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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(120)

「天武紀・持統紀」(36)


飛鳥浄御原宮の謎(11)
「飛鳥浄御原宮治天下天皇」とは誰か(5)


 167番・168番・169番に戻ろう。二つの問題が残っていた。なぜ「天孫降臨」などの神話が特記されているのか、という問題と、「天照大神」を「日女之命」とする異例な表記は何故なのかという問題である。「日女之命」の解明がこの二つの問題の解答となろう。

 「日女之命」を定説は「ひるめのみこと」と訓じているが、古田さんは「ひめのみこと」と訓じている。そして『日本書紀』の神代上第6段1書第3を取り上げて論を進めている。

 第6段は「素戔嗚尊の誓約」と呼ばれている段である。その段の1書第3は「筑紫の水沼君系の神話」である。少し長いが、全文掲載しておこう。

一書に曰く、日(ひのかみ)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と天安河(あめのやすかわ)を隔てて相對(あいむか)いて乃ち立ちて誓約(うけい)て曰く、「汝(いまし)若(も)し?姧賊(あたな)ふ心有らざれば汝が生める子は必ず男(をのこ)ならん。如(も)し男を生まば、予(われ)以ちて子として天原(あまのはら)を治(しら)しめむ」とのたまふ。是に、日、先づ其の十握劒(とつかのつるぎ)を食(を)して化生(あ)れます兒(みこ)、瀛津嶋姫命(おきつしまひめのみこと)、亦の名は市杵嶋姫命(いつきしまひめのみこと)。又、九握劒(ここのつかのつるぎ)を食みて化生れる兒、湍津姫命(たぎつひめのみこと)。又、八握劒(やつかのつるぎ)を食みて化生れる兒、田霧姫命(たきりひめのみこと)。已(すで)にして素戔嗚尊、其の左の髻(もとどり)に纏(ま)かせる五百箇(いほつ)統(みすまる)の瓊(たま)を含みて、左手の掌中(たなうら)に著(お)きて、便(すなわ)ち男(ますらを)を化生す。 則ち稱(ことあげ)して曰く、「正哉(まさか)吾(われ)勝(か)ちぬ」とのたまふ。故、因りて名(なづ)けて、勝速日天忍穗耳尊(かちはやひあめのおしほみみのみこと)と曰(まう)す。復(また)右の髻の瓊を含みて右手の掌中に著きて天穗日命(あめのほひのみこと)を化生(な)す。復頸(くび)に嬰(うな)げる瓊を含みて、左の臂(ただむき)の中に著きて天津彦根命(あまつひこねのみこと)を化生す。又、右の臂の中より、活津彦根命(いくつひこねのみこと)を化生す。又、左の足の中より熯之速日命(ひのはやひのみこと)を化生す。又、右の足の中より熊野忍蹈命(くまのおしほみのみこと)を化生す。亦の名は熊野忍隅命(くまのおしくまのみこと)。其れ素戔嗚尊の生める兒、は皆已に男(ひこがみ)なり。故、日、方(まさ)に素戔嗚尊の、元(はじめ)より赤(きよ)き心有るを知りて、便(すなわ)ち其の六(むはしら)の男を取りて、日の子として、天原(あまのはら)を治(しら)しむ。即ち日の生れませる三(みはしら)の女(ひめかみ)を以ては、葦原中國(あしはらのなかつくに)の宇佐嶋(うさのしま)に降(あまくだ)り居(ま)さしむ。今、海の北の道の中に在す。號(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰す。此(これ)筑紫の水沼君(みぬまのきみ)等の祭(いつきまつ)る、是なり。熯は、干なり。此をば備(ひ)と云ふ。

 筑紫の水沼君等が祭るは、日神(天照大神)の三人の娘であり、その女の名は瀛津嶋姫命・湍津姫命・田霧姫命である、と述べられている。ここに出てきた水沼君については既に『「倭の五王」補論(4)』で取り上げ、その正体を明らかにしている。「水沼」とは九州筑後水沼(三瀦)であり、そこが九州王朝の皇都であった時期がある。つまり、水沼君とは九州王朝の天子を指している。

 そして、くだんの三柱の女神を祭る社としては宗像の沖の島が有名だが、筑後国の御井郡の「井上」の地もまた、この三女神を祭っている地帯である。ここが「筑紫の水沼君等」が祭っているという記述と一致する。

 また、八女の郊外に「葦原」と呼ばれる地域がある。天照の三女神は「葦原の瑞穂の国」を統治させようと、この筑後川下流域の地へと「神下し」されることとなった。これが、「筑紫の水沼君系の神話」の核心部分である。人麿はその神話の「語る」ところをふまえて、167番・168番・169番の作歌しているのだった。

 以上で167番・168番・169番にまつわる問題点がすべて解明された。古田さんの結語を直接引用する。

 そしてこの(167番・168番・169番歌の)主人公は没してより、「天つ皇(すめろぎ)の統治する国」としての天上へと去ってゆかれた(亡くなられた)というのである。

 「大和わく」では、〝くいちがい″の気になった、この「作歌内容」は、ここ「水沼君の信仰世界」を「作歌場所」とするとき、全くそれらの〝くいちがい″が消え、自然な「歌の姿」が見えてくるのである。ここに出現している「天皇」はやはり〝天武天皇″や〝持統天皇″などの「生身の天皇」ではない。「天上の皇(すめろぎ)」たる、代々の王者(死者)を指していたのであった。

