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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(121)

「天武紀・持統紀」(37)


飛鳥浄御原宮の謎(12)
「飛鳥浄御原宮治天下天皇」とは誰か(6)


 振り出しの「小野毛人墓誌」に戻ろう。いよいよ「飛鳥浄御原宮治天下天皇」が誰なのかを特定する段階にやってきた。

 まず、ここで言う「飛鳥」は、奈良県の飛鳥ではなく、「飛ぶ鳥の明日香」の発祥地(現在の福岡県小郡市井上)を中心とする一帯であることを確認しておこう。

 次に「浄の宮」。この「浄の宮」を「浄御原宮」と呼ぶ根拠はあるのだろうか。古田さんは『壬申大乱』ではこのことに触れていない。『壬申大乱』が出版されたのは2001年。「日本の未来」が講演されたのが2009年。この間に研究に進展があったらしい。「日本の未来」では上の問題が論じられている。講演録なので分かりにくい所があるが、概略をまとめてみる。

 「ジョウ(浄)」という地名が南九州を中心に分布している。柵に囲まれた集落という意味でかなり古い言葉である。それに対して、前原・平原など、北九州を中心に「バル(原)」という集落の名前が分布している。
 小郡市井上の「飛鳥」は、水路に沿った湿地帯で、そこは柵が付いた集落「浄」である。その「浄」に、これも集落を表わす「原」をつけて「飛鳥浄御原」という名称が生まれた」。

 これについて、私はつい先日、別の説が頭に浮かんだ。次のように考えている。

 井上にはかつて中心をなす一個の「井戸」があった。「井尻」・「池尻」という地名はその痕跡を示している。こんこんと湧き出でて、この地を潤していた清浄な井の水。「浄の宮」の「浄」はそのことを表現した語ではないだろうか。「浄の宮」はこの井上の地にあった宮殿を指している。このように考えていた。そして、前々回に正木論文の一節を再掲示したとき、「あっ」と思った。そこには「旧御原郡の井上地区」とあった。ずばり、古代この地域は「御原」という地名で呼ばれていた。清「浄」な井の水で潤っている「御原」郡で「浄御原」。

 いずれにしても九州飛鳥の「浄の宮」が「飛鳥浄御原宮」と呼ばれていたことに不思議はない。九州にあった「飛鳥浄御原宮」なら、朱鳥(あかみとり)改元にちなんで「あすかきよみはらのみや」と名付けた、などというまったく理屈に合わない由来話をでっち上げる必要はない。

 次に「天皇」という呼称について。九州王朝の天子を「天皇」と呼んだ時期があったのだろうか。これについて、古田さんは次のように述べている。

 それで最後は天皇問題について、どうしても言いたい。九州王朝が「天子」を名乗ったことはご承知の通りだ。ところが白村江で負けて、それ以後は天子を名乗ることは出来なくなった。唐の占領軍が九州に来ていますから。それではなんと呼ぶようになったか。「天皇」ないし「大王」。

 このような天皇が九州などに存在し、かつ『日本書紀』『古事記』に存在しない天皇が出てくる。印象に残っている例をあげますと「安徳天皇」。かって九州太宰府近くの地元の郷土史家のかたにお会いして、お話をお聞きしたことがある。実は「安徳天皇」が、この林の木の下で敵の弓矢に囲まれ射られてお亡くなりになられました。そのように言われた。

 われわれの知っている安徳天皇は、子供で壇ノ浦で平家とともに滅びた天皇です。名前は「安徳天皇」と一緒ですが、この天皇とは別人です。太宰府の西に安徳台という高台のところがある。また四国愛媛にも、合田さんによれば「斉明の墓」がある。どうも我々の知っている斉明天皇ではなさそうだ。ようするに○○天皇が九州を中心に、山口県や四国などに分布している。それらは白村江以後の九州王朝の天皇や大王だと考える。そのように考えないと解けない。

 次に、飛鳥浄御原宮はどこにあったのだろうか。この宮殿は『日本書紀』が記録している「小郡宮」と別のものではない。小郡市に上岩田遺跡がある。そこが「筑後国御原郡の郡衙跡(郡役所)」と推定されてる。地図で見ると、その南方数百メートルのあたりに県立三井高校がある。古田さんはそこが飛鳥浄御原宮があったと言う。講演では詳しい説明がないが、何の根拠もなくこのような断定をする方ではない。恐らく何らかの考古学的根拠があってのことだろう。古田さんは次のように「飛鳥浄御原宮治天下天皇」の特定を行っている。

