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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(131)

「天武紀・持統紀」(47)


日並知皇子の謎(10)
裏に高市皇子の影あり?


 「日並知皇子」という表記について、岩波大系の『続日本紀』はその補注に神野志隆光(こうのし たかみつ)という学者の論文「〈日双斯皇子〉をめぐって」から次の一文を引用している。

 草壁皇子の称号もしくは諡号と推定されるものを、その表記によって分けると、つぎの五種に類別される。

A 日双斯皇子命(万葉49)
B 日並皇子尊(万葉110題詞、167題詞)
  日並皇子(天平勝宝8歳6月21日東大寺献物帳(国家珍宝帳))
C 日並知皇子尊(続紀文武即位前紀、元明即位前紀、元正即位前紀、天平元年2月甲戊条)
  日並知皇子命(続紀慶雲4年4月庚辰条、天平宝字2年8月戊申条)
  日並知皇太子(続紀慶雲4年7月壬子条)
D 日並所知皇子命(万葉目録110、本朝月令所引右官史記)
  日並所知皇子(七大寺年表所引竜蓋寺伝記)
E 日並御字東宮(栗原寺鑪盤銘)

 柿本人麻呂の持統6年の作である万葉49にみられるA「日双斯」は、「日にあいならぶ」意の「ヒナミに、過去の助動詞「シ」がついたものであって、これは、草壁皇子の皇子である軽皇子(文武)が、人びとに正統な皇位継承者として意識されはじめたころ、人麻呂が独自に歌に詠みこんだものと推定される。したがってAは正式な称号とはみなしがたい。

 これに対して、B「日並」とC「日並知」は、すでに称号もしくは諡号となっている。ことに注目しなければならないのは、続紀の統一的な表記とみられるC「日並知」であって、この表記の多くは、皇位継承に関する記事において、継承者の正統性を喚起する文脈のなかにあらわれる。したがってここでの「知」は、「シラス」すなわち統治の意と解すべきものである。それゆえCは、諡号であったと推定される。

 D「日並所知」、E「日並御宇」は、こうした意識がさらに発展した表記であろう。

 49番の「日双斯」という名称は人麿が草壁皇子を念頭において詩に読みこんだという点を除けば、『続日本紀』で「日並知」という表記が用いられるようになった経緯は、おおむねここに書かれようであったと思われる。私(たち)の立場からその経緯をたどり直してみよう。

 49番を、古田さんの解析結果をふまえて訓読すると次のようになる。

日ならびし皇子の命(みこと)の馬副(そ)めて御獵(みかり)立たしし時は來向(きむか)ふ

大意
「かって天子(日)の右腕だった甘木の大王が天子の馬に従って猟に出立なさったと同じ時間が近づいてきた。(あのときの大王のお姿が彷彿と浮かんでくる思いがする。)

 神野志氏は「日雙斯」を「日並」や「日並知」という表記が生まれるきっかけとなったものと解釈している。それはその通りなのだが、「日雙斯」(日ならびし)は、あくまでも皇子の修飾する単語であり、称号ではない。また、氏は「日並」と「日並知」を同列に扱っているが、私は「日雙斯→日並→日並知」という二段階の変遷があったと考える。

 45番~49番に「軽皇子の・・・」という題詞を付して「大和わく」の歌として剽窃した『万葉集』編纂者は「日雙斯皇子=草壁皇子」とする外ない。そこで「日雙斯」の語幹だけとって「日並」という称号を考え出し、『万葉集』の題詞の中で使い始めた。つまり「日雙斯」を形容句だと理解していた。「定説」は「日並」をも「ひなみし」と訓じているが、これは「日雙斯」や「日並知」を考慮しての後付け訓だと思う。「日並」が使われ始めた段階では「日並」は、「ひなみし」ではなく、文字通り「ひなみ」と訓読していたのではないだろうか。

 そして『続日本紀』編纂者は『万葉集』での表記「日並」を採用するとき、「日雙斯」全体を称号としなければつじつまが合わないことに気付いて、「日並」を「日並知」と修正したのではないか。私はそのように考えている。

 次に神野志氏は、「日雙斯」(私の立場からは「日並」)は「人びとに正統な皇位継承者として意識されはじめたころ」に作り出され、「日並知」は「継承者の正統性を喚起する文脈」で使われている、と言っているが、それほど軽皇子(文武天皇)は皇位継承者としての正統性が疑われていたということだ。

