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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(122)

「天武紀・持統紀」(38)


日並知皇子の謎(1)
『万葉集』35~39番歌


 「天智紀」編で「x皇子とは誰か」をテーマにしたとき、天智・天武の皇子たちの名前・出生年・没年を調べてみた。それを表にまとめてみた。(表中の〈〉は推定年。岩波大系『続日本紀』の補注によった。)

(天智)
紀での表記続紀での表記生年没年
大友大友648672
なし651658
河嶋・川嶋なし657691
施基・芝基志紀・志貴〈663-672〉716

(天武)
紀での表記続紀での表記生年没年
高市高市654696
草壁日並知662689
大津なし663686
忍壁忍壁・刑部〈663-672〉705
磯城なし〈663-676〉〈685-701〉
舎人舎人676735
〈676-686〉715
穂積穂積〈676-686〉715
弓削弓削〈676-686〉699
新田部新田部〈676-686〉735

 この表からすぐに二つの「?」が浮かぶ。志貴皇子の名前の表記が四通りもあるのはなぜだろう? 草壁皇子の名前が『日本書紀』と『続日本紀』とでは全く関連がないのはなぜだろう?

 志貴皇子については「x皇子とは誰か」で論じた。そのとき私は
「草壁は『続日本紀』では日並知(しなみし)皇子と呼ばれている。(この呼び名については後に取り上げる予定です)」
と書いていた。ところが、この問題の行き着く先は漠然と予想ができていたのに、調べるほどに私の手にあまる問題であることが分かって、手をこまぬいていたのだった。

 ところが、今回『壬申大乱』を読んでいて、その「第六章〈別論一〉月西渡る」がその問題の解明をしていることを知った。また、「x皇子とは誰か」のときに参考にした小松崎文夫著『皇子たちの鎮魂歌』も「日並知皇子」問題を取り上げていた。この著書は、方法論的にはいい線を行っていて結論もお話としては面白いのだが、ヤマト王権一元主義の枠内での議論のため、肝心な点で論拠はすべて仮定(著者は「幻視」と言っている)であり、史実の解明とはなっていない。しかし、部分的には教えられることが多々あるので、必要に応じて古田論文と併用したり、読み比べたりしていくことにする。

 さて、草壁皇子は681(天武10)年2月25日に皇太子となった。皇太子(あるいはそれに準ずる者)は「尊(みこと)」という尊称を付けて呼ぶので、『日本書紀』では「草壁皇子尊(くさかべのみこのみこと)」と表記されている。しかし草壁は、大王位を継ぐことなく、689(持統3)年4月13日に28歳という若さで亡くなっている。

 草壁は『続日本紀』では「日並」という名で三回出てくる。それぞれ日並知皇子尊・日並知皇子命・日並知皇太子と表記されている。

 ところが、『万葉集』では日双斯皇子命(49番)あるいは「日並皇子尊」(110番・167番の題詞)となっている。つまり、尊称部分を除くと、「日並知」・「日双斯」・「日並」の三通りの表記がある。いずれも「ひなみし」と訓じられている。これらのうち「日双斯」が異質であり、49番歌の解読が問題解明のカギとなる。49番は45番(長歌)に付随している反歌である。この問題でも原文が必要不可欠なので、原文も合わせて、45番~49番を転載する。

原文
輕皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麿作歌

(45番)
八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須等 太敷爲 京乎置而 隱口乃 泊瀬山真木立 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去來者 三雪落 阿騎乃大野尒 旗須爲寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而

 短歌

(46番)
阿騎乃野尒 宿旅人 打靡 寐毛宿良目八方 古部念尒
(47番)
眞草苅 荒野者雖有 黄葉 過去君之 形見跡曾來師
(48番)
東 野炎 立所見而 反見爲者 月西渡
(49番)
日雙斯 皇子命乃 馬副而 御獦立師斯 時者來向


読み下し文
輕皇子の安騎(あき)の野に宿りましし時、柿本朝臣人麿の作る歌

やすみしし わご大王(おほきみ) 高照らす 日の皇子(みこ) 神ながら 神さびせすと 太敷かす 京(みやこ)を置きて 隱口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山は 眞木(まき)たつ 荒山道を 石(いは)が根 禁樹(さへき)おしなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さりくれば み雪降る 阿騎(あき)の大野に 旗薄(はたすすき) 小竹(しの)をおしなべ 草枕 旅宿りせす 古(いにしへ)思ひて

 短歌

阿騎の野に宿る旅人打ち靡(なび)き眠(い)も寢(ぬ)らめやも古思ふに
ま草刈る荒野にはあれど黄葉(もみじば)の過ぎにし君が形見とぞ來(こ)し
東(ひむかし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて返り見すれば月傾(かたぶ)きぬ
日並の皇子の命(みこと)の馬並(な)めて御獵(みかり)立たしし時は來向(きむか)ふ


 題詞に出てくる軽皇子は、もちろん孝徳のことではない。文武天皇の王子時代の名前である。「珂瑠」とも表記する。しかし、「軽」という名は『日本書紀』にも『続日本紀』にも出てこない。

『続日本紀』には文武天皇は「日並知皇子尊の第二子なり」とある。つまり、軽皇子は草壁皇子の息子である。

 登場人物が揃ったところで、予備知識として、上の歌が従来どのように解されていたのか知っておこう。岩波大系の大意(頭注)を転載する。
(45)
わが皇子、日の御子は神であるままに神として行動なさるとて、立派な都をあとにして、泊瀬の山は真木の立つ荒い山道だが、それを岩や禁樹を押しなびかせて朝越えていらっしゃって、夕方になると、雪の降る阿騎の広い野に、旗すすきや小竹を押し伏せて草を枕に旅やどりをなさる。亡き父君草壁皇太子のいらした昔のことを思って。

(46)
阿騎の野に今こうして宿っている旅人たちは、のびのびと身を横たえて眠っているであろうか、や眠れはしないのだ。草壁皇太子御在世の昔の追憶が次々と浮かんで来て。
(47)
草を刈る荒野ではあるが、亡くなられた草壁皇子の記念の地であるとてやって来たことである。
(48)
東方の野には曙の光のさしそめるのが見えて、西を振りかえると月が傾いてあわい光をたたえている。
(49)
亡くなられた草壁皇太子が、馬を並べて御狩にお出かけになった時刻が今や迫って来る。

 阿騎の野で一夜を過ごすことになった軽皇子が今は亡き父・草壁皇子を偲んでいる。その軽皇子の心を読み取って、人麿が詠った草壁皇子への追悼歌という解釈である。
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