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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(113)

「天武紀・持統紀」(29)


飛鳥浄御原宮の謎(4)
発掘結果と『日本書紀』との整合性(3)


 岩波大系版『日本書紀』の発刊は1960年で、飛鳥宮跡の発掘が始まった翌年である。従って岡本宮跡も飛鳥浄御原宮跡も『日本書紀』の記述に従って推定されていた。まず、『日本書紀』の「飛鳥岡の傍(ほとり)」という記述をもとに、岡本宮を次のように比定している。

「飛鳥岡は雷岡又はその東北の小丘と解するべきであるから、岡本宮はそのあたり(明日香村雷・奥山)にあったとみるべきである。」

 前々回に掲載した「飛鳥地域要図」で位置を確認してみよう。

飛鳥地方

 雷岡は中ッ道と阿倍山田道の交差点近くにある。次に飛鳥浄御原宮については次のように述べている。

「奈良県高市郡明日香村飛鳥の北方か。」

 このように推定した根拠は書かれていないが、「明日香村飛鳥の北方」というと岩屋山古墳辺りになる。「岡本宮の南に營る」という『日本書紀』の記述によったのだろうか。

 ともあれ、1960年頃は岡本宮と飛鳥浄御原宮の所在地は上のように比定されていたが、それらの土地からは考古学的証拠は何も得られていない。従って岩波大系による大極殿・大安殿についての校注は藤原宮以後の宮殿の構造を参考にした記述ということになる。

 例えば、④(「孝徳紀」の大極殿)の頭注で「後の宮殿では大安殿と大極殿とは別殿であった」と書いていて、校注者は「後の宮殿」として飛鳥浄御原宮の宮殿を想定しているようだが、飛鳥浄御原宮については考古学的には何も分かっていなかった。にもかかわらず、⑧・⑨(「天武紀」の大極殿・大安殿)の頭注は次のように解説している。

⑧ 大極殿
「政務を行う朝堂の正殿。その存在が確認されるのはこの飛鳥浄御原宮が最初。」

 「政務を行う朝堂の正殿」という判断は明らかに藤原宮や平城宮の構造から得ていると思われる。(前々回に掲載した「古代宮都の変遷」図を再掲載する。)

宮殿規模1

宮殿規模2

 しかし、「その存在が確認されるのはこの飛鳥浄御原宮が最初」というのは一種の詐術と言わなければならない。「存在」は確認されていない。「天武紀」に記録があるだけである。

⑨ 大安殿
「本居宣長(玉勝間)や通証は大極殿のこととするが、むしろ内裏の正殿で、のちの紫宸殿に相当する殿舎か。」 (筆者注:「通証」とは江戸時代の学者谷川士清の「日本書紀通証」のこと)

 『続日本紀』の記録を見ると、大極殿がもっぱら即位式や朝賀の儀に使われているのに対して、大安殿は天皇の日常的・私的な殿舎のようである。そのように判断する論拠として、『続日本紀』の721(養老5)年12月7日の記事を挙げることができる。そこでは「太上天皇が平城宮の中安殿で亡くなった」と記録されている。この中安殿とは大安殿院の中の殿舎の一つであろう。大安殿を「内裏の正殿」とする説の方を私も取る。

 ところで、飛鳥宮跡を飛鳥浄御原宮に比定して、しかもそこには大極殿も大安殿もあったとする学者たちはどの殿舎を大極殿・大安殿に比定しているのだろうか。「内郭南院正殿=大安殿」・「東南郭正殿=大極殿」(上の飛鳥浄御原宮の図には「大極殿」の記入がある)としている。藤原宮や平城宮とは似ても似つかない構図になっている。藤原宮や平城宮と同様の構図にするのなら、「内郭南院正殿=大極殿」・「内郭北院正殿=大安殿」としたいところだが、それでは飛鳥板蓋宮に大極殿・大安殿があったこととなり、「大極殿が初めて現れるのは飛鳥浄御原宮」という大前提と矛盾してしまう。「内郭南院正殿=大安殿」・「東南郭正殿=大極殿」とせざるをえないのだ。藤原宮や平城宮とは違う構図になってしまうことについては、「律令制が整えられていく過程での一時的なもので、律令制の整備とともに宮殿も藤原宮や平城宮のように完成されていった」というような説明をしている。

