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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(125)

「天武紀・持統紀」(41)


日並知皇子の謎(4)
文武天皇の謎:番外編


 『倭王たちの七世紀』を借りて来た。「草壁皇子の嫡子ではない〝56歳″の文武帝」が詳しく論じられていた。しかし、この本も「トンデモ本」だった。小林恵子氏の諸説を信奉している人も多いようなので私が「トンデモ本」と断定する根拠を述べておこうと思う。ということで、今回は「番外編」とした。

 小林氏は大変な種類の文献を用いている。素人の私などには聞いたこともないような文献がたくさん出てくる。そのおびただしい数の文献を用いて、ある文献から自説に都合がいい部分引き出し、さらにそれと類似の文を他文献から引き、それらの中の文言に恣意的な解釈を施し、それらを強引に結び付けて仮説を作っていく。それはとても論証とは言いいがたい。あくまでも仮説、というより謬説である。その仮説を用いて他の仮説を創り、仮説に仮説を重ねていって一つの理論を構成していく。その間、前後の脈絡を見失うほど論点が目まぐるしく入れ替わっていく。よく言えばスピード感のある文体。わるく言えば立て板に水のようにたたみかけまくし立てる文体。ご本人はそれとは自覚していないのかもしれないが、いわゆる読者を「煙に巻く」手法の連続である。

 その結果、例えば次のような結論が生まれる。

高向玄理は実は高向王であり、その息子の漢(あや)皇子こそ天武天皇である。その天武は高句麗の淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)と同一人物である。また、新羅の文武王は681(天武10)年に死んだことになっているが、実はその年に亡命して倭国に来ていた。文武王は蓋蘇文(天武)とともに唐と戦ったことがあり、文武王と天武は周知の中である。亡命してきた文武王は天武の庇護を受け、天武亡き後は持統の後援を受けて、文武天皇となった。

 結論だけで決めつけるのでは納得できいない人もいるかも知れない。その論証?の手法を分析しておこう。

 天武と蓋蘇文が同一人物であることを示す証拠の一つとして、なんと李寧熙の説を援用している。

 蓋蘇文はクーデターで実権を握った後、莫離支(マンニジ)という官名を名乗った。この官名を李寧熙氏は次のように解読して、「天武=蓋蘇文」と結論している。

 〝莫″は韓国式音よみでモともマともメともよまれます。このうちメをとり、その終声ク音を消すとメになります。〝買″もまたメとよまれますが、この〝莫″と〝買″は古代韓国において〝水″をあらわす吏読表記でありました。

 古代語の場合、〝水″と〝海″は同義にあつかわれています。したがって〝莫″イコール〝海″なのです。

 離支はイチ、またアチとよまれ、貴人・王をあらわしました。

 以上で〝大莫離支″は〝大水王″または〝大海貴人″で〝大海人″と同じ意味のことばとなるのです。

 朝鮮古代語の吏読表記というのを、私はまったく知らない。だから、莫離支(マンニジ)に対する李寧熙氏の解読が正しいかどうかを問題にすることはできない。しかし、「大莫離支=大水王または大海貴人」が正しい解読だとしても、これだけから「淵蓋蘇文=大海人皇子(天武)」なんで結論は得られない。その論理のとんでもない飛躍は誰にでも分かるだろう。

 次に「文武王は倭国に亡命してきた」という部分の論証?は次のようである。まず氏は使用する引用文を列挙することから始める。(出典を〈 〉で示した。)
 679(文武王19)年7月1日に文武王の発喪記事〈『新羅本紀』〉

 文武王は倭兵を鎮圧しょうとして咸恩寺を造る途中で死去し、次の神文王が完成させたが、金堂の下に東に向いた穴があり、そこに東から来た文武王の龍が入ってくるようになっていたという。〈『三国遺事』に引用されてる『寺中記』の記事〉

 現在の咸恩寺跡には実際に、金堂の階下に特殊な石組の60センチぐらいの空間があって、龍が出入りできるような構造になっているという調査報告もある。〈金正基「仏教建築」 田村圓澄・泰弘雙編『新羅と日本古代文化』〉

 東海から咸恩寺の方向に小山のようなものが浮かんできたが、神文王が怪しんで占わせると、海中の龍になった文武王と天神になった金庚信が城を守る宝を授けようとしていると云った。王がその山に出かけると、龍がいて王に黒い玉帯を贈った。〈『三国遺事』〉

 文武王の遺体は、文武王の遺言により火葬して、東海の湾口の石の上に葬った。〈『新羅本紀』〉

 このように文献からの引用文を羅列しておいて、次のように言う。(論理の筋道を説明のため、各段落に番号を付けた。)


 「新羅本紀」には文武王の遺言により火葬して、東海の湾口の石の上に葬ったとあるだけで、『寺中記』にあるように、倭国に対する鎮護国家の意味で海龍になったという条はない。


『寺中記』は和冦などに悩まされた中世以後の対日本観が反映していると思われる。


 「新羅本紀」では俗説によれば文武王は龍に化したといわれているとある。


 前後の王達はすべて陵墓を持っているのに文武王だけは陵墓がなく、火葬も最初で例外である。第一、統一新羅の初代の王が陵墓を持たないとは不思議な話ではないだろうか。


 そして、東海の海龍になったとあるように文武王は東と深く結びついているのである。

 ①・②で『寺中記』の「海龍」の記事は後世の後付と判定し、③で『新羅本紀』の「龍」記事は俗説であることを確認している。ここまで読んでくると、著者は「文武王が龍になった」という記事を否定してるんだな、と誰でもそう考えるのではないか。

