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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(123)

「天武紀・持統紀」(39)


日並知皇子の謎(2)
文武天皇の謎(1)


 『日本書紀』は697(持統11)年8月1日条の次の一文で終わっている。

天皇、策(はかりごと)を禁中(おほうち)に定めて、皇太子に禅天皇位(くにさ)りたまふ。

 しかし、689年に皇太子だった草壁皇子が亡くなった後、新たに皇太子を立てたという記事は一切ない。『日本書紀』の中だけではこの皇太子が誰なのか分からない。

 『続日本紀』では、697(持統11)年に皇太子になったと記録されている。しかし、ここにも軽皇子という名はない。

 『万葉集』以外で軽皇子という名が記録されている文献はあるのだろうか。岩波大系の頭注に「珂瑠」という表記を含む文献が引用されていた。

『文武天皇。懐風藻などによると没年は二十五歳であるから、この時は十五歳。立太子のことは、本紀では二月二十八日条の記事から、その日以前であろうと推定されるのみであるが、続紀に「高天原広野姫天皇十一年、立為皇太子」、また釈紀の引く私記に「王子技別記曰、文武天皇少名珂瑠皇子。天武天皇皇太子草壁皇子尊之子也。持統天皇十一年春二月丁卯朔壬午〈十六日也〉、立為皇太子」とある。』

(注)
「釈紀」
 鎌倉時代末期の日本書紀の注釈書「釈日本紀」のこと。
「私記」
 平安時代に行われた『日本書紀』の講書の内容をまとめた書物「日本書紀私記」のこと。


 「珂瑠皇子」や「軽皇子」をきろくした史料が他にあるのかどうか、私には調べる手立てがないが、もしかすると『万葉集』以外では上の例が唯一の例なのだろうか。もしそうだとすると、『万葉集』より後代の文献「私記」が『万葉集』での表記をわざわざ変えた理由は何なのだろう? こんな疑問が出てくるが、テーマからは外れるし、私にはそれを調べるすべもないので、「言ってみただけ」ということにしよう。

 さて、上の引用文では、文武天皇の即位(697年)が15歳の時ということに、注意が引かれる。わずか15歳で、九州王朝から権力を奪取したばかりの近畿王朝の初代天皇となる。近畿王朝の基盤を強固なものとするという草創期の難しい課題をになって、それなりの治績を残している。本当だろうか。

 私は、いわゆる垂廉政治が行われたのだろうと推測している。初めの5年は祖母の太上天皇(持統)が執り行った。持統は702年に亡くなっている。後の5年は母親(天智の第4皇女)が引き継ぎ、文武の死後践祚(707年)する。元明天皇である。元明は715年に草壁の皇女(元正天皇)に譲位する。元正が聖武に譲位したのが724年。こうして見ると、初めの27年間は女性が権力のトップにいた。ヤマト朝廷の基盤は女性が創ったことになる。

 ここで小松崎さんがこの問題をどのように考えているのか、その方法論とともに紹介しておこう。まず、史料としての『日本書紀』・『続日本紀』・『万葉集』の読み方について、次のように述べている。

「いつの世にも、体制、反体制の権謀術数はある。そこに、命運を懸けた熾烈な戦いが生まれることも稀れではない。多くの場合、勝者の砲哮が『歴史』を作り、敗者の呪罵(じゅば)は圧殺され硬塞(こうそく)の様もまた同じように、闇に封印されるのが常である」

 こんな、キザな文があったとする(拙文)。キザな文体はともかく、中味は正論ではある。しかし……、この文は何も言いえてはいない。

 この時代の「正史」でも『万葉集』でも、少し丁寧に読んでみると、それがよくわかってくる。勝者と敗者の関係、そして、そこにある表現から、封印された「史実」(真実)を読み取ることは、それほどたやすいことでもない。

(中略)