 ただし、上のような比定が多数意見になってはいるようだが、孝徳紀の「大極殿」と同様に、飛鳥浄御原宮の「大極殿」も『日本書紀』編纂時の潤色であるとする説もある。中尾芳治論文「日本都城研究の現状」が大極殿をめぐる諸説をまとめているので、それを読んでみよう。

 東南郭正殿を天武朝に新設された「太極殿」であるとする小澤・林部説に対して横山洋氏は、藤原宮以後の大極殿の基本性格のうち
(a)朝堂院に北接して位置する
(b)独自の大極殿院の中に単独で位置する
(c)一定の高さの基壇上に建つ
(d)桁行九間、梁行四間の四面庇付建物である
との四つの属性に関して前期難波宮内裏前殿と浄御原宮東南郭正殿の規模・構造を比較検討し、いずれも大極殿の基本性格を一部備えつつも、まだ藤原宮以後と同じような大極殿たりうるには至っていないとする。そして難波宮内裏前殿を祖型とする浄御原宮東南郭正殿を大型化するとともに唐制を採用して初めて藤原宮太極殿が成立したとする。

 林部氏が「藤原宮が、飛鳥浄御原宮の内裏・太極殿(東南郭正殿)と、難波宮の朝堂(庁)とを統合した新たな宮殿形態をとる」としたのに対し横山氏は朝堂院のみならず藤原宮大極殿にも前期難波宮(難波長柄豊碕宮)の要素が濃厚に継承されていると考え、東南郭正殿に大極殿の前身的性格をみる。

 ところで、飛鳥宮跡ⅢーB期の東南郭正殿(エビノコ郭正殿)は九×五間、梁間三間の身舎の四面に庇をめぐらした高床の建物であるが、山本忠尚氏はこうした「梁間三間四面庇付建物」遺構の類例を広く収集して検討を加え、結論として七世紀中ごろの前期難波宮から奈良時代を経て平安時代に至るまで、天皇が居住する建物(御在所)は一貫して梁間三間四面庇付建物であったとして、同じ構造と規模をもつ東南郭正殿は大極殿ではありえず、鬼頭清明説のように、大極殿は藤原宮の段階で成立したとする。

 「天武紀」が「殿」だらけなのに対して、持統が同じ飛鳥浄御原宮に居住した期間(686~694)の「殿」は「前殿」だけで、あとは「内裏」の一語で済まされている。このような『日本書紀』の記述の不可解さを問題にする学者は皆無のようだ。私はこの一事だけで、天武紀の大極殿も「潤色」と断定してもよいと思っている。私は「大極殿は藤原宮の段階で成立したとする」説を支持する。

 次に私は、上の諸説の理路のかなめに前紀難波宮が大きくかかっている点に注目したい。

「前期難波宮内裏前殿と浄御原宮東南郭正殿の規模・構造を比較検討し」
「藤原宮大極殿にも前期難波宮(難波長柄豊碕宮)の要素が濃厚に継承されている」
「七世紀中ごろの前期難波宮から奈良時代を経て平安時代に至るまで」

 これらの文言には「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」という「定説」にとらわれている学者たちの戸惑いが現れている。「古代宮都の変遷」図を見ると前紀難波宮の特異さが一目瞭然だ。板蓋宮→後岡本宮→浄御原宮という自然な流れの中に、突然変異的に藤原宮や平城宮と同様の構造をもった宮殿が現れている。前期難波宮の詳細図を見てみよう。

前期難波宮跡
(『古代日本と朝鮮の都城』より転載)

 この図で「内裏前殿」としている施設はまさしく大極殿ではないのか。ヤマト王権一元論者にとっては、大極殿は飛鳥浄御原宮もしくは藤原宮に初めて出現することになっているから、この殿舎を「大極殿」と呼ぶわけにはいかない。「内裏前殿」と呼ぶしかない。しかし、前紀難波京を九州王朝の副都と考える立場からはためらうことなく、「それは大極殿だ」と言うことができる。もしかすると九州王朝ではそこを「紫宸殿」と呼んでいたかもしれない。ここで次に、⑨の頭注の「のちの紫宸殿に相当する殿舎か」という文言を問題にしたい。
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