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530 「良心の自由」とは何か(24)
「緩和剤の喪失」に対する反動
2006年6月18日(日)


 『「信仰からの自由」への徹底化』あるいは『階級対立の激化=緩和剤の 喪失』という精神状況への対応手段(反動)として予見(または既見)される現象を、 古田さんは四つあげている。
第一の道は、百教一致主義の疑似宗教の立場です。この多宗教の枯死から立ち直る一つ の論理的便法として、各宗教の各要素を分解合成して、新たな宗教を創出する 道。

 「生長の家」から「道徳科学」など幾多のものがこの傾向の典型です。あら ゆる経典が引用され、自己の教理をささえることになります。歴史的には古代 ペルシャのマニ教のタイプです。

 このタイプの宗教に次の三つの注目点があらわれます。
 一つには、多宗教を引用しつつも、「生命の実相」といった、絶対精神へ 源帰させている点、絶対性回復がその本来のねらいであることを示しています。
 二つには、自己の空中分解をふせぐため、もっぱら反「無神論」、反「無宗 教」、反「唯物論」(つまり反共精神)において熱情を示すことです。多宗教 を一丸としたために一丸の防禦に身を捧げるのです。
 三つには、その多くがしばしば天皇崇敬をうち出す傾向のあるのは、この タイプがその抽象性に耐えきれないことを示すと共に、そこから脱出しようと する衝動の一つです。

 安部晋三をはじめ多くの政治化との癒着が取りざたされているいま話題の 統一教会がこのタイプの典型だろう。統一教会の「統一」とは全世界の全宗教 の統一の事らしい。統一教会の別働隊は「勝共連合」と名乗っている。また次 のように天皇教と結び付けなければ不安で仕方のない信者の心情吐露も多い。 痴識人の統一教会礼賛のコメントを一つ紹介する。

『神武天皇が、建国に際し、橿原(かしはら)の宮で宣べ給うた言葉の中に 「八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)とせむことまたよからず や」というのがある。「あめのした」とは、地球上ということである。つまり、 この言葉の意味は、「地球上の全人類が一つの家の中に住む親子兄弟のように 仲よく暮らしてゆこうではないか」ということである。「八紘一宇」は、日本 の建国の精神であると同時に、神道の根本理念である。(中略)それは、統一教 会の創始者・文鮮明師の理想とされる世界の諸宗教の融和ないし統一とその根 底において一致するものである、と私は考える。▲小森義峯(元憲法学会理事長、元国士舘大教授、法学博士、伊勢神宮評議員) 』  興味のある方は

文鮮明師と統一運動に賛同する方々

をどうぞ。

 第二の道は、日本の古代的宗教の根につながろうとする立場です。教派神道、 あるいは、「天理教」などの新興神道がこの道をとっています。そして明治前 の多宗教混在の中を生きつづけて来た経験と結びついて、近代的「信教の自由」 の外に疑似的に身をかわして生きるのです。各神社がもっぱら儀式として人々を (祭の時だけ)集めるのもこの立場に属しています(前「信教の自由」的な、祭 礼のための氏子からの「自発的」寄附徴収!)。

 第三の道は、鎌倉仏教に見られた本源的自由の歴史を疑似的によびもどし、 もっぱら他宗教を攻撃し、自己の主体的絶対性を実践的に確保しようとする道で す。
 ヨーロッパに見られるように、他宗教攻撃、抵抗は「信教の自由」の歴史的 基礎でした。日本において純粋に発現した「信教の自由」の唯一・最大の欠落は、 それらがそういう歴史的基礎から直接にかちとられたのでなく、上から(明治政 府から、占領軍から)わくぎめされた点です。この点、この道をとる宗教のゆき 方(たとえば創価学会)が下から内面生活の空白をうずめるという、一つの本格 的運動の形態をとったところに、この宗教の花々しい行動力、効果の最大の原因 があります。
 この立場を一言で要約すれば、(枯死の)墓場において、あたかも墓場でない かのようにふるまう道です(疑似的にもせよ、一応本格的立場をとっているの に、一般の人から「異常」に見えるのも一つはそのためです)。

 第四の道は、道徳の「交通道徳」化の道です。宗教の枯死を暗黙のうちに認 め、その宗教の根から道徳を切りはなし、たとえば交通道徳において純粋化され ているように、もっぱら純功利的、能率的道徳を樹立する通です。ただし、この 道は「赤・青・黄」的の明快なシンボルの道徳となり易く、したがってレッテル 主義(たとえば〝赤″のレッテル)とも結びつきやすい要素をもつと共に、根の ないため、道徳が倫理(エトス)(生活の中に己を導く 規範)化できにくい欠陥をもちます。したがって「道徳的」でかつ「内面の空 白」な人間、エネルギーを欠いた道徳のタイプが出現することになります(戦前 にもこのタイプは一応既に出そろっています)。

 以上の他に、典型的に「外面生きて立っており、内面枯死しつつある」文化宗 教― キリスト教や仏教 ―についてはここではふれません。


 第四の例を私は思いつかない。古田さんがその他としている「文化宗教」、例えば 仏教の例をとりあげると、道路に面した目立つところに設置したお寺の掲示板に 日替わり格言のように道徳を諭し記しているのをよく目にするが、これなどは「第四の 道」をまさぐっている現象ではないかと思う。

 ここで吉本隆明さんの新興宗教の分類の仕方を紹介しておこう。
 天理教のような女性を教祖として土着の神道と結びついたものを「新興宗教」 と呼んでいる。また、親鸞、日蓮、道元などにより鎌倉期に起こされた宗教を 「新宗教」と呼んで、「統一教会」「幸福の科学」「創価学会」「オウム真理 教」などのような既成宗教を『疑似的によびもどし』ているものを「新新宗教」 と呼んでいる。この「新興宗教」と「新新宗教」の思想的精神的内実を解明し ている吉本さんの論考を次の課題にしようと思っている。

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