 小松崎氏もこのように考えから、草壁皇子が暗殺されて「56歳の文武王」が生まれたと幻視して、一つの物語を作ったのだった。私も軽皇子は皇位継承者としての正統性に問題があったのではないかと考えているが、「56歳の文武王」を採用するわけにはいかない。『日本書紀』・『続日本紀』の記録の範囲内で推測してみようと思う。

 軽皇子は「日並知皇子尊の第二子」と記録されている。二代後の元正天皇が「日並知皇子の皇女」なので、この氷高(ひだか)皇女が第一子、つまり軽皇子の姉とされている。いずれも天武・持統の直系の孫であり、血統という面からは正当性に問題は見いだされない。問題があるとすれば皇位継承者に決定した時の経緯であろう。

 草壁皇子も第二子だった。第一子は高市(たけち)皇子である。第二子にもかかわらず草壁皇子が皇太子に指定されたのは正妃(持統)の子だったからだろう。高市皇子の母親は胸形(むなかた)君徳善の娘・尼子娘(あまこのいらつめ)とある。胸形と言えば「飛鳥浄御原宮の謎(11)」で登場した瀛津嶋姫命・湍津姫命・田霧姫命の三神を祭る宗像神社を思い出す。胸形君は九州王朝ゆかりの有力者である。高市皇子の背後には有力な後援者が想定できる。

 壬申の乱の時(672年)、高市皇子は弱冠19歳にもかかわらず、天武から全軍統帥を任されて大活躍している。優れた資質に恵まれた皇子だったと思われる。690(持統4)年には太政大臣になっている。以後は皇太子と同じように政務を執っている。藤原京造営でも中心的役割を担っている。

 高市皇子は696(持統10)年7月10日に亡くなるが、その死亡記事も、草壁皇子の場合と同様、まことにそっけない。
「後皇子尊(のちのみこのみこと)薨(みう)せましぬ」。
これだけである。しかし、この記事にはさりげなく重要な情報が書かれている。「後皇子尊」という称号がそれだ。

 「尊」・「命」はともに「みこと」と訓読するが、『日本書紀』では「尊」は神名に、「命」は「皇子名に用いるのが通例である。しかし、例外として「尊」を草壁皇子に用いて「皇太子草壁皇子尊」と表記している。また、673(天武2)2月27日の天武即位記事では、草壁皇子尊・高市皇子命と違う文字を用いているが、草壁・高市双方に「みこと」という称号を付けている。もちろん、他の王子たちにはこのような称号はない。〈大系〉の補注によると、江戸時代の国学者・伴信友が、「この記事で「命」と尊称を加えたのは草壁皇子についで立太子したことの証である」と主張している。

 「後皇子尊」について、〈大系〉の頭注は「この二皇子が皇位継承の有資格者であったことを考慮した表記であろうか。」と疑問符つきで指摘しているが、即位記事での「高市皇子命」と死亡記事での「後皇子尊」という表記を勘案するとき、『日本書紀』の編纂者たちには「高市は草壁の後を継いだ皇太子」という認識があったと考えてよいであろう。『日本書紀』の編纂者にとっては30年ほど前の、いわば同時代史である。「忘れた」とか「真相は分からなくなっている」などということはあり得ない。

 以上の考察が正しいとすると、高市の立太子記事をはっきりと書くことに憚りがあったということになる。何があったのか。

 世襲君主制の国では王位継承時には必ずといってよいほど骨肉相食む権力闘争が起こる。大津皇子は「懐風藻」では天武の第一子となっているという。大津皇子は天武の死去時に謀反の罪で捕らえられ、死罪に処されている。

 ちょっと大胆すぎる推測になるが、大津の謀反は持統が自分が生んだ草壁の皇位継承を確実なものにするために謀った「冤罪」であった。その草壁は実力ナンバーワンの高市との権力争いに敗れて謀殺された。そして、今度はまた持統が、実質的な権力者・高市を、孫の軽に皇位を継承させるために抹殺した。

 〈大系〉の頭注によると、懐風藻の葛野王伝に次のような記事があるという。

「高市皇子薨後、皇太后引王公卿士於禁中立継嗣。時群臣各挟私好、衆議紛紜」。

 高市の死後に皇位継承者の選定が議論されたと言う。ここからも高市が皇太子であった可能性がうかがわれる。高市の死が謀殺であったか否かにかかわらず「衆議紛紜」、軽の皇位継承はすんなりとは決められなかったようだ。軽(文武天皇)の父親(草壁)に「日並知皇子尊」という特別な称号を付与して、その正当性を常に喚起しておく必要があったのだ。

(これで「日並知皇子の謎」を終わります。)
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