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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(130)

「天武紀・持統紀」(46)


日並知皇子の謎(9)
「寐毛宿良目八方」・「黄葉」


寐毛宿良目八方

46番
阿騎乃野尒 宿旅人 打靡 寐毛宿良目八方 古部念尒

阿騎の野に宿る旅人打ち靡(なび)き眠(い)も寢(ぬ)らめやも古思ふに


 この問題については、古田さんの論考を直接全文引用しておく。

 (「寐毛宿良目八方」は)「眠(い)も寝(ぬ)らめやも」と、従来は訓まれてきた。しかしこれは元暦校本(平安末)や西本願寺本(鎌倉末)その他で「寐毛宿長八方」となっているのを、後代写本(類聚古集、紀州本、元暦校本の朱字記入)をもとにして「霖毛宿良八方」と「原文訂正」したものだ。

 原本(元暦校本等)の場合、「いもぬらじやも」となり、〝とても寝れないことだろうなあ。″の意となる。

 これに対し、後代写本の方は「いもぬらめやも」の「やも」が「反語」となり、〝寝れるだろうか、否、決して寝ることなんかできない。″となり、一見〝強調″されているようで、実は〝芝居がかって″くる。左千夫評のようになってしまうのである。逆に、しみじみとした感懐からは遠ざかるのだ。

 甘木の大王の「悲劇の死」を思いつつ、静かな感懐にふけっているのである。

 このような原文改定が47番歌にもある。それが次のテーマである。

「黄葉」

 すべての古写本で「葉」となっているのを、江戸時代の学僧・契沖(けいちゅう)が「黄葉」と原文改定をし、「もみじばの」と訓じた。(『万葉代匠記』)

 原文に「黄葉」を含む歌を検索したら、なんと66例あった。そのうちに人麿の歌は7歌ある。この中には、もちろん47番は入っていない。47番の原文はあくまでも「葉」であり「黄葉」ではない。しかし、「黄葉」の使用がポピュラーなためか、今では「黄葉=もみじばの」が定説となっていて、これを疑う学者はいないようだ。学者たちは、すべての古写本が「黄葉」と書くべきところを「葉」と同じ間違いを犯したとでも考えているのだろうか。

 古田さんはこの原文改定を「非」とする。例えば
「黄葉」を用いている人麿の歌(208番)を見てみよう。

秋山の黄葉を茂み惑ひぬる妹を求めむ山道(やまぢ)知らずも

 明らかに秋の歌だ。このような例を引き出さなくとも、「黄葉」(黄色く色づいた葉)という字面からは秋を思い浮かべるのが常識だろう。

 ところが、長歌(45番)には「み雪降る 阿騎の大野に」という詩句がある。明らかに季節は冬だ。原文改訂した47番はこれと矛盾する。古田さんは、次のように、手厳しく批判している。

 冬に「黄葉」など、全く日本人の季節感覚に反する。季節感覚を失った、日本人の歌など。およそ「下の下」と言ったら酷だろうか。わたしには、そうとしか思えない。あの「冬から早春へ」の「州柔城の戦」の歌を、暑熱の中の「壬申の乱」に当てて、平然としてきた国学者たち、そして万葉学者たち、そのすべてに対して、ここでもまた深くわたしは首をかしげざるをえないのである。

 もともと九州を舞台にした歌を近畿の歌として盗用・改竄してきた歌は、『万葉集』には一体どのくらいあるのだろうか。これまでに古田さんが解明してきた該当歌は次のようである。

「皇(すめろぎ)は神にしませば」の二歌(235・241)
「甘木の歌」(239)
「吉野」をめぐる人麿の歌(36~39番)
「壬申の乱」の歌(199・200・201)

 このうち最後の例は、当ブログでは、まだ取り上げたことがない。上の引用文で「州柔(つぬ)城の戦」の歌と言われている歌である。近いうちに紹介しようと思っている。

 さて、もともと原文は「黄葉 もみじ」ではなく「葉」であった。では、この「葉」はどのように訓じればよいのだろうか。ここでも古田さんは「諸橋、大漢和辞典」を用いて「葉」の意義の確認から始めている。「葉」には「葉=世」・「葉=ちる」という意味がある。これに注目して、古田さんは「散りし世の」と訓んでいる。その読みを採用すると47歌は

