純然たる古写本と評価していて、「元暦校本」を底本として比べている。上の例では「元暦校本」を底本とした場合も同じである。)
改訂根拠となっている写本は略記号で示されているが、復元すると次のようになる。
〈温〉→温故堂本(室町末期)
〈矢〉→大矢本(室町末期)
〈京〉→京都大学本(江戸初期)
〈金〉→金沢文庫本(室町時代初期)
〈類〉→類聚古集(平安時代後期または鎌倉初期)
〈紀〉→紀州本(1~10巻 鎌倉時代末期 11~20巻 室町時代後期)
全て後代写本だ。「類聚古集」以外は「新点本」と呼ばれている。「類聚古集」は比較的古く、「元暦校本」と同じく「次点本」に分類されているが、古田さんによると、『「類聚者の手」の加えられている点、「元暦校本」のような、純然たる古写本ではない』という。
以上のような改訂状況を、古田さんは次のように分析している。
第一、「元暦校本」という初期写本の表記を捨て、いずれも「後代写本」の表記を是としている。
第二、右の結果、次のような文面となっている。
①
Aの場合、「香未山之宮」では「神山の宮」となる。このような「宮」は大和には存在しない。しかし來に〝変える″と「大和の香具山のそばにある宮」という意味として「大和内の作歌」にふさわしく見える。
②
BCも、「垣安」では「大和内の地名」となりえないけれど、「埴安」に〝変える″と、「大和の香具山のそばの埴安の池」と結びつけうる。
以上だ。すなわち、「元暦校本」や「西本願寺本」など、一般の諸古写本の「原表記」を〝捨てる″その目的は、ひたすら「大和に合わせる」ためなのである。
逆に言えば、「原表記」のままでは「大和に合わない」のだ。これが、「原文改定」者を導いた方針、「大和中心のイデオロギー」なのである。
それに合わない古写本は、遠慮なく書き変える。―これが、右の「後代写本」成立の基本動機だった。「改写本」だ。
そして歴代の「国学者」も、現代の万葉学者も、滔々としてこの「後代改定の手」に従ったのである。
後代写本が「未」→「來」・「垣」→「埴」という改定を行ったのは、写本者の不注意によるミスではなく、すでにその写本者に地名改竄の意図があったと、古田さんは言っている。
では、底本に従った場合、Aの「香未山之宮」はどこに比定できるのだろうか。
第一、「香未山之宮」は「神山の宮」である。「かみ」の「み」には甲類と乙類があるけれど、「未」は乙類であり、「神」に適合している。(巻17、4021では「前書き」で「雄神川」、本文(歌)で「乎如未河」と表記されている。)
九州の筑紫(筑前)の朝倉郡には麻氐良布神社がある(杷木町志波5458)。それは麻氐良布山の山頂にある。『太宰管内志(上)』には、この麻氐良布神社の祭神として、次の表記がある。
「一説に伊弉册尊相殿に伊弉諾尊・齋明天皇・天智天皇・明日香皇子」。(「神社志」646ペ一ジ)
「一説に」と言っているのは、この前に「祭神一座」として「伊弉諾尊」を中心(本殿)においたものと、相対した表記のようである。
それはともあれ、「相殿」の中に「明日香皇子」の名があって、祭神の一に加えられているのが注目される。
古事記、日本書紀はもとより、従来の「万葉研究」にも登場していない「名」だ。
この地元、この朝倉郡の地に、「祭神」の中に加えられるほど、〝追慕″されていた人物の名。そのように考えて、およそ大過ないのではあるまいか。
この麻氐良布神社は、麻氐良布山という「神山」の山頂に建てられている。『全国神社名鑑(下巻)』にも、その特異な山頂の神社の姿が「写真」として掲載されている。
ここは、文字通りの「神山の宮」なのであった。
「麻氐良布神社」・「明日香皇子」は私(たち)にはおなじみの存在だ。既に
次に、B・Cの「垣安」はどうだろうか。
「かき(垣)」は「かみ(神)」の「か」を接頭語としている。〝神聖な″の意である。「き」は「城・柵」。後述の「城邊(きのへ)」の「城」に当ろう。
従って「かき」は〝神聖なる要害″の意である。
「やす(安)」は夜須。夜須郡の名が著名である。
すなわち「かきやす」は、〝神聖なる夜須″を意味する言葉である。九州の筑紫の一地名の美称だ。
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