 「小野毛人墓誌」に出てくる「飛鳥浄御原宮治天下天皇」は天武天皇ではない。この九州福岡県小郡市井上、県立三井高校のところにいた九州王朝の天皇だった。

 このようになるが、三井高校から車で五分のところ、側に正倉院が出てくる。皆さんは奈良県の正倉院は知っているが、それとそっくりの規模の正倉院の遺構が出てきた。

 実はこの正倉院のことは知られていた。「筑後国交替実録帳」(仁治2年、1241)に「正院」と「正倉院」は「崇道天皇」の造営と書かれている。写した人は「実なし」と二回も書いている。正倉院が書いてあるけれどもウソだ、実態はない、と記されている。ウソだと言いながら消さずに書いてあるところが、この史料の値打ちだ。つまり写した人たちには理解できなかったが、そういう史料はあった。

 ところが今回、実が出てきた。まったく奈良県と同じ規模の正倉院の遺構が出てきた。すると、まったく同じ規模の正倉院が二つあるということは、前後関係が問題になってきます。そうすると奈良県の正倉院を造った後、同じ規模の建物を一田舎に造るはずがない。造れば不経済です。それに全国に「正倉」はあるけれども「正倉院」はない。順序は当然逆である。九州筑後の正倉院が古い。それを真似して大和の正倉院が造られた。しかも元の正倉院は壊されて廃墟になった。こう考えざるをえない。しかも元の正倉院を造ったのが「崇道天皇」とある。そうしますと「飛鳥浄御原宮治天下天皇」とは「崇道天皇」である。

 「小野毛人墓誌」は京都の崇道神社の裏山から出土している。ここに祭られている崇道天皇は、もちろん、九州の崇道天皇とは別人だ。京都の崇道天皇は120年ほども後の人物である。その人は桓武天皇の弟で皇太子であった。早良親王である。彼は延暦4年(785年)の藤原種継暗殺事件に連座して廃され、淡路国に配流される途中で憤死している。後に桓武天皇が「崇道天皇」と追号して早良親王を祀ったのが崇道神社である。

 桓武天皇はなぜ九州王朝の天皇と同じ名前で祭ったのだろうか。偶然の一致ということではないだろう。古田さんの見解を聞いてみよう。

 このこと(崇道天皇という同じ名で祭ったこと)は小野毛入墓を見るためにそこへ無理して登ったから分かった。皆に無理ですよと言われたが、大下さんのリードのおかげで上がれた。この上がる途中に気がついた。(注:京都市左京区上高野の崇道神社の小野毛入墓は、140メートルの高さです)

 これは良い意味で、犯人は桓武天皇。桓武天皇は大仏開眼のとき二十歳だった。同じ時期に正倉院は完成している。つまり桓武天皇は奈良の正倉院を見ている。ということはこの正倉院は、九州の崇道天皇が造った正倉院の模倣だった。とうぜん桓武天皇はそれを知っている。しかし『日本書紀』のように、本来のお手本である九州王朝はなかったことにした。それに桓武天皇は正義感というか、これではいけないと感じた。それで弟にかこつけて同じ名前の「崇道天皇」を祀った。

 われわれは、旅先で不遇の死をとげた天皇を祀った、と聞いて覚えさせられている。しかし歴史上そのような不遇をかこった皇子は早良親王だけか。聖徳太子の息子をはじめたくさん居る。それらをぜんぶ追号し祀らなければならない。不公平でおかしい。いかに弟に対する愛情が深かったと解説していますが。

 ですから桓武天皇が弟の死にかこつけて祀りたかったのは、九州の「崇道天皇」。偉大な正倉院を造りながら、近畿天皇家にそれをぜんぶ持って行かれた。これこそ100年後、200年後に怨霊が出ても不思議ではない。桓武天皇は、それを祀りたかった。

 ここで完全に九州王朝と近畿天皇家の接点が出てきた。近畿天皇家が、九州王朝をどう見ていたかは、ほとんど知らなかった。しかし桓武天皇が九州王朝を知っていて、弟にかこつけて「崇道天皇」として祀った。自分の弟を名代にして、九州王朝の天皇を祀った。

 わたしは平安時代についてあまり縁がなくて知らなかったが、これからは平安時代をもう一度しっかり読み直さなければならない。

 この立場に立てば、いろいろなことが判明する。『古今和歌集』の紀貫之。半分ぐらいは、「詠み人知らず」となっているが、これが九州王朝とつながってきた。柿本朝臣人麿が正三位であると紀貫之は書いている。言われればそうかも知れないがホントかなと、みなさんも思っておられたと思う。ここで桓武天皇が入ってくれば、紀貫之も平安前期の人ですので、これが骨髄のところで、つながってきた。

 以上の問題は、いくら学界が解こうとしても解けない問題です。しっかり取り組みたい。

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