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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(129)

「天武紀・持統紀」(45)


日並知皇子の謎(8)
「隠口乃泊瀬山」・「月西渡」


「隠口乃泊瀬山」

 長歌(45番)にはもう一つ地名がある。 「隱口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山」だ。「初瀬=長谷」と言えば奈良県というのが常識だが、はたして秋月にも「初瀬=長谷」という地名があるのだろうか。前回に引用されていた「筑隅記十一巻」の続きは次のようになっている。

山林景色うるはしく薪水の便よろしき處なり。

(入口)  此處に入口四ツあり。北は八丁口、西は長谷山口、南は湯ノ浦口、東は野鳥口なり、西なる山を観音山と此山にて隠したれば外よりは見えず。


 外より見えないのは「西なる山=長谷山」だ。なんと、「隠口の泊瀬(長谷)の山」という表現がピッタリの山があるのだった。ちなみに、ここは三船敏郎主演の映画「隠し砦の三悪人」(黒沢明監督)のロケ地だそうだ。戦国時代、戦いに敗れた秋月家を再興する物語で、その映画でも秋月家の紋章は「月」になっていたそうだ。

「月西渡」

 「月西渡」は48番歌の中にある詩句である。48番の原文と訓読文を再掲載しておく。

東野炎立所見而反見爲者月西渡

東(ひむかし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて返り見すれば月傾(かたぶ)きぬ


 この歌は名歌として名高いが、問題も多い歌である。

 「ひむがしの、のにかぎろひの、たつみえて」は賀茂真淵(「萬葉考」)による訓である。「つきかたぶきぬ」は荷田春満(「僻案抄」)によると古田さんは書いているが、これは違うようだ。昨年11月に出版された白石良夫著『古語の謎』が第1章でこの歌を取り上げている。それによるとこの歌の最も古い訓読は「元暦校本」(1184年)にあり、次のようである。

アヅマノヽケブリノタテルトコロミテカヘリミスレバ□□カタブキヌ
(原文に濁点はない。それを白石さんが附した。)

 ここでは「東野(アヅマノ)」を地名として扱っている。空白部分□□は歌の原文では「月」の部分にあたる。白石さんは「これはだれか読んでも「ツキ」であるから、わざわざ書かなかったのである」と述べている。そして、慶長年間(1596~1615)に出版された万葉集の版本にもカタカナで「元暦校本」の訓読が書かれているという。(もちろん、「ツキ」を復元している。)

 これに対して真淵は「東」一字を切り離して「ひむがしの」と読んだ。白石さんは「ひむがし」という言葉の和歌での使われ方を、古代から現代まで丹念に辿っている。一度は死語になった言葉のようだ。大変興味深く読んだが、本論からは大きく外れるのでいまは立ち入らないでおく。

 今では真淵の訓がすっかり定着している。そして多くの学者が真淵の訓を「名訓」として讃辞しているという。しかし、この訓を批判する意見もある。

 まず「かぎろひ」がよく分からない語である。諸説紛々だという。有力なものを二つをあげると、陽炎(かげろう)説、曙光(日の出前に東の空にはえる茜色の光)説。〈大系〉は「曙光」説、〈全集〉は「陽炎」説をとっている。

 その他の主な批判の論点を、白石さんは次の4点にまとめている。

①カギロヒは、ふつう、タツとはいわず、モユという。
②「カギロヒの立つのが見える」という構文であるが、上代語ではこういうばあい、カギロヒのつぎの「の」は使わない。
③「かへり見すれば」という条件句の掛り受けとしては、「月かたぶけり」というほうが正しい。
④歌の趣が新しすぎる、すなわち人麻呂の歌風ではない。

 では、真淵の訓に代わる訓案があるのかというと、それは全くない。

 伊藤左千夫はこの歌を、鑑賞という立場から、否定的に批判している。古田さんの論文から孫引きする。

 客観的叙景の歌として、兎も角も成功した歌であらう。仔細に詮索して見れば飽足らず感ずるところがあるけれど、さう細かしい事は云はずとするも、第四の句、『顧みすれば』の一句は、俳優の身振めいて、此の歌の如き漠然たる大きな景色を描く句法としては、甚だ拙と云はねばならぬ。

