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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(115)

「天武紀・持統紀」(31)


飛鳥浄御原宮の謎(6)
「飛鳥浄御原宮治天下天皇」とは誰か(1)


 ヤマト王権の宮殿名の中で、飛鳥板蓋宮・難波長柄豊碕宮・飛鳥浄御原宮が異例であることを前に指摘した。飛鳥浄御原宮はその命名の理由を記録している点でも異例だ。そしえ、その理由がまたトンチンカンなのだった。

686年(朱鳥元)年7月20日
 元(はじめのとし)を改めて朱鳥元年と曰ふ。〈朱鳥、此を阿訶美苔利(あかみとり)といふ。〉仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)と曰ふ。

 年号を「あかみとり」と和訓で読むなど後にも先にも例がない。しかも、朱鳥改元を飛鳥浄御原宮の命名の理由にしているが、「朱鳥」と「飛鳥浄御原」と一体どういう関連があるのか、私には皆目分からない。かつてこのおかしな記録を問題にした学者は皆無だったのだろうか。Wikipediaでは次のように説明している。

「推古以降の居宮の名を見てみると、小墾田宮・飛鳥岡本宮・後飛鳥岡本宮などで分かるように地名をつけている。異なるのが飛鳥浄御原宮である。「浄御原」は一種の嘉号であり、朱鳥年号とともに、不祥を祓い天皇の病気平癒を願ったものであるという」。

 これが「定説」のようだ。「朱鳥」との関連は完全に不問に付している。「浄御原」は「一種の嘉号」であると言うが、では「嘉号」でなく、元の「号」は何なのだろうか。このようなこじつけ説を私は全く理解できない。

 『日本書紀』では、このような取って付けたような不可解な記事はどこかからの盗用と考えてまず間違いない。もともと「朱鳥」と「飛鳥浄御原」とは何の関連のないと考えるべきなのだ。実は「飛鳥浄御原」については、古田さんが論究している。

(以下は、講演録「日本の未来-日本古代史論」・『古代に真実を求めて 第12集』所収「生涯最後の実験」・『壬申大乱 第7章筑紫の飛鳥』を教科書にしています。なお、講演録からの引用文は、つながりを分かりやすくするため、場合によっては前後の組み替えを行っています。)

 京都市左京区上高野に崇道(すどう)神社がある。1613(慶長18)年、その神社の裏山の古い墓から、金銅製の墓誌が発見された。「金銅小野毛人墓誌(こんどうおののえみしぼし)」と呼ばれている。

(表)
飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝任太政官刑部大卿位大錦上
(裏)
小野毛人朝臣之墓 營作歳次丁丑年十二月上旬即葬

 この墓誌が従来はどのように読まれていたのか。代表的なものとして 「早稲田大学 日本金石拓本コレクションデータベース」 の解説を使わせていただく。

 まず、読み下し文。

(表) 飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)に天下(あめのした)治(しろしめしし)御朝(みかど)に、太政官兼 刑部大卿、位は大錦上に任じられし (裏) 小野毛人朝臣の墓 歳(ほし)は次丁丑(ひのとうし)に次(やど)る年十二月上旬に営造し、即ち葬る(はふる)。

 小野毛人とは何者か。

 小野毛人の出自については、『続日本紀』和銅7年(714)4月の条に、中納言従三位兼中務卿勲三等小野毛野(けぬ)の薨去のことを記し、小治田朝(おわりだのみかど)(推古天皇)の大徳冠妹子の孫、小錦中毛人の子なり、としている。これにより毛人は遣隋使として著名な小野妹子の子であることが知られるのである。

 本論から外れるが、こういう文章を読むと、ひとこと言いたくなる。小野妹子は遣唐使であり、遣隋使ではないことを私(たち)は知っているが、「小野妹子は遣隋使」がすっかり「定説」になってしまっている。ヤマト一元主義者たちの謬論が正しく訂正される道はまだまだ遠いようだ。

 さて当然のこと、従来の学者は「飛鳥浄御原宮治天下天皇=天武天皇」として疑わない。そうするとこの墓誌の記録には次のような矛盾が含まれることになる。

 ところで、この短い墓誌銘のなかで飛鳥浄御原宮、大錦上、朝臣が問題となっている。飛鳥浄御原宮は天武天皇朱鳥元年(686)に名付けられた宮号であること、『続日本紀』に小錦中とあること、天武天皇13年(684)11月に朝臣の姓(かばね)を賜った52氏の中に小野臣もいることである。飛鳥浄御原宮の宮号、朝臣の姓はこの墓誌の紀年丁丑の年(天武天皇5年/677)以後のことであり、大錦上は『続日本紀』と記述が合わない。

