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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(112)

「天武紀・持統紀」(28)


飛鳥浄御原宮の謎(3)
発掘結果と『日本書紀』との整合性(2)


 『日本書紀』に現れる「殿」と呼ばれる施設を全て調べてみた。「天武紀」以外では次の例しかない。

①大殿(おほとの)・10件
「崇神紀」・「垂仁紀」・「神功紀」・「雄略紀」(2件)・「欽明紀」・「敏達紀」・「用明紀」・「舒明紀」・「天武即位前紀」

 ただし「崇神紀」の例では「みあらか」と訓じている。「あら」は「有る」、「か」は「所」で、「大王のいらっしゃるところ」という意のようだ。大殿ではもっぱら宴の類が行われていたようだが、大王が「崩于大殿(大殿で亡くなった)」という使用例が3例あるのが目に付く。つまり大殿が私的な宮室であることを示している。後の内裏(だいり 『日本書紀』は「おほうち」と訓じている)に相当する殿舎であろう。「内裏」の使用例は雄略・用明・崇峻・孝徳(4例)・天智(4例)・持統(7例)の計16件である。

 大殿以外では次のような例が一件ずつある。

②皇后殿(きさきのおほとの) 「仁徳紀」
③射殿(ゆみばどの) 「清寧紀」
④大極殿(おほあんどの) 「皇極紀」
⑤西小殿(にしのこあんどの) 「天智紀」
⑥西殿(にしのとの) 「天智紀」
⑦前殿(まえのみあらか) 「持統紀」


 ④以外は大殿内の部分殿舎と考えてよいだろう。特に⑥ははっきりと「内裏の西殿」と表記されている。

 ⑦は、なぜか、「崇神紀」の「みあらか」という読みを踏襲して「まえのみあらか」と訓じていている。前殿という呼称からは誰でも後殿というのもあるのだろうと考えるだろう。もしかすると中殿というのもあったかも知れない。前殿・(中殿)・後殿を合わせて大殿と呼んでいると考えられる。そしてさらに「みあらか」と読ませているのだから、大殿あるいは内裏を指すと考えるのが当然だと思う。ところが岩波の頭注はこの⑦について「大極殿を指すと思われる」という言っている。この頭注は飛鳥浄御原宮には大極殿があったという説を自明の前提としているための注だ。⑦は持統がまだ飛鳥浄御原宮に居たとき(689 持統3)の記事での使用だから、そこ(前殿)は大極殿にちがいないと考えたのだろう。

 では、飛鳥浄御原宮には大極殿があったという説は自明だろうか。その説の根拠は「天武紀 下」の記事にある。そこにはなんと14件の「殿」が登場する。

⑧ 大極殿(おほあんどの)4件
⑨ 大安殿(おほあんどの)3件
大殿(おほとの)2件(「天武紀 上」に1件)
内安殿(うちのあんどの)1件
外安殿(とのあんどの)1件
向小殿(むかいのこあんどの)2件
御窟殿(みむろのとの)1件


 さて、これらの「殿」のうち、大極殿と大安殿の関係をめぐって、学者たちの議論が混迷状態にある。まず⑧・⑨について、岩波大系版は奇妙なことに両方とも「おほあんどの」と訓じているが、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。「皇極紀」の④に遡らなければならない。この初出の大極殿は645(皇極4)年6月12日条、あの中大兄と鎌子による蘇我入鹿暗殺の舞台として出てくる。岩波大系本はこれを「おほあんどの」と訓じる理由を、頭注で次のように説明している。

「太極殿の名の初出。朝堂の正殿。ただし後世の大極殿にあたるものが板蓋宮にあったかどうかは疑わしい。確実に存在したと知られるのは天武天皇の飛鳥浄御原宮からである。訓オホアンドノは大安殿と同じと見たからであるが、後の宮殿では大安殿と大極殿とは別殿であった。太極殿は唐風の名、大安殿は日本古来の名称である。家伝には「臨軒」とあり、大極殿云々とはない。」

 家伝での表記について補足すると「帝臨軒」となっていて、これを「帝、軒(けん)に臨みたまひき」と訓じている。つまり暗殺の舞台をただ単に「軒」と表現していることになる。

 初めて大極殿が確認できるのは飛鳥浄御原宮であって、飛鳥板蓋宮に大極殿があったはずがない。家伝も大極殿という言葉を使っていない。ここの大極殿は実は大安殿であり、それを唐風に「大極殿」と表記したのだ。だから「おほあんどの」と読むことにしよう。これが「定説」の理路だ。ちなみに、講談社学術文庫の現代語訳では「だいごくでん」という当たり前のルビを付けている。

 それにしても⑧と⑨を異なる殿舎として扱いながら、同じ訓を付けているのはどうしたことだろう。④を「おほあんどの」と訓じてしまったのをバカ正直に踏襲してしまったということだろうか。頭注は「後の宮殿では大安殿と大極殿とは別殿であった」と言っているが、これではまるで「大極殿=大安殿」と主張していると考えざるを得ないではないか。

 混乱の元凶は④を「おほあんどの」と訓じたことにある。どうしてそのように読むことにしたのか。大極殿・大安殿には補注がある。その中の大極殿の部分を抜粋する。

「大極殿は、栄花物語、たまのむらぎくの巻に「大ごくでん」とあるように、ダイゴクデンとよむのが後世の例であるが、書紀の古訓ではオホアンドノとなっていて、平安時代にそう訓み習わしていたことがわかる。・・・名目抄や本居宣長(古事記伝・玉勝間)も大安殿を大極殿と同じとしているが、それを基づける確実な資料はなく、反対に続紀の恭仁宮や紫香楽宮の記事は大安殿と大極殿は異なる建物であったことを示す。しかし本来の大安殿が絶えていたか、あるいは大安殿という語が日用語でなくなっていた平安時代では、歴史的事実の問題とは別に、知識として大安殿という語を大極殿の古称と考えていたことは書紀の古訓の示すとおりである。・・・なおヤスミシシということばに関係させて、大安殿をオホヤスミドノと訓ませる宣長の説があるが、本書では古訓に従った。」

 要するに「歴史的事実の問題とは別に、知識として大安殿という語を大極殿の古称と考えていた」平安時代の「古訓に従っ」て「おほあんどの」と訓じたというのだ。豊富な知識がありそれを駆使しているが、そのうちかえって迷路に入り込んでしまい論理性を見失ってしまうという古代史学者たちの悪弊がもろに現れている例である。原典の表記そのものを分析するのではなく、後世の説、しかも誤った説に惑わされてしまっている。歴史的事実(考古学的事実)と照合しながら、まずは原典の表記を検討すべきだろう。

 「歴史的事実の問題とは別に」、『日本書紀』編纂者は何らかの意図・理由があって、「大極殿」・「大安殿」と書く必要があったかあるいは書きたかったのでその言葉を用いたのだし、明らかに「大極殿」と「大安殿」は別の殿舎として扱っている。素直に「だいごくでん」・「だいあんでん」と読んで何の不都合もない。問題はあくまでも『日本書紀』の記述が歴史的事実(考古学的事実)に則ったものであるか否かにある。

(付記)
 ④の頭注にある「太極殿は唐風の名、大安殿は日本古来の名称」という断定にはどんな根拠があるのだろうか。これも単なる便宜的な推定に過ぎないのではないか。「大極殿」と「大安殿」は対(つい)の殿舎として使い分けられていたようなので、その読み方も対的に「だいごくでん」・「だいあんでん」と読むことにした。
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