 今一つ此の歌の大なる缺點に、作者の懐想の不明な點である。大野の曉天を眺めて其の光景に憧憬したのか、或目的を有した此の旅寝に時間の推移を嘆息したのであるか、主なる感じの判然せぬのが、讀者の感興を惑はせるのである。

 卓抜した詩才で一気呵成に詠まれた歌であるから、大抵の讀者は先づ其の外形に眩惑されて終ふのであらうが、能く心を落ちつけて味うて見ると、話の意味は解っても、話す人の心持は判らぬといふ様な感ある歌である。餘りに文章的に平面に記述されてあって、作者の感情がどの句の隅にも現れて居ない。故に讀去って、言語の意味を解する外に、何物をも感ずることが出来ない。

 要するに凡作とは云へないが、内部の組織に缺鮎が多く、稚気を脱せぬ歌と云はねばならぬ。

 この左千夫の評について、古田さんは次のように述べている。

 この評は、不幸にも、彼の弟子の斎藤茂吉にさえ讃せられなかった。しかし、今見ると、従来の「大和わく」の中で、「軽皇子」を主人公とした場合、その内容の何とも〝空疎″なること、まさに左千夫の言う通りだ。疑いはない。その炯眼にわたしは脱帽せざるをえないのである。

 けれども、この「人麿作歌」の本来の姿に接したならば、左千夫は逆に、その真実の人麿に対し、彼の方から深く脱帽せざるをえなかったのではあるまいか。

 ついでなので、「大和わく」の中での鑑賞の代表として、犬養孝の鑑賞を『万葉の旅』から引用しよう。たぶん、左千夫の評を意識しての鑑賞文だと思う。

 この歌は、山野の草枕での回想に夜を徹してしまった荒涼と寒気と悽愴の黎明の感慨として理解されなければならない。よくこの歌の評釈に蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」があげられているが、季節と時刻を異にしているだけでなく、うたわれている世界も、環境もまったく別物である。

 人は人麻呂のしらべの雄渾・雄大をいい、大平原の夜明けの壮観を思いおこしがちだが、雄渾ではあっても、事実は、このような事情のなかでの山野の夜明けであって、それだけに凄みも増し、東方の薄明るい光と、西方のまだ黒々とした中の薄暗い月光とのコンポジションは、かえって作者の感慨を拡大させ、遠くはるかに深々としみとおらせてゆくものがある。

(中略)

 こうして狩場の夜は明け、狩に出かける時刻がやってくれば、草壁皇子御在世の日の、颯爽と馬を並べたお姿は、在りし日そのままにほうふつとおどり出るように感じられてくる。

 ちなみに「定説」では、この歌の作歌年月日を持統6年11月17日(今の暦では12月31日)と推定している。「年」の方は45番~49番の直前と直後の歌の左注から推定している。「月日」は49番で表現されている天文現象の発生する時間の研究から得られたもののようだ。この推定年によると軽皇子は10歳ということになるが、犬養さんは10歳という指摘はしているが、「10歳の子供の猟旅」という問題にはまったく触れようとしない。また、犬養さんも「かぎろひ」を「曙光」とみなしている。

 では、古田さんはこの歌をどのように解釈しているだろうか。古田さんは「月西渡」の訓「月かたぶきぬ」を問題にしている。

 わたしには
 (α)西渡(原文)
 (β)かたぶきぬ(訓み)
とは「別の風景」だとしか見えない。なぜなら(α)は「月の動き」が〝東から西へ″と、いわば「水平移動」であるのに対し、(β)の方は「弧形落下」だ。両者のスタイルが全く異なっているのである。

(α)
東○→西

(β)
東○⤵
   西

 わたしの立場から、これを見つめてみよう。

 「月」は「甘木の大王家の紋章」だ。大王はこの地で不慮の死を遂げたけれど、あの、シンボルとしての「月」は、今も不滅の姿で、西へと向っている。「月」は今も〝生きて″いるのである、と。

 ここ秋月の地からの「西」、それはどこか。もちろん、雷山だ。「甘木の大王の屍」の鎮まりますところ。人麿はやはり、この「月」の姿に、生ける日の「甘木の大王」の姿を見ているようである。

 (β)の場合、そのような「心根」のありようは全く失われ、単なる「一叙景歌」に終るのである。

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