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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(117)

「天武紀・持統紀」(33)


飛鳥浄御原宮の謎(8)
「飛鳥浄御原宮治天下天皇」とは誰か(3)


 「飛鳥」はなぜ「あすか」と読むのか。この問題ですぐ思いつくのは『万葉集』の「飛ぶ鳥の明日香」である。ここから「飛鳥」を「あすか」と読むようになったと考えてよいだろう。しかし、それでもなぞが残る。では、なぜ「明日香」の枕詞が「飛ぶ鳥の」なのか。この問題には、室町・江戸時代から現在まで、多くの万葉学者がさまざまな苦心の解答を出し続けてきたという。それらの解答を、古田さんは、いずれも的確な解答とは言えない、と評し、『なぜなら、いずれも〝観念的″な、あまりにも〝観念的″な「意味付け」に」終わっていると、その理由を指摘している。

 ちなみに、「飛ぶ鳥の」を「明日香」の枕詞に用いている歌は3例ある。うち2例(194番、196番)は人麿のうたである。実は、古田さんは『壬申大乱』の第9章・第8章でこの二つの歌を取り上げている。もしかすると、この二つの章を取り上げる機会が出てくるかもしれない。

 他の1例(78番)は元明天皇または持統天皇の歌という詞書があるが、このような曖昧な題詞は怪しい。今は深入りしないが、これも人麿の歌である可能性が大きい。167番では人麿は「飛鳥」を「飛鳥の浄の宮」と使っている。岩波大系では「飛鳥」を「とぶとりの」と訓じているが、この場合は枕詞というより「飛鳥という所にある」という意であろう。(3791番は「飛鳥の飛鳥」と「飛鳥」を重ねて用いている。これは後世の使用例として除外した。)

 さて再度問題を提示すると、『なぜ「明日香」の枕詞が「飛ぶ鳥の」なのか』。

 『「紫宸殿」について』で述べたように、字地名「大極殿」や「紫宸殿」が歴史上の真実を指し示していた。しかし、昨今の市町村合併に見られるように、地名が時代とともに変わり地名の由来が分からなくなってしまう例の方が多いかもしれない。

 福岡県小郡市井上に飛島(とびしま)という小字地名がある。ここの地名は、明治初期の『全国村名小字調査書』では三井郡井上村飛鳥」とあり、「飛鳥」には「ヒチョウ」というルビが振られている。この事態はどう解すればよいのだろうか。古田さんは、ここの地名が「飛鳥(アスカ)」→「飛鳥(ヒチャウ)」→「飛島(トビシマ)」という「三段階の変化」をされた、という。その論証のあらましを追ってみよう。

論拠1 土地の形状
 飛島の北方に「本山(ほんざん)」と呼ばれる地帯(字地名・井上)がある。その両脇に水路があり、傾斜地をその「水路」が合流して南下し、飛島の地を取り巻いている。この「水路」の流出の道筋が、まさに「飛ぶ鳥」の形状をなしている(郷土史家・江永次男氏による)。大和の「アスカ」には、このような形状の水路が存在しない。「アスカ」と「飛ぶ鳥」のつながりは本来この地で発生し、それが「大和のアスカ」へと移っていったのであろう。

 ちなみに、古田さんの「生涯最後の実験」とは「飛ぶ鳥のアスカ」形状確認のための研究実験であった。(その結果について、私は未聞。)

 以後は飛島を、現在の地名「飛島」ではなく、「飛鳥=アスカ」と呼ぶことにする。

論拠2 「明日香」の由来
 アスカの近く、朝倉郡の古社・麻氐良布(まてらふ)神社の祭神に、イザナギ・イザナミと斉明・天智天皇とともに、「明日香皇子」の名前がある。もちろん、斉明・天智が祭神となったのは、新しい政治権力に強いられたのかあるいはおもねって進んで採用したのか分からないが、九州王朝から近畿王朝へと権力移行後のことである。九州では功皇后を祭神に加えている神社が多い。もしかすると明治維新以後の例もあるかもしれない。古田さんは久留米市の高良玉垂宮の祭神変更の経緯を書き留めている。

「近くの久留米市の高良玉垂宮でも、江戸時代までは「玉垂命」だった祭神を、明治維新のとき(鳥羽・伏見の戦のあと)新権力の「天皇家」に〝ゆかり″のある「武内宿禰」へと「祭神変更」を行った旨の貴重な文書が残されている(宮司と村役代表による)」。

 麻氐良布神社の本来の祭神は「明日香皇子」だ。『万葉集』・『日本書紀』・『続日本紀』には「明日香皇女(天智の娘)」(『日本書紀』では「飛鳥皇女」と表記)の名があるが、「明日香皇子」は存在しない。「明日香皇子」は、麻氐良布神社祭神として、その地域(上座〈カミツアサクラ〉)において尊崇された人物ということになる。小郡市の「飛鳥=アスカ」地名の由来は「明日香皇子」であることは明らかだ。

