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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(109)

「天武紀・持統紀」(25)


番外編:白鳳なんて年号は、なかった?


 新しいテーマの考古学的裏付けを調べようと、遺跡発掘調査を取り扱っている本を借りて来て拾い読みをしている。考古学者もほとんどはヤマト王権一元主義者であり、彼らの考古学的成果に対する古代史的解釈は『日本書紀』べったりであり、役に立たない。しかし、考古学的成果はまぎれもない事実であり、その成果は彼らの著書に頼るほかない。そういう意味で読んでいる。

 さて、それらの本の中に古代史学会の大御所とも言うべき著名な上田正昭氏の著書がある。「新・古代史検証 日本国の誕生」の5巻、著書名は『倭国から日本へ』で「画期の天武・持統朝」という副題が付いている。2010年6月20日刊行のできたてのほやほやの本だ。いま私が連載している記事の副題「天武紀・持統紀」とピッタリ重なっているので、借りて来た。いやはやあきれた。私のようなてなぐさみに古代史をかじっている全くの素人にバカにされるような愚論・珍論を、相変わらず垂れ流している。なんという頑迷ぶりだろう。後世には笑いものになるのではないかと、他人事ながら気の毒ではある。古田さんの研究を無視しているツケである。その中からちょっと看過できないものを一つ取り上げたい。

 主要論文を「日本文化成立にみる白鳳時代名への疑問」という論考で締めくくっている。全文掲載しよう。

日本文化成立にみる白鳳時代名への疑問

 日本文化成立にみる白鳳時代名への疑問なお、私は白鳳という時代名への疑問を日頃から抱いているので、その点を最後に述べてこの事を終えたい。

 天武・持統朝を中心とする時代は白鳳時代とよばれ、その文化は白鳳文化と称される場合が多い。そもそも白鳳時代とか白鳳文化という名称は、主として美術史の分野で使われてきた。そしていわゆる飛鳥文化と天平文化との中間の時代とみなされてきた。具体的には672年の壬申の乱から710年の平城遷都までの時代をさすのが通例である。したがって、前述してきた天武・持統朝を中心とする時代は白鳳時代・白鳳文化に属することになる。

 ■白鳳時代の提唱はいつごろからか

 ところで白鳳時代・白鳳文化という名称は、いったいいつごろ・だれが提唱するようになったのであろうか。明治のなかごろ伊東忠太や高山樗牛などは、推古・天智・天平という時代区分を用いていたが、明治末年になると関野貞(ただす)は推古・寧楽(なら)前期・寧楽後期という時代区分を使った。

 このような時代区分を大きく変えたのは、明治43年(1910)の日英博覧会であった。そのおりに日本の美術品も出展されることになり、東洋美術史の研究者であった中川忠順(ただより)が中心となって日本の美術を紹介する『国宝帖』をまとめた。そこで使われたのが、飛鳥・白鳳・奈良・貞観(じょうがん)という時代区分であった。大正に入ってからは白鳳という時代名を用いる美術史の研究者が多くなり、昭和になると飛鳥・白鳳・天平の時代名が一般化した。

 ■時代内容のあいまいさ

 しかし現在においても、白鳳時代とか白鳳文化の内容は必ずしも一致しているわけ ではない。たとえば『図説日本文化史大系2飛鳥時代』(小学館)では、「美術史でいう白鳳時代とは大化改新(645年)から、元明天皇の710年(和銅3)の平城遷都までをいうのが普通であるが、さらにこの期間は、壬申の乱をさかいにして、前期と後期に分けられるようである」として、前期は「ほとんど、普通の概説書では、飛鳥時代のなかに含んで考えられている」とする。

 ところが『国史大辞典』(吉川弘文館)では、白鳳文化を「飛鳥文化と天平文化との中間に位置する時期の文化」としながらも、「白鳳文化は天平文化成熟への過渡的性格が強く、白鳳様式の代表とされてきた薬師寺美術などの所属時期をめぐる難問を避ける上で、白鳳と天平とを一括して奈良文化とする区分法のあるのも、それなりの意味がある」と述べる。

 実際に『大百科辞典』(平凡社)のように「奈良時代美術」のなかに「白鳳美術」を入れて記述しているような例もある。

 ここまではなんら問題はない。豊富な知識と文献を駆使しての考証はさすがだと感心する。古代美術史の時代区分が現在のように定着するまでにこのような経緯があったとは、もちろん初めて知った。

 私は、中学・高校時代、「白鳳文化は飛鳥文化と天平文化との中間に位置する時期の文化」と教えられた。なぜ「白鳳文化」と呼ぶのか、その理由の説明がないまま丸暗記して過ごした。今なら私(たち)にはその理由は明らかだ。661年から683年まで、23年間も続いた九州年号「白鳳」が、その時期を代表する象徴として使われたのだと。しかし、ヤマト王権一元論者は九州王朝を認めない。従って九州年号などあってはならない。しかし、古代史に関心がある者なら誰もが知っている次の文献は無視できない。

 ■「白鳳」時代名への疑問

 そもそも、「白鳳」という年号の存在を史実として認めうるのであろうか。その初見は神亀元年(724)10月1日の聖武天皇の詔に、「白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明(あきら)め難(がた)し」とみえるのがそれである(『続日本紀』)。そして天平宝字6年(762)のころに成書化した、先述の藤原仲麻呂がまとめた『家伝』(上)(『藤原鎌足伝』)に「白鳳五年」とか「同十六年」とかとみえている。

 「白鳳より以来、朱雀より以前」はヤマト王権一元主義者たちの頭痛の種だった。上田氏はこれを見事?に解決している。

 九州年号は認めないが、上田氏にとっては『日本書紀』に現れる「大化・白雉・朱鳥」は、まぎれもなくヤマト王権が設定した年号であり、大宝以前の年号はこの三つだけである。「白鳳・朱雀」をこれと関連づければよい。そこで次のような苦しまぎれの謬論に行き着く。

 この詔にいう「白鳳」が孝徳朝の白雉であり、「朱雀」が天武朝の朱雀(ママ)であって、神亀元年の10月の詔で、白雉を白鳳としたのは、白雉が中瑞、白鳳が大瑞であることにもとづく。坂本太郎博士の考察のとおり(「白鳳朱雀年代考」、『日本古代史の基礎的研究』下所収、東京大学出版会、1964年)、実際に得た亀は白亀であったが、白亀を祥瑞(しょうずい)とする例はなく、大瑞の神亀に改元したのと対応する。朱鳥を朱雀に転換しているのも同様であり、中国では朱鳥は星宿南宮の名称であり、朱鳥が朱雀ともよばれていたので、朱鳥の朱雀への転換は容易であった。その後、平安時代に入って村上・円融朝から使用され、堀河・鳥羽朝のころから流布するようになった。

 坂本太郎博士の指摘のとおり、「白鳳」・「朱雀」は確かな年号として使われた形跡は全くない。それなのに、白鳳時代という時代名あるいは白鳳文化という美術史ないし文化史の時代の文化名として使用するのは説得力に乏しい。

 ましてや推古朝を中心とする前後の百年を飛鳥時代、その文化を飛鳥文化と位置づけながら、他方では645年から672年の時期を飛鳥時代のなかに含んで叙述するという曖昧さや、663年から710年までを白鳳文化あるいは白鳳時代としながら、奈良時代あるいは天平文化に含めて概説するという矛盾も見逃すわけにはいかない。

 神亀元年(724)以前のある時期に「白雉→白鳳」・「朱鳥→朱雀」という言替えが行われた、と言っている。もちろんそんな証拠は何処にもない。論拠なしの思いつきに過ぎないけれど、もしそれが正しいとすると、『日本書紀』の白雉は5年までだから白鳳も5年までしかないことになる。『藤氏家伝』もそれにならって「白鳳」を用いた言っているようだが、『家伝』に記載されている「白鳳十六年」は一体どうなるのだ。藤原仲麻呂がうっかり間違えたとでも説明するのだろうか。こんな子供だましのようなこじつけ論で、学者たちは納得してしまうのだろうか。いくつか反例を挙げてみよう。

金石文の証拠。

 法隆寺本尊・釈迦三尊の光背銘文にある「法興」という年号は『日本書紀』にも『続日本紀』にもない。釈迦三尊の作者が勝手にでっち上げた年号だというのか。古代、年号を勝手に作るなど、由々しき犯罪だったろう。

 『日本書紀』では朱鳥は元年だけで終わる。それでは、鬼室神社(滋賀県蒲生郡)の鬼室集斯墓碑に刻まれている没年月日「朱鳥三年戊子十一月八日」は一体どうなるのだろう。墓碑を造った人がうっかり間違えたとでも説明するのだろうか。

 ここで『「神代紀」再論:考古学が指し差すところ』で書いたことを思いだした。

『記紀の神話の解読も考古学(時には地質学も)との一致によってこそ、その正当性が保証される。しかし、多くの考古学者は記紀や風土記や伝承には無頓着のようだ。古田さんは『今の考古学者や教科書は、「神話・伝承オンチ」「記紀神話オンチ」「風土記神話オンチ」』(「古代史の未来」より)と手厳しい。』

 この伝で言うと、さしずめ「古代文献学者の考古学オンチ」というところだろう。

 残念ながら今のところ九州年号をもった金石文は上の2例を含めて3例しかない。もう1例は茨城県岩井市出土(冨山家所蔵)の土器で、「大化五子年」が刻まれている。しかし、寺院・神社などの縁起書・由緒書などには九州年号がふんだんに出てくる。

縁起書・由緒書など証拠

 HP「新古代学の扉」内の記事「(二中暦による)九州年号総覧」には、縁起書・由緒書などに記録されている九州年号が全国から収集されている。そこから少し抜き出してみよう。

三重県伊勢神宮(太神宮諸雑事記)「朱雀二年壬辰同御宇六年」

大願寺人丸縁記(山口県)「朱鳥三年草壁の太子窮しまし」

『万葉集』より
日本紀に曰く朱鳥四年庚寅の秋九月
右は日本紀に曰く朱鳥六年壬辰の春
右は日本紀に曰く朱鳥七年癸巳の秋
日本紀に曰く朱鳥五年辛卯の秋九月

飛尾大明神、春鏡社(熊本県)「白鳳十八年創立」

會津正統記「雑記」「天智天皇白鳳六年丙寅」

上野国一宮御縁記「白鳳六年壬寅三月一五日

金峯山秘密伝(奈良県)「天智天皇白鳳十一年正月八日役行者始」

 以上全て、年数が上田説と矛盾する。全てうっかりミスだろうか。あるいはデタラメが記録されたと主張するのだろうか。これでは日本国中、ウッカリさんとデタラメさんだらけになってしまう。
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