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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(119)

「天武紀・持統紀」(35)


飛鳥浄御原宮の謎(10)
〈ちょっと横道〉人麿歌中の「現地地名」


 「壬申の乱(5)」で『万葉集』の36番~39番を取り上げた。論証は繰り返さないが、これらの歌の舞台は「大和の吉野」ではなく「肥前の吉野」である、というのが結論だった。36番~39番を再掲載する。

38番・39番
吉野の宮に幸(いでま)しし時、柿本朝臣人麿の作る歌

やすみしし わご大君の きこしめす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並めて 朝川渡り 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激つ 瀧の都は 見れど飽かぬかも
 反歌
見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む

やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 激(たぎ)つ河内(かふち)に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなづく 青垣山 山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつき)と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり [一に云ふ][黄葉かざし] 逝き副ふ 川の神も 大御食(おおみけ)に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも

 反歌
山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも


 「逝き副ふ 川のも」と訓じられている句の原文は「遊副川之母」である。ただし、元暦校本では「逝副川之母」となっている。岩波大系は「逝副川之」を採用している。この句が従来はどのように論じられてきたのか。古田さんがまとめているので、それを読んでみよう。

 山田孝雄の『万葉集講義』巻第一では

 遊副川之神母『ユフカハノカミモ』とよむ。『ユフカハ』は川の名なりといへり。然れども、さる名の川ありとはきかず。或は宮瀧の末に『ゆかは』といふ川ありといひ、或は又西川の枝川ともいふ。いづれも推しあてにしてさる川ありといふ證を知らず。後の研究を俟つべきなり。元暦本は『遊』を『逝』に作れり。されど、かくても意とほらず。(下略)

考証の厳正さを目指した、山田孝雄の当惑ぶりが筆端にあふれている。正直だ。

斎藤茂吉も、『柿本人麿、評釋篇巻之上』において諸家の"混迷"ぶりを紹介する。

 遊副川之神母ユフカハノカミモと訓む。ユフ川の神もといふ意。此處に恐らく『朝川』『朝川之』などの脱語があるのであらうか。ユフ川は仙覺が『ヨシノニアル川ノ名也。カシコニハ、湯川トイフトカヤ。コレオナジコトカ』と云ったのを契沖も眞淵も参考とした。なほ眞淵は、巻八の、結八川内(ユフバガフチ)といふのはそれかといひ、多くの注釋書がそれに従ひ、守部は倭名勝志に據って、木綿川は西河の枝川也といふのに従ってゐる。僻案抄には『前の長歌に、旦川夕川の句あれば、此遊副川も夕川とみへたり。僻案に此句の上に五言の一句有べし。脱せるべし』と云って『阿佐川也(アサカハヤ)』を補充してゐるが、餘り賛成者がなかった。美夫君志は、『夕川の意とするはわろし』と断言してゐる。

 近時武田博士は、『元暦校本には、遊を逝に作ってゐるから、これによって読み改める。宮殿の前を流れる吉野川を逝(ユ)き副(ソ)ふ川と云ってゐる』と解した。この訓は古葉略類聚鈔のユキソフカハノとあるのに従ったものである。

 澤瀉氏の新釋も元暦本の文字と古葉略類聚鈔のユキソフカハノといふ訓とに據って同様に訓んでゐるが、人麿の聲調に似ない語である。(下略)

 代々の万葉注解家の"困惑ぶり"と共に、さすがの「人麿心酔者」の茂吉もまた、これをもてあましているさまが、よく伝わってくる行文ではないか。

 残念ながら、「大和のわく」内にとどまる限り、スッキリした解決は到底えられなかった。それが研究史上の実情のようである。

 繰り返すと、これらの歌の舞台が「肥前の吉野」である。この立場に立つと、「副川之」の句の問題はあっさりと解決する。佐賀県佐賀市富士町に小副川川(おそえかわかわ)という川がある。「川」の字が重複している珍しい名称だが、この辺りの字地名が「小副川」なのでそのような名称になったのだろう。この「副川之」という句にはその川の名の字面が仕込まれていたのだった。

 「十六社(ししこそ)」と「天帰(甘木)」はそれぞれ239番・240番で使われている。岩波大系の読み下し文は次のようになっている。

長皇子遊獵路(かりぢ)の池に遊(いでま)しし時、柿本朝臣人麿の作る歌一首并短歌

やすみしし 我が大王 高照らす わが日の御子の 馬並めて み獵(かり)立たせる 弱薦(わかこも)を 獵路の小野に 猪鹿(しし)こそば い匍ひ拜(おろが)め 鶉こそ い匍ひ廻(もと)ほれ 猪鹿じもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひ廻ほり 恐(かしこ)みと 仕へ奉りて ひさかたの 天(あめ)見るごとく 眞澄鏡(まそかがみ) 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき わご大王かも

 反歌一首
ひさかたの天(あま)行く月を網に刺しわご大王は盖(きぬがさ)にせり


 長皇子の狩りの時に捧げられた歌だとすると、なんともまあ大げさな阿諛追従だらけの愚歌と言うほかない。しかし、最後に古田さんの読解文を掲載するが、この歌は古田さんによって挽歌として甦ることになる。今はまず、この歌に仕込まれた「現地地名」を取り出しておこう。

 「猪鹿(しし)こそば」と訓じている部分の原文は「十六社者」である。「シシジュウロク(4×4=16)」という九九の一つを用いて、一種の「謎かけ」遊びをやっている。「一六とかけて獣(しし)と解く、心はシシジュウロク」というわけだ。しかし「十六社者」には雷山をとりまいている「「十六天社」の意が秘められている。

 次に反歌の中の「天(あま)行く月」。これれの原文は「天歸月」。これの従来の読みはペケ。「天歸」は福岡県朝倉郡の「甘木」であり、「甘木の月」と訓じるのだが正しい。

 つまり、これらの歌の舞台は筑紫の朝倉郡ということになる。399番・340番に対する古田さんの詳しい解説を読んでみよう。

 長皇子(天武天皇の第四皇子)が狩りにゆくと、地上の猪鹿や空飛ぶ鶉たちが皇子の前に平服して、これを迎えた。そして皇子は空にある月を、網で採って、自分の「きぬがさ」として使用しておられる、と。

 何とも、奇々怪々な歌ではないか。わたしには、従来の万葉学者がこの歌に対して決定的な手袋を投じなかったこと、そしてこれを以て万葉集の「編成のあり方」に対する「?」の一起点としなかったこと、この一事が何としても理解できないのである。それだけ、万葉研究における「国学の伝統」の呪縛が深く、それが病膏肓に至っていた、というべきなのであろうか。

 舞台を九州に移すと、事態は一変する。反歌(240)の「天帰月」は"天(あま)ゆく月"(従来の訓み)ではなく、「天帰(あまぎ。甘木)の月」である。福岡県の朝倉郡にある地名だ。「月」は、この「大王」の紋章である(麻氐良布〈までらふ〉山の祭神に「月読命」あり。)。

 その「甘木の王者(大王)」が狩りに出て斃れた。馬ががけから落下したのであろう。或は、獲物(猪鹿)からの反撃にあったのであう。そして彼は死者として「帰還」したのである。挽歌だ。その葬送の行列の中に、彼の"獲った"動物たち(猪鹿や鶉)の死屍が引きずられていた。列に加えられていた。そのさまを、「あれほど、貴方を悩ませた彼等も、今は平服しています。」と、"歌ってあげた"のだ。

 これは敗れた死者への「なぐさめ」であって、決して阿訣ではない。なぜなら、この歌を聞く人々の眼前には、「敗れた王者」の惨たる死骸が現に実在している。「今は、けものたちも。」という、死者への「いやし」の言葉であること、それを参列者一同、誰一人疑っていないのであるから。人々の涙を新たにさそったことであろう。

 この葬列の行く先は、あの雷山である。なぜなら、人麿は長歌(239)の冒頭に「十六社者」(「ししこそは」)と歌っている。雷山は「十六天神社」にとりまかれている。雷山自身にも、祀られているという(地元の住吉神社の徳安正宮司さんによる。)。

 このような葬列の道程をしめすもの、これが「万葉集における、算術表記」として著名な、この「十六=しし」表記だった。従来の万葉学では、これを単なる「奇智的表記」とのみ解してきていたのであった。

 以上、何の「奇妙さ」も存在しない。荘厳にして沈痛のひびきをたたえた挽歌だったのだ。

 「反歌」は、この大王の紋章(「月」)と狩りのための網、その二つが 〝並置″された姿をあたかも「平常時における、貴人のよそおい」としての"きぬがさ"に見立てたのである。もとより、眼前の現実は、"よごれた紋章"と"破れた網"にすぎなかったであろうけれども。あまりにも、平常時にも似ぬ、無残な姿だったのである。「あれほどの威厳を誇った方が、今は一変して、これほどの無残な姿。」それが人麿の目線だった。そしてその場の一同の深く共感するところだったのではあるまいか。  ここでも、「九州から大和へ」の移植は、およそ疑うことができない。わたしにとって、この「発見」の意義は絶大だった。

〈A〉「天武天皇の第四皇子」である「長皇子」 の面前での作歌と、明記されている。
〈B〉しかし、内容は、いわば「支離滅裂」である。
〈C〉これに反し、「九州における、甘木の大王に対する、葬送の挽歌」と見なしたとき、「歌」は生きかえった
〈D〉従ってこの「長皇子、云々」の「前書き」が偽妄であることは明白だ。
〈E〉万葉集中、天武天皇や持統天皇の「諸皇子」 に対する、人麿作歌は数多い。人々の知るところだ。
〈F〉それらもまた、おそらくすべて右のような「九州から大和へ」の移植、ハッキリ言えば、換骨奪胎、もっとハッキリ言えば「盗用」によって成り立っていたのではないか。

 わたしは慄然とした。全身の骨がふるえた。本来、日本書紀の天武紀にも、持統紀にも、「柿本人麿」など、その名が一切存在していないのである。

 そこに実在すると思いこんで遠望していた歌の女神が、近寄るにつれ、単なるまぼろし、一個の幻影にすぎなかった。そのような、茫たる思いの中にわたしは捕えられていたのである。

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