論拠3 現地名「飛島」になった経緯
 権力の移行時に変更を迫られるのは神社の祭神だけではない。小郡市を流れる宝満川はかつて「徳川」と呼ばれていた。それを、徳川氏が権力をにぎった江戸時代に徳川氏をはばかって「得川」と改名したという。

 明治維新以後、「天皇家中心」主義の新政府にとって大和の「明日香」は重要な地名だった。天皇家の本拠地であり、明治以後、一段と強調されはじめた万葉集中の中核地名の一つであったのだから。現地(小郡市)ではこれをはばかり、「飛鳥」に「アスカ」の訓ではなく「ヒチャウ」という訓を振ったのである。この天皇家をはばかる意識を、古田さんは「明治の意識」と呼んでいる。

 しかし、「ヒチャウ」という「漢音」の訓は地名として不自然だ。一般に字地名は「和語」である。「天神(てんじん)」・「観音(かんのん)、あるいは前回出てきた「大極殿」・「紫宸殿」など例外があるが、これらは「漢音」で呼ばれる具体的な対象物がその地にあり、それを字地名にしている。「ヒチャウ」などという具体的な対象物はない。

 その上、「ヒチャウ」という「漢音」訓では「言いにく」く、かつ「なじみ」にくかったからであろうか。その後、「地名変更」はさらに進展した。「鳥」と似た字の「島」が採用され、「飛鳥(ヒチャウ)」を「飛島(トビシマ)」と改名したものと思われる。古田さんは「飛島」への改名の経緯を、もう少し突っ込んで、次のように述べている。

「この「明治の意識」(「飛鳥」を「ヒチョウ」と読み替えたときの)がやがて〝明治の後半期以降の国体明徴運動″の中で、「飛鳥」という字面自体を〝使わない″こととなっていった。そういう可能性もあろう。」

 以上で、小郡市井上の「飛島」という地のもともとの字名が「アスカ」であり、「飛鳥(アスカ)」→「飛鳥(ヒチョウ)」→「飛島(トビシマ)」という地名変更を重ねてきたことが明らかとなった。

 なお、「飛ぶ鳥の」という枕詞の由来はその地の形状にあるという説のほかに次のような説もある。これは郷土史家・柿原久之氏によるもので、古田さんが『壬申大乱』でその論文の一節を引用している。

「飛島。現在の市の字図では飛島とあるが、明治15年調の小字名では飛鳥(ひちょう)とわざわざ仮名付けしてある処を見れば、飛鳥が正しいのではないかと思う。飛鳥であれば、アスカとも読まれるのであって、飛ぶ鳥のアスカ(安宿)で安住の地。『飛鳥』と書くのは『飛ぶ鳥のあすか』という枕詞から来ているとの事。現地は樹林でおはわれた処もあり、大部分田地に開発されて居るが、鳥の安宿で、安住の地で昔も今も変らないようである。吉田東伍氏の言によれば、四世紀以降、九州の地名が東の方へ大分流れて居るとの事。……(地名の語源)」(「井上の地名」柿原久之『故郷乃花』第12号 小郡市、郷土史研究会)

この説に対して、古田さんは次のようにコメントしている。

『もちろん「安宿(あすか)」という地名が背景にあることも、十分考えられる。全国に少なからぬ「飛鳥」地名の存在も、これと無関係ではあるまい。』

ついでながら
 私の住まいの近くに「飛鳥山(あすかやま)」という公園がある。江戸時代から花見の名所として知られている。ここの「飛鳥」は「飛ぶ鳥の安宿(あすか)」が語源だろうと思う。この飛鳥山に6~7世紀頃の古墳群が確認されている。「飛鳥山」という地名もその時期にまで遡れるぐらい古くからのものと思われる。ほとんど完全に残っていたという「飛鳥山1号墳」の発掘状況は次のようです。


 近年迄飛鳥山に古墳が存在することは知られておらず、この古墳も庭園の築山かと思われていましたが、平成元年(1989)に古墳の可能性を考えて発掘調査した所、周溝と須恵器の破片が検出され、径31mの円墳と確認されました。

 続く平成5年(1993)の調査では、切石積みの胴張を有する横穴式石室の残骸が発見され、太刀や刀子の破片、鉄鏃、耳環、管玉、切小玉、ガラス小玉といった副葬品が検出されました。これらの特徴から7世紀台築造の円墳であろうとされています。

 全国に、知られることなく眠っている遺跡がまだまだたくさんあるようだ。日本各地の古代史が独自に明らかになっていくことは、おしきせの歴史を相対化していくための重要課題だと思う。
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