 わが国の場合、「正史」(『日本書紀』や『続日本紀』など)も、その性格柄、それを鵜呑みにすることは危険この上ない。「正史」はあくまで体制側の歴史でありいわば「勝者の歴史書」であるから、右のキザな正論によれば……、"敗者の呪罵も硬塞も封じ込められていて、表には伝わってこない″ということになる。

 「正史」に対する姿勢として、基本的に正しい指摘である。ここで指摘されている「正史」の性質は一般論としてどの国の「正史」にも当てはまる。その上さらに『日本書紀』の場合は肝心な部分がほとんど九州王朝や中国・朝鮮などの他国史料からの盗用・剽窃で成り立っている。小松崎さんは九州王朝の存在を全く認めていないので、その点でその論考には決定的な限界が出てくる。

 小松崎さんは、『続日本紀』もそのまま信じることはできないと言う。ここで『万葉集』4465番~4467番の左注①
「淡海真人三船(あふみのまひとみふね)が讒言に縁(つらな)りて、出雲守大伴古慈悲(こじひ)宿禰解任せらる。」
と、『続日本紀』756(天平勝宝8)年5月10日の記事②
「出雲國守從四位上大伴宿祢古慈斐・内竪淡海眞人三船、朝廷を誹謗し、人臣の礼なしと云うに坐せられて、左右の衛士府に禁ぜらる。」(小松崎さんは「仲麻呂の讒言により」と書いている。)
との食い違いを取り上げている。淡海三船は、①では讒訴した当人になっているが、②では讒訴されて罰せられた方の一人になっている。これを例に、小松崎さんは次のように述べている。

 「正史」の場合、通常は「その書が何時編纂(へんさん)されたか」によって、当該者の"立場"を判断できる。しかし、右の『続日本紀』の記事の場合はいくつかの問題点を含んでいる。

 そもそも、この書は、仲麻呂が、祖父・不比等(ふひと)の事業、「第一の正史」・『日本書紀』修史を意識しつつ、それを継ぐ「第二の正史」として、彼の絶頂期の淳仁朝(758~764)に志したものであったといわれる。まあ、それはともかくとしても、その修史の中心的メンバーに淡海真人三船が加わっていることが、「史実」(真実)という面からは問題をはらんでくる。

 当然、仲麻呂の絶頂期の淳仁朝の修史内容(30巻)は、その後の光仁朝(770~781)の修史事業の中で改訂される。おそらくは、宝亀9(778)年ごろから、当時、大学頭兼文章(もんじょう)博士になっていた淡海三船たちによって書き換えられたと思われる。

 つまり……、先の記事「淡海三船は、仲麻呂の讒言により……」の部分は、天平宝字8(764)年の叛乱によって「逆賊」となった"仲末呂"の名前が、改訂執筆者「淡海三船」自身によって書き加えられた可能性は十分考えられることになる。

 ますます、「史実」は混沌としてくるが、私は『万葉集』の「左注」"淡海三船の保身のための讒言"を史実と見る。

 『続日本紀』の場合も、編纂者と編纂時期によって、「史実」(真実)という面では多くの問題をはらんでいる、と鋭い指摘をしている。

 では、『万葉集』にはどういう見解を示しているだろうか。

 さて、一方の、『万葉集』の場合はどうであろうか。

 始めの「キザな正論」によれば、「多くの場合、圧殺され、闇に封印される」はずの"敗者の呪罵や硬塞"が、辛うじて「表現」を得て言霊が生命を甦らせたのである。

(中略)

 (『万葉集』の場合は)「正史」とは別の意味での自ずからなるむずかしさがある。つまり、その性格柄、「体制側」(権力者)を意識した"守り"が、表現や編集の随所にみられるのである。

 封じ込められた事実に対するネガティブな語り口には、施錠が施されていて公の声になってはいないし、・・・(中略)・・・「寓意」など韜晦のワザや、あるいは古韓音を使った吏読(イドウ)や郷札(ヒヤンチヤル)などによる「表・裏」の二重読みなど、言霊の匠(たくみ)の珠玉の技によって、玉虫色に衣装立てして、ほんの少しのキーワードを残し、カモフラージュしてしまい込まれているかもしれない。