 ここでもはやり、本来の「人麿作歌」は九州における作歌だった。それを「換骨奪胎」して「大和わく」へと〝閉じこめ″られていたのである。その点では、今までに分析した、数々の「人麿作歌」と同じだった。その点では、もはや「他奇なし」とも言えよう。

 しかし、わたしにはやはり、ショックだった。深い歎息をつく他はなかった。なぜなら、この長短歌(167・168・169)は「日並皇子尊の殯宮の時」の作歌とされている。

 その「日並皇子尊」は、天武天皇と持統天皇の子であり、文武天皇の父だ。すなわち、この皇子尊の「殯宮」は、母の持統天皇と子供の文武天皇の「面前」で行われたはずだ。それなのに、この「作歌」が実は「日並皇子尊」のためではなく、「倭国(九州王朝)」 の王者、「御井の王者」のための挽歌であったとは。やり切れぬ思いだ。

(中略)

 前書でもふれた遠藤論文のしめした命題、それは初期万葉の世界では「Aが自分の作った歌を、貴族のBに献上したとき、それは『Bの作歌』となる。」というものだった。すぐれた提起だ。

 しかし、かりに当代の「ルール」が右のようであったとしても、本書で明らかにされたところ、その「ルール」をもはるかに逸脱したものなのではあるまいか。これは、なぜだ。本書の末尾においてこの間題にふれよう。

 歌の女神の姿はあまりにも眩耀に、わたしたちの目を奪いつづけてやまないようである。

 古田さんは「本書の末尾においてこの間題にふれよう」と書いている。ついでなので、その部分も引用しておこう。(古田さんが傍点をふって強調している語句を太字で示した。)

 五木寛之の短篇に「さかしまに」がある。その要旨は左のようだ。

 金沢の俳人灯瘦(葛根秀人)は、当時(戦前)の特高警察の圧力に屈して転向した。その結果、「京大俳研」などの新興俳人の摘発に協力することとなった(昭和15年2月)。

 そのとき発表された「転向声明」と共に、一種奇怪な俳句が掲載されていた。たとえば
 かの男子新妻置きて弾も見き
 陸奥長門海岸裂くよ春の涛(なみ)
のようだ。敗戦後、彼は「裏切り俳人」として俳句史から抹殺された。

 ところが、彼の娘の依頼が発端となってその友人(元・恋人)が探索してこれらの俳句を見、その奇怪さから逆に、その俳句の真相に気づいた。それらは「さかしまに」読むべきものだったのである。

 君もまた 敵を待つ日に 死んだのか
 皆乗るは 翼賛会か 咎名(とがな)積む

 特高に捕えられ、牢獄で死んだ俳友を悼む歌、そして当時の大政翼賛会という権力讃美の時流に乗る俳友に対して、欺き怒る歌だったのであった。

 それを一見矛盾した、奇怪な形の俳句としてしめし、心ある人々の発見を望んでいたのである。娘も、父の志を知った。
(斎藤慎爾編 『俳句殺人事件』光文社文庫)

 わたしは今年(2001)の6月3日朝、松本市浅間温泉の富士の湯でこの短篇にふれた。そして永年の「?」に対する解明のキイを手に入れたのである。

 初期万葉の編集者もまた、自己の編集書たるこの歌集が矛盾に満ちていることを知っていた。くいちがいの続出していることを熟知していたのである。「元、歌集」をもっていたのだから、当然だ。

 ではなぜ、そのままの姿で後世に残そうとしなかったのか。

 この当然の問いに対する回答、それはまさに古事記、日本書紀がしめしている。そこでは、実在した「倭国の王朝(九州王朝)」が存在しなかったように作られている。

 先にあげた、筑紫君薩夜麻が
 薩野馬(大智10年11月)
と書かれていることにも、それはしめされていた。神聖なる「九州王朝の大子」は侮蔑の対象とされたのである。

「唐朝に敵対した人物(「日出ずる処の天子」)は、これを史上に存在したものとは認めない。」

 この立場である。その立場に反する「倭国の歌集」も、「柿本人麿作歌」も、一切これらは存在を容認されなかったのだ。

 だからこそ、この編者は、あえて奇妙な形で、誰にでも(確かな目で見れば)わかる姿で、この「大和わく」の中に無理矢埋おしこめた。それによって後代の(心ある人の)発見のみを望んだ。―今、そのように理解しえたのである。

 わたしは永らく誤解していた。この編者の「修」ぶりを憎んできたのである。あきれた所業のようた見えていた。しょせん、目が浅かったのだ。

 今は、知った。この「修」者は、当然この矛盾とくいちがいに、後代の読者が気がつくことを期待した。深く望んでいたのである。

 しかし、1300年間の大政翼賛会下において、すべての俊秀も専家も目をふさぎ通してきていたのではあるまいか。最近の130年間においては、とりわけそうだった。

 わたしは早朝、風呂上りの床の中で、74才にしてはじめて、万葉の編者の志を知ったのである。

 九州王朝から権力を奪取した近畿王朝は、その基盤を確固たるものにする過程で、文化の先進国・九州王朝の官吏・知識人たちの力を必要とした。『日本書紀』や『万葉集』の編纂者の中に九州王朝の官吏・知識人が加わっていた。彼らは九州王朝抹殺の命令を受けていたが、『日本書紀』や『万葉集』のそこここに九州王朝の存在を示す「?」を仕掛けていたのだ。
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