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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(108)

「天武紀・持統紀」(24)


前期難波京の謎(13)
難波遷都の時代背景(4)


 前々回、東アジアの政治情勢を概観するために年表を作ったとき、①森公章『東アジアの動乱と倭国』(2006年12月1日刊)と②中村修也『白村江の真実 金春秋の策略』(・2010年3月1日刊)を参考にした。両著者ともにヤマト王権一元主義者だけれど、唐・朝鮮三国に関わる部分は『旧唐書』・『三国史記』など中国・朝鮮の史書をもとに記述するほかないのだから、その部分は信頼できると考えての利用であった。でもせっかく借りて来たのだから、今回私が取り上げてきた問題をどう料理しているのか調べてみた。結局は、これまでに度々述べてきたヤマト王権一元主義者たちの手法を再確認しただけだった。「もういいよ」と言う声もあるかもしれないが、興味を持たれる方もいると思うので、記録しておこう。

 ②は想像的な場面も盛り込んだ半分フィクションのような手法で書かれている。それはそれなりに面白く読める。また、著者は意図的に面白くしようとしているわけで、そのことを問題にするのは野暮というものだろう。この点については問題としない。史料の扱い方に問題を絞ることにする。

 さて、②は647(常色元 大化3)年のキムチュンチュの倭国来訪を取り上げて次のように述べている。

 金春秋(キムチユンチユ)にしてみると、今後、日本がどのような外交を展開するかを自分の目で確かめ、それにいかに対処するか考えなければならなかった。

 金春秋は瀬戸内海航路を通って難波に至ったであろう。途中、瀬戸内の島嶼を見て、春秋は、そのきれいな風景とともに、この内海が船の良港を多く持っていると感じたはずである。そして、朝鮮半島の周囲にも多くの島嶼が存在する。これらの島嶼を有する両国の水軍力も比較しながら、そのきれいな風景をその時だけは楽しんでいたのかもしれない。

「ここは百済(ペクチェ)の海岸に似ている。この島陰に船団を潜ませれば、ここを通る船は逃れようもなく、海賊たちの餌食となるであろう」
「いったい、この内海にはそうした船団はどれほど潜んでいるのであろうか」

 こうしたことを想像しながら、春秋は瀬戸内海を通っていったのではなかろうか。そして、難波津に到着し、すぐ近くに難波宮があることを知り、内陸部にある慶州(キョンジュ)の都との違いを比べていたであろう。

 倭国の王は、外の世界に向かって開放的な考え方をしているのだな。そうでなければ、これほど港に近い場所に宮殿を築くはずがない。普通は、海からの襲撃を恐れて、もうすこし内陸部に宮殿を設けるものだが…。しかし、考えてみれば、これほどの長い距離をもった内海を通らなければ、この難波宮に到達できないのだ。ここに来るまでに、幾か所にも防衛線は張れる。むしろ、ここまで到達されれば、少しくらい内陸部に宮殿を設けても同じことかもしれない。それならば、むしろ内海に面した場所に宮殿を設けた方が、いろいろと便利なのかもしれない。倭国の王は、なかなか開明的な名君なのかもしれない・・・。

 このように春秋が考えていたかもしれない。

 『日本書紀』を実際に読むことのない読者がこのくだりを読んだら、きっと感心することだろう。しかし私(たち)には史料利用のご都合主義が目に付いてしまう。ここに見られるのは恣意的な原文改定だ。

 瀬戸内海の防御線のくだりは、恐らく、キムチュンチュ来国時より4年後の651(常色5 白雉2)年是歳条の「難波津より、筑紫海の裏(うち)に至るまでに、相接ぎて