2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(114)

「天武紀・持統紀」(30)


飛鳥浄御原宮の謎(5)
「紫宸殿」について


⑨ 大安殿
「本居宣長(玉勝間)や通証は大極殿のこととするが、むしろ内裏の正殿で、のちの紫宸殿に相当する殿舎か。」  この解説者は「大安殿=紫宸殿」と考えているようだが、果してそうだろうか。手元に紫宸殿についての資料がないのでWikipediaの記事を用いる。Wikipediaの古代史関係の記事はほとんどヤマト王権一元主義の立場で書かれているが、平安時代以降の記事には大きな誤りはないだろう。

 Wikipediaによると「平安中期以降、大内裏の正殿であった大極殿が衰亡したことによって、即位の礼や大嘗祭などの重要行事も紫宸殿で行われるようになった」とある。この説明が正しいとすると、その役割から考えて紫宸殿はむしろ大極殿に相当する殿舎のようだ。また「殿舎(紫宸殿)の南には南庭が広がり、北には仁寿殿が位置する」とも言う。そうすると構造的には、仁寿殿が大安殿に相当すると考えられる。そして、ヤマト一元論者たちは無視しているが、紫宸殿と呼ばれる殿舎は平安時代に初めて現れるのではなく、既に7世初頭に九州王朝の太宰府に存在していた。このことは古田さんがさまざまの機会に指摘しているが、古田さんの言葉を借りると、「プロの学者がみんな嫌な顔をしてソッポを向いている」そうだ。太宰府の紫宸殿について解説を、古田さんの講演録「九州王朝論の独創と孤独について」(『古代に真実を求めて 第12集』所収)から引用しよう。

 それで九州太宰府にある九州王朝の宮殿は、どうなっているか。『九州考古学論攷』(鏡山猛 吉川弘文館1972年)の第6図太宰府政庁建物配置図によりますと、長方形で縦200メートル、横100メートルぐらいの大きさです。南門、中門がありその上に北の中心にある正殿があります。その正殿のある場所がちょうど地元の伝承では字「紫宸殿」の地名がある場所です。これも「大極殿」と同様、簡単に名付けられる地名ではない。

 古田さんが「これも「大極殿」と同様、簡単に名付けられる地名ではない」と述べている点について補足する。京都府向日市に字地名「大極殿」があり、そこから長岡京の大極殿跡が出土した。字地名が歴史の真実を伝えていたのだ。「紫宸殿」や「大極殿」などの字地名は個人が勝手に命名できるものではない。そこには歴史的な事実が埋もれている。地名考古学とでも言うべきか。太宰府の字地名「紫宸殿」も例外ではない。そこには最高権力者(天子)の宮殿があったのだ。

 また、太宰府の紫宸殿を構成する区画の大きさは200メートル×100メートルほどの長方形ということだ。「前期難波宮遺構配置図」で目測すると、内裏部分を北に50メートルほど延ばした規模とほぼ同じようだ。

前期難波宮跡


 これは北朝型式の宮殿様式です。そこで問題になるのは、この型式が典型のように言われる。実はそうではない。北朝がこの型式を採用する。南朝がこの型式を採用したら、「北」方向が尊いとなり南朝が北朝の臣下となるから採用しなかった。もちろん南京には、南朝型式は破壊されていて、今残っているのは明王朝の時代とその直前のものです。北に倚っている北朝型式の宮殿しか残っていない。ですが南朝型式の宮殿はそうではない。事実洛陽でも、後漢時代の宮殿の跡が残っていて、それで見ると南の端の黄河に沿ったところにある。それを後で来た北魏が、北を中心にした宮殿を遣り直した。思想の表現です。

 新羅・扶余もそうです。新羅の始めは月城、これが中心です。南の端が中心、山城をバックにしている。扶余も西北にあり、西が中心です。つまり高句麗・新羅・扶余は山城形式。太宰府も本来は大野城をバックにした山城型式。これが最初に造られた。あとで七世紀の初めに北朝型式の宮殿に作り直してある。作り直した時期も判明した。(『二中歴』にある) 九州年号の倭京元年(618)です。この年は隋が滅亡し唐が始まった年です。この京は「曰出処天子」が造り始めて、倭京元年に完成した。だから「倭京」と称した。(以下略)

 北朝形式・南朝形式については、講演録なので分かりにくい所がある。「古賀達也の洛中洛外日記 第273話 九州王朝の紫宸殿」から補充しよう。

 前期難波宮は「難波京」の北端にあり「北闕」様式と呼ばれる宮殿様式です。大宰府政庁も条坊都市の北端にあり、同様に「北闕」様式の宮殿です。したがって、両者の宮殿は共に紫宸殿と呼ばれていたのではないでしょうか。都の中心に宮域を持つ『周礼』様式の藤原宮とは明らかに政治思想性が異なった様式なのです。

 「北闕」様式(古田さんの用語では北朝形式)の都城は「天子は南面する」という思想に基づいている。古賀さんはこれを「天子南面」様式とも呼んでいる。
太宰府復元図

 『周礼』様式の都城は藤原京だけであり、近畿王朝の平城京以後の都城も全て「北闕」様式になっている。
藤原京復元図

 どうして藤原京のみ『周礼』様式が採用されたのか。このことについても古賀さんの見解を紹介しておこう。(「古賀達也の洛中洛外日記 第221話 条坊と宮域」より)

 九州王朝に対して、大和朝廷の王都を見ますと、大和朝廷にとって最初の条坊都市である藤原京(新益京)は『周礼』様式で、平城京からは「天子南面」様式となります。これも九州王朝との関係で考察する必要がありそうですが、特に藤原京完成時はまだ九州王朝が健在なので、太宰府政庁(2期)や前期難波宮と同じ「天子南面」様式の採用を憚ったのではないでしょうか。

 実は藤原京の宮域については、一旦造った条坊と側溝を埋め立てて宮域にしたということが発掘調査でわかっており、初めから条坊と同時に宮域ができたのではないのです。これは、もしかすると藤原宮の建築にあたって、条坊区画のどの部分を宮域にするのか、九州王朝に遠慮してなかなか決められなかった痕跡かもしれませんね。

 なお、古賀さんは前期難波宮でも「紫宸殿」という殿舎名を使っていたのではないかと述べているが、私は前期難波宮から「大極殿」が使われるようになったのではないかと考えている。それを踏襲して、ヤマト王権初の本格的都城である藤原京の宮殿でも「大極殿」を使うようになったのではないだろうか。
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