FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
531 「良心の自由」とは何か(25)
宗教批判の始まり(1)
2006年6月21日(水)


 私の高校生の頃の高校進学率は60%ぐらいだったろうか。私は全員が高校教育 を受けるような時代になれば宗教は自然に消滅するのではないかと、漠然とで はあるがそんな風に考えていたと思う。特に理数系の学習が私にそんな考えを 促したのだと思う。まだほとんど何も知らない高校生時代の単純で浅薄な考え を、いま苦笑をともなって思い出している。その苦笑の中にはその後の自らの 宗教への接近の経験が含まれている。

 私の母は信心深い人だった。家の宗教は日蓮宗だった。先祖と戦後の貧困期に失った 息子・娘たちへの供養のため定期的に坊さんを呼んでいた。仏壇のろうそく・線 香は絶えたことがなかったと思う。盆の行事もしきたり通りにきちんとやって いた。盆の行事の記憶は甘い郷愁のような思いを誘う。
 近くの神社の御札などを祭った神棚もあった。敗戦直後にはその神棚には 明治天皇から昭和天皇までのいわゆる「ご真影」も掲げられていた。それがいつ頃 撤去されたのか、私には記憶では不明だ。
 父はまったくの無神論者だったと思う。父が仏壇や神棚に手を合わせているのを見 たことがない。戦争でそれまでに築いてきた全てを灰にされてしまった所為だけでは ないだろう。私は父の系統をよく継いだようだ。世間並みのお付き合いで葬式に参 列してもありがたくお経を聞いたり焼香したりことに抵抗がある。旅行などで神社に 行っても参拝などばかばかしくてする気は全くない。

 そんな私が青年時代、精神的な行き詰まりの危機時に宗教(仏教)に出口を 求めたことが二度ある。いずれの場合も解決のてががりは何も得られず、深入り することはなかった。そのとき抱えた問題は多分何の解決もしないままに意識の底に 沈んでいったのかと思う。しかしその仏教への接近が私の高校時代の考えの単純 さ・浅薄さを身をもって証明したことは確かだ。

 神を信じるのは古代の迷信の残存でしかなく、自然科学の立場から啓蒙活動を すすめることによって一掃できると信じている無神論者・反宗教宣伝家も多い。 問題はそれほど単純ではないのである。宗教の必然性が、観念的な条件によって 与えられているときめてしまうのは正しくない。

「現実的世界の宗教的反映は、総じて、実践的な日常生活の諸関係が人びとに 対し、彼らの相互間および対自然のすきとおるような・理性的な・諸連関を日 常的に表示する場合にのみ、消滅しうるのである。」(マルクス『資本論』)

 たしかに対自然では、実践的な日常生活においてすでに自然力をその統制下に おいており、電気も風も水もそのありかたはすきとおるように理解されている。 もはやこれらは神秘的な存在でも何でもない。しかし人間相互の関係では、いま だに人間の生活条件である生産や交通をその統制下においていないし、社会主義 国家においても人間関係がすきとおるように理解されているとは限らない。ス ターリンの粛清が行われていた時代に、ソ連の国民は目に見えない暗黒な力が 動いていることを感じ、いつそれが自分や自分の家族をとらえるかと恐れてい た。このような社会においては反宗教宣伝を行っているにもかかわらず、宗教 が消滅するどころかむしろ盛んになったとしても、不思議はないのである。そ してまたこの事実は、宗教の永遠性を実証したわけでもないのである。(三浦つ とむ「認識と言語の理論」より)


 宗教が容易には消滅しない理由はもう一つある。それが「相対的誤謬」である あるからだ。つまり幾分かは真理を含んでいる。「結構良いことを言っているじ ゃない。」というわけである。それはほとんどの場合倫理的な意味での効用である。 たとえばカントは次のように、宗教の一面での有用性を認めているという。
 カントは、宗教的な主張(神や霊魂やあの世)といったものを理論的に証明 することを形而上学として論駁しました。また、現実に存在する宗教を、迷信や 蒙昧として否定しました。しかし、倫理的(実践的)にのみ、それが要請され ざるをえないことを認めたのです。もしこの世がすべてで、死ねば終わりであ るならば、ひとは倫理的であるよりは、現実の幸福を志向するでしょう。だか ら、死後の生命や審判があるという信仰は、倫理性を励ますものです。カント は、倫理的であるかぎりにおいて、宗教を認めるのです。(柄谷行人「倫理21」 より)

 さて、混迷を深める現在の宗教状況・精神状況の止揚の道を古田さんはどの ように抽出しているだろうか。古田さんのこの論考は最終章に入る。
 それは「信教の自由」の普遍的原理的徹底としての「信教の死」を回避せず、 歴史的宗教の遺産を徹底的な批判を通して継承しようとする立場です。ここで は「もはや宗教批判はおわった」のではなく、「今から其の宗教批判がはじま る」のです。
そして、その、科学的に批判され分析された結果抽出された真理が各人の内面に「の がれるところなき真理」として沈着し、現実との、社会的諸連関との化合をは じめるのです。
スポンサーサイト



 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/157-430f7723
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック