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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(110)

「天武紀・持統紀」(26)


飛鳥浄御原宮の謎(1)
「飛鳥宮跡」の発掘調査


 『日本書紀』が記録しているヤマト王権の大王たちの宮殿にはいろいろな疑問点がある。「推古紀」以降の宮殿の推移は次のようである。

推古
 豊浦宮(592)→小墾田宮(603)

舒明
 飛鳥岡本宮(630 636年火災)→田中宮(636)→厩坂宮(640)→百済宮(640)

皇極
 小墾田宮(642)→飛鳥板蓋宮(643)

 孝徳
 飛鳥河辺行宮→難波長柄豊碕宮(651)

斉明
 飛鳥板蓋宮(655 この年に火災)→飛鳥川原宮(655)→後飛鳥岡本宮(656)

天智

 近江大津宮(667)

天武
 嶋宮→岡本宮→飛鳥浄御原宮(672)

持統
 飛鳥浄御原宮→藤原宮(694)

疑問1
 行幸の時に使った行宮も含めて、ほとんどが所在を示す地名(あるいは地形)を宮名としている中で、飛鳥板蓋(いたふき)宮と飛鳥浄御原宮が異例である。異例と言えば地名を宮名としている中で、難波長柄豊碕宮も異例である。「難波の長柄の豊碕の宮」という三段地名の宮名はほかに例がない。

疑問2
 それぞれの宮殿はどの程度の規模であり、どのような建材で造られていたのだろうか。飛鳥板蓋宮について、岩波の頭注は「これまで萱葺であった宮殿を檜皮葺にしたので、板葺宮の名を得たのであろう」と述べている。この推量が正しいとすると、小墾田(おはりだ)宮は萱葺ということになる。推古が小墾田宮に遷ったのが603年で、皇極が小墾田宮に遷ったのは642年である。萱葺の建物の耐用年数はこんなに長いのだろうか。
 ちなみに、ヤマト王権の宮殿としては藤原宮が初めての瓦葺建物である。

疑問3
 萱葺にしろ板葺にしろ、その建築にはどのくらいの日数を要したのだろうか。『日本書紀』の中で、おおよその日数がわかる例としては舒明の百済宮がある。宮処を決めたのが639年7月で、翌年の10月に遷っている。おおよそ1年ぐらい要したことになっている。他の曖昧な記録の場合も、おおよそ1年ぐらいと読める。
 しかし、飛鳥浄御原宮の場合は異常だ。9月15日に岡本宮に遷り、「是歳、宮室を岡本宮の南に營(つく)る。即(その)冬に、遷りて居します」と記録されている。旧暦では10月から「冬」と呼んでいて、上の遷都記事の次に「冬11月」条があるから、素直に読むと10月に遷都したことになる。ほんとかしら?

 全て解明できるかどうかは分からないが、これらの疑問を念頭におきながら、議論を進めて行こう。

 さて、飛鳥にあったとされる宮殿の所在地は下の図のように比定されている。

飛鳥地方
(『倭国から日本国へ』から転載)

 しかし、これらの宮殿の中でその所在地が考古学的に確定できるのは藤原宮だけである。あとはいまだ推量の域を出ない。

 ただし、「伝飛鳥板蓋宮跡」として史跡指定されている所があり、そこの発掘調査の結果、そこが複数の王宮所在地であった可能性が出てきている。そこで今は「伝飛鳥板蓋宮跡」を単に「飛鳥宮跡」と呼ぶようになっている。(以下は、中尾芳治他編著『古代日本と朝鮮の都城』所収の論文、①中尾芳治著「日本都城研究の現状」と②今尾文昭著「飛鳥の諸宮」を教科書としています。)

 まず、飛鳥宮跡の長年にわたる発掘調査結果をコンパクトにまとめた文章を①から引用する。

 1959年(昭和34)以来、半世紀に近い長年にわたる発掘調査の結果、明日香村岡の地一帯にI期(下層)・Ⅱ期(中層)・Ⅲ期(上層)の三期にわたる宮跡が重複して存在することが分かった。

飛鳥宮跡

 I・Ⅱ期の遺構についてはⅢ期遺構の下層に位置することもあって、具体的な構造は不明である。Ⅱ・Ⅲ期遺構が正方位を取るのに対してI期は主軸方位が北で西に約20度振れ、検出遺構もわずかである。Ⅱ期遺構は東西193メートル以上、南北198メートル以上の大規模な回廊状の区画施設が検出されているが内部の構造は不明である。

 Ⅲ期遺構は、内郭・外郭・東南郭(小字名をとってエビノコ郭とも称される)から構成される。内郭は南北約197メートル、東西152~158メートルの逆台形を呈し、内部は南よりの東西掘立柱塀で北院(北区画)と南院(南区画)に分かれる。両院は中央の内郭南院正殿(内郭前殿)区と二棟の長殿から成る東西の区画で構成される。正殿の南には内郭全体の正門である内郭南門がある。ほぼ正方形の北院の北半部には桁行24間の東西棟建物を中心に、妻側に階段をもつ高床建物や大井戸などが全面に配置されている。また、最近の調査の結果、南半部中軸線上、内郭南院正殿に相対する位置に内郭北院正殿(内郭正殿)が検出され、内郭北院の構造がより明確になった。内郭両院は砂利敷、北院は石數で舗装されている。外郭は天皇の日常生活を支えた官衙的な機能をもった施設が配置されていたと考えられており、Ⅱ期遺構廃絶後、大規模な整地を行なったうえで造営されている。

東南郭(エビノコ郭)は、内郭の東南に位置する東西92~94メートル、南北約55.2メートルの範囲を一本柱の掘立柱塀で区画し、西側に門を設ける。内部中央に東南郭正殿(エビノコ郭正殿)が存する。

 まだ細かいところで議論中の事柄があるが、この発掘結果から次のような宮名比定が定説となっている。

Ⅰ期→飛鳥岡本宮
Ⅱ期→飛鳥板蓋宮


 第Ⅲ期遺構(最上層宮殿)はA・Bの二小期に区分している。具体的には内郭部分をA、外郭部分などの再整備地と東南郭をBとし、次のように比定している。

Ⅲ―A期→後飛鳥岡本宮
Ⅲ―B期→飛鳥浄御原宮

 この定説について②は次のように述べている。

 (上の定説は)史料の記述と検出遺構の機能を整合的に解き、さらに出土遺物による遺構の帰属時期の明確化によって導かれた飛鳥宮の構造を都城の形成史上に位置づけた都城制論であり、枝葉な指摘は反って混乱を招きかねない。ただ解消されるべき課題もあり、宮号比定を確定的なものとすることには少なからず躊躇を覚える。

 それというのも、第Ⅲ期は建物の間を玉石敷き、もしくは砂利敷きによる舗装で覆うが、その保存が前提となるため下層宮殿の調査は部分的にならざるをえない。復元に必要な資料蓄積や遺構間の同時性、企画性などを決する際の不確定要素を払拭できない。

 つまりⅠ期・Ⅱ期については調査が部分的であり、まだ確定的な結論を下すのは時期尚早だと、慎重に議論を進めている。ただし、詳細を省くが、Ⅲ期については内郭・東南郭内の分割状況・殿舎配置、さらに出土した木簡の内容などから判断して、上の定説がほぼ確実とされている。ちなみに、Ⅲ期を後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮に比定する決め手となっている木簡は次の通りである。

「大花下」・「小山上」
   →649(大化5)年制定の官位名
「辛巳年」→681(天武10)年を示す。
「丁丑年」→693(持統7)年を示す。
「大津皇」→「大津皇子」か。

 さらに最近(2004年)、「岡本」と銘記された墨書土器が出土しているという。

 先に「まだ細かいところで議論中の事柄がある」と書いたが、それは『日本書紀』の記事との整合性に関わる事柄である。次回に詳しく検討してみよう。
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