(「吏読(イドウ)」と「郷札(ヒヤンチヤル)」については「万葉仮名はどのように成立したか?」が参考になります。)

 韓国の歴史ドラマ「善徳女王」第58話で、新羅の名将・金庾信(キム・ユシン)と王子・金春秋(キム・チュンチュ)が次のような会話を交わしていた。

ユシン: こんな方法で密書を渡すのですか?
チュンチュ: はい、私も聞いた話で確証はありませんが、倭国に行ったコクリョ(高句麗)の使臣がカラスの羽に何かを書いたというのです。
ユシン: それで?
チュンチュ: ペクチェ(百済)出身のワンジニ(王辰爾)がそれを解読したと、隋の商人に聞いたことが・・・

 この烏の羽に書かれた文書は『烏羽(うわ)の表疏(ふみ)』と呼ばれている。「敏達紀」〈(572年(敏達元)年5月15日条〉に次のような説話がある。(あらすじだけです。)

「高麗(こま 高句麗)から文書が届くが、それは黒い烏の羽であった。そこに書かれた文字を史(ふびと 文書係の専門家)たちは誰も読み取ることができなかった。その時、王辰爾(おおじんに)という百済の渡来人が、羽を炊飯の湯気で蒸し、柔らかい帛(ねりきぬ 綿布)に羽を押し付けて、いともあっさりと、その文字を写し取ってしまった。

 この説話を下敷きにして、小松崎さんは次のように続ける。

 小さな「鍵」 ひとつで、メッセージが浮かび上がってくるのだ。何人の「史」がいようが、「キーワード」が見つからなければ、3年どころか、1000年たっても読めはしない。

 メッセージが読めなければ、特別なことは、何にも書きしるされてはいないと、思い込んでも仕方がない。

 果たして、私たちは、大切なメッセージの記された〝烏の羽(からすはね)″を、無造作に放置したりしていることはないのだろうか。史(専門家)たちは

「汝等(なんじら)習(なら)ふ業(わぎ)、何故(なにゆえ)にか就(な)らざる。汝等衆(おお)しと雖(いえど)も、辰爾(じんに)に及(し)かず」(お前たちの習業はたりない。数は多いが辰爾一人におよばないではないか)

といってお叱りを受けるが、もし、今日「史」(専門家)がこの立場になったら、そのプライドと保身から、やっぱり、烏の羽には何も書いてないことになってしまうのではないのかと余計な心配もしてしまう。

 あらためて……、私たちは、現在、万葉人の書き残したメッセージを、そのキーワードを解きほぐしつつ、しっかり受け止めているのか問い直したい。

(中略)

 ただ……、『万葉集』の場合、注意しなければならないのは、逆に……、封じ込められているうちに、支持者の声に反応して勝手に醸成(じようせい)し、優しく甘く脚色されて、史実とは異なる方向へと美化され歪曲(わいきよく)されでゆく現象も少なくないように思われる。この方がこわい気もする。真実を掘り起こすには、これらを選り分ける感性も不可欠のようである。

 「(専門家)が・・・・・・そのプライドと保身から、やっぱり、烏の羽には何も書いてないことになってしまう」という指摘は、古田さんの学説を亡いことにしている従来の古代史学者への苦言としてぴったりである。しかし、この点では小松崎さんも苦言を受けるべき一人になっている。

 また『万葉集』の場合も「優しく甘く脚色されて、史実とは異なる方向へと美化され歪曲されでゆく現象も少なくないように思われる」という危惧も正当な指摘だ。しかし。小松崎さんはここでも肝心な一点を欠いている。

 『万葉集』では題詞と歌に矛盾や齟齬が生じる場合、歌の方を採らなければいけない。歌の方が第一史料である。この視点がないので、小松崎さんは題詞に合わせて歌を解釈しようとする。従来の学者とは違う斬新な発想があり結論も面白いのだが、残念ながら「史実」に迫ることはできない。単なる仮構(フィクション)に終わっている。
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