 そこで、この墓誌は後の時代に追納された、とする説が行われている。

 この問題は墓誌が発見された江戸時代から論じられていたという。古田さんは伊藤東涯(1670~1738)の論文(『輶軒小録』所収)を紹介している。

「此中疑べきこと二つあり。天武帝十三年に小野臣等五十三氏に姓を賜ひ朝臣と云。牌(はい)丁丑年に造時は、白鳳六年也。朝臣を賜より前八年也。然るに小野朝臣と書するは何ぞや。亦続曰本紀に小錦中毛人と書く。然るに牌に大錦上と有り。此二ついぶかし。」(「百本随筆大成」第二期十二巻)

 これも本論とは関係ないが、ここで「白鳳六年」と九州年号が使われているのが目に付く。江戸時代では当たり前に使われていたようだ。

 さてこの問題については、明治以後も現在に至るまで、いろいろと論議が繰り返されてきたが、「天武紀・持統紀」や『続日本紀』を正しいと信じている限り、結論は似たり寄ったりとなる。「金石文の方がおかしい」となる。従って「息子が追葬したものだ」とか「後でいれなおしたものだ」とか「そのときに間違えた」のだとしかならない。このような従来の説を、古田さんは次のように批判している。

 8世紀の段階で息子さんが追葬した。後でいれなおしたものというなら、いよいよもって『曰本書紀』・『続日本紀』に合わせるべきです。作り直した金石文が『日本書紀』『続日本紀』に合うように作り直すというのは当然だが、合わないように作り直すというのはありえない。さんざん苦労しているが、いよいよおかしい。

 それでは何か。ことは簡単なのです。金石文が正しい。『日本書紀』・『続日本紀』が間違っている。

 『日本書紀』に合うから良い。これはダメです。『続日本紀』に合うから良い。これもダメです。そのことが判ってきた。なぜなら『古事記』が8世紀に造られたことが確実になった。ですが『古事記』が造られたことは『日本書紀』・『続日本紀』に書いてない。これらは意図的に改竄されている。他にも意図的改竄がなかったと、なぜ言えるか。『日本書紀』はあやしい。とうぜん『続日本紀』もあやしい。方法論上、これが基本にならなければおかしい。

 つまり従来の古代史学者は、その学問の方法論が根本的に間違っているのだ。

 学界では「天武紀」以降は、まあ正確だ。それで使える。「持統紀」はまあ大丈夫だ。そういう、まあまあ主義。まあまあ主義が通用しているのは学界だけです。わたしなどの方法論では、まあまあ主義はダメである。そのことがはっきりしている。そういう、まあまあ主義の史料の使い方はわれわれは出来ない。もしそれが歴史事実だと言いたければ、その件は証明して使わなくてはならない。

 当然、金石文と『日本書紀』の記事が違っているなら、金石文の方を取り、直接その史料批判をするべきなのだ。

 われわれの方法論からすれば、金石文と合わないということは、合わないほうが間違っている。『日本書紀』のほうが間違っている。『続日本紀』のほうが間違っている。

 「小錦中」と「大錦上」という位が違っているのは、701年を境にして位が変更になった。九州王朝から近畿天皇家になって位が下げられたと考えれば何の問題もない。

 「朝臣」についても、何回か論じたことがある。今簡単に言いますと紀貫之が「柿本朝臣人麿」と何回も書いている。『万葉集』も「朝臣」と書かれている。ということは、人麻呂は「朝臣」だった。あれは嘘だ。間違えている。「正三位」だと書かれているが、学界はこれも嘘だと言っている。

 「朝臣」は九州王朝の官職。それを『日本書紀』が時間帯をずらして天武天皇が位を与えたように書いているだけだ。この銘文に書かれているとおりがふさわしい。

 小野毛人の官位「大錦上」や姓「朝臣」が九州王朝から授与されたものならば、「飛鳥浄御原宮治天下天皇=天武天皇」も疑わなければならない。「飛鳥浄御原宮治天下天皇」とは誰なのか。
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