ま草刈る荒野にはあれど散りし世の過ぎにし君が形見とぞ来し

となる。その読みの妥当性を前後の歌の意義とも関連させて古田さんは次のように解説している。
 すなわち、次の歌へのつながりは〝大王の治世は過ぎ去りましたのに、そのシンボルであった、あの「月」は今もありありと西の方(雷山の彼方)へ渡ってゆきます。″の意となろう。

 もちろん、第四歌(49)の「日雙(なら)びし皇子の尊」の一句が、直前の第三歌(48)の
 東―日
 西―月
の姿と、対応していること、言うまでもない。

 〝地上では、「日」に対する「月」であった大王の姿は消えましたのに、天空では今も、日と月が相並んで健在、あのように運行しっづけています。″として、地上の権力者の〝うつろいやすさ″をありありと歌い上げているのである。

 あの「吉野の歌」(36~39)にもあったように、これは「人麿思想の根源のテーマ」であり、基本をなす思想性なのであった。

 一連の歌の中で、その訓はピッタリと収まるが、「葉」という一字を「散りし世の」なんて訓じること自体に妥当性があるのだろうか。私のような素人には当然湧く疑念である。この疑念に応えるべく、古田さんは人麿歌における「一字表記」を含む歌を4例挙げて、「一字表記」は人麿の〝得意技″だということを詳細に論じている。

我念妹 人皆 如去見耶 手不纏為
うつくしみ わが思ふ妹を 人皆の 行くごと見めや 手に巻かずして (2843)

忌哉 意遣 雖過不過 猶戀
いむやと ものがたりして 心やり 過ぐせど過ぎず なほ戀ひにけり (2845)

直不相 夢谷 相見与 我戀國
うつつには直(ただ)には逢はね 夢(ゆめ)にだに 逢ふと見えこそ わが戀ふらくに (2850)

真珠眼 遠兼 一重衣 一人服寐
真珠(またま)の眼(め) 遠をしかねて 思へこそ 一重衣を一人着て寝(ぬ)れ(2853)

 右はいずれも、巻12冒頭部所載のものであるけれど、他にも例は数多い。

 人麿には、この種の表記を行なう「表記慣例」があったようである。もちろん「人麿作歌」と〝名乗った″ものには、それほど数多いわけではないけれど、しかしそのような「表記慣例」が絶無となったのではない。そのような理解は無理だろうか。むしろ、自然だ。

 さらに立ち入って考えれば、人麿のような「多作歌人のプロ」にとって、平常の〝手もと″の表記では、この種の略表記を使い、表向きに発表するときには、なるべく〝手直し″をする。そのような〝手法″が習慣化していたのかもしれぬ。

 しかし〝手もと表記″と〝外向き表記″との間には、時として「共通手法」が残る。それも当然ではあるまいか。

 ともあれ、人麿にとって「一字表記」は必ずしも異例ではない。その一点を今、確認しておこう。

 続いて、従来の学者たち学問上の姿勢を次のように批判している。

 一般の読者にとって、このような「一字表記」は〝不馴れ″であったにせよ、契沖・真淵以来の国学者、山田孝雄・武田祐吉や澤瀉久孝のような万葉学者にとっては、この「柿本人麿歌集」中の「一字表記」など、周知のことだ。それなのになぜ、従来はこの「葉」を「一字表記」として訓まず、「黄」字を補って「黄葉」として訓んだのであろうか。「み雪降る」冬の歌であること、明白であるのに。わたしには不審だ。

 思うに、それには重要な理由がある。

 それはこの一連の五首(45~49)が「日並知の皇子の尊」と称されたという「草壁皇子」のために作られた、とされていることだ。この皇子は「正統の皇子」でありながら、「天皇位」に即位することなく没した。すなわち、「天皇」として「治世」することがなかったのである。すなわち「世」がなかったのだ。だから国学者や万葉学者はこの「一字表記」を「一字表記」として〝活用″できなかったのではあるまいか。

 しかしこの歌は、冒頭に明記されているように、「やすみしし わご大王」であり、一国(朝倉郡の周辺一帯)の統治者であった。この点を看過せざるをえなかったこと、それが「前書き、第一主義」の「大和わく」にしばられてきた、従来の国学者や万葉学者の悲劇だったのではあるまいか。

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