 ところが⑤では「東海の龍になった」という説話を肯定的に解釈している。ここまできて、「咸恩寺の穴」をその物的証拠と言いたいのだな、と分かる。そして、その説話から「文武王が東と深く結びついている」という寓意を読み取る。④の墓がないという断定とこの寓意とを結びつけて、「文武王は生きていて東方(倭国)に亡命した」という説を構成しようとしている。そして、その説の正当性を補強すべく、他の文献からまったく異なるテーマの文を引用する。

 680(天武9・文武王20)年7月2日、飛鳥寺の西の槻の木がひとりでに折れて落ちた。〈『書紀』〉

 蜀の景耀5年、宮内の大樹がひとりでに折れた。〈『晋書』〉

 この二つの文献を結びつて次のように言う。

 (『晋書』の記事は)蜀の滅びるしるしであったという。

 新羅は日本からみて西であるから、『書紀』が西の槻の木と規定しているのは、新羅に国難があったことを暗示したのである。それは一年後の同月同日に「新羅本紀」に文武王の発喪があることによって証明されよう。

 つまり、文武王が死んだと公表される一年前に、文武王の死の原因になる事件が、この頃起きたことを『書紀』が暗示させているのである。

 小林氏は、史書に現れる不可解な動植物の出現や異変とか天変地異の記述を、明示を避けたい事件、あるいは隠蔽したい事件を暗示していると考えている。確かに『日本書紀』には、例えば『老人等、相謂(あいかた)りて曰はく、「春より夏に至るまでに、鼠の難波に向きしは、都を遷す兆なりけり」といふ』(大化元年12月9日条)というような記述が散見される。しかし、小林氏は全ての異変記事を政治的な事件を暗示するものとして、まさに恣意的に解釈する。

 上の「飛鳥寺の槻の木」の異変が何かの予兆とするのなら、その記事のすぐ後に、「飛鳥寺の僧弘聡(ぐそう)が死んだ」(20日条)とか「舎人王が死んだ」とかいう記事があるから、それらと結びつけることもできる。私が恣意的解釈というのはそういう意味である。『日本書紀』の記事に対する恣意的解釈は次のように続く。

 同年11月1日に日蝕があったとあって、3日に戌(午後10時)から子(午前0時)まで東の方が明るかったとある。夜明でもないのに東の方が明るいというのは『隋書』(志一六・天文下)に「赤兵、白喪」とあるように戦乱が起こるしるしである。

 翌日、高句麗使人が帰国したとあるのは、戦乱があるのを知ってただちに帰国したということであろう。

 10日に「西方に雷なる」とあるが、雷は「怒乃象」であるから、西方の唐国が怒り、新羅に出兵したことをしめすものだろう。

 この場合の唐国といっても、唐書などの中国側の史料にはまったく出てこないから、専ら極東方面を担当した李謹行や薛仁貴等の唐将が任に当たり、彼等の独断で出兵したと想像される。

 30日に「臘子鳥(あとり)・天(あめ)を蔽(かく)して、東南(たつみのかた)より飛びて、西北(いぬいのかた)に度(わた)れり」とある条で鳥を兵に託して、日本から援軍を送ったことを暗示させている。

 しかしこの時の唐国との戦いで文武王は事実上死んだことになったらしい。

(中略)

 新羅で文武王の発喪のあった同年7月1日に『書紀』には「朱雀見之」とある。朱雀は大津を表象するが、また、文武王を表象するものであったらしい。

 現在残っている「新羅文武王陵之碑」(神文王元年〔682建立)に「継昌基於火官之后」とあることから、木下礼仁は文武王は火官、すなわち炎帝の継承者としての意識があったと解釈している。

 火すなわち火徳は五行思想でいうと、方向は南、季節は夏、四神は朱雀で表わされる。

 したがって『書紀』のこの条は「新羅本紀」の同年同月同日の文武王の発喪に対応するのである。

 4日には日本から新羅と小高句麗に使者を出しているが、文武王の葬礼に参加するためだったと思われる。

 10月1日に日蝕があって、18日に地震があったとある。何かよからぬ事件の予兆であるが、20日に新羅使人が来日、金・銀・鋼・鉄・錦・絹などの莫大な贈物をしてきた。

 そして、天武が広瀬野に行くために行宮まで作りながら、出かけず、新羅使人が国王の死んだ旨を告げたとある。

 この条の解釈は難しいが、すくなくとも、天武以下、文武王の死はとうに知っているはずである。ここで、改めて文武王の死について述べているのが不審である。

 文武王の発喪の日に『書紀』に「朱雀見ゆ」とあるのは「朱雀が日本に見えた」、意訳すると文武王が日本に来たと解される。このように前後の関係からみて、この新羅使人は「新羅では王は薨じたことにして、亡命して来日しました」と告げたのではないかと思う。

 むろん、この事実は天武以下、ごく少数の人が知っているだけで、極秘にされたと思われる。

 この文武王が文武天皇になると言うのである。

 「らしい」・「思われる」・「想像される」・「推量される」・「可能性がある」などの語句で結ばれる仮説の羅列であり、とても論証とは言えない。しかしご本人は自信たっぷりである。あとがきを「怠惰に半生を過ごしてきた私も私なりに、どうやら、最後の光芒を放つ時期を迎えたようである」と結んでいる。古代史学会を震撼せしめる画期的な著作という自負があったのだろう。しかし残念ながら私としては、ただただ呆れるばかりの非論理的な著作である、と結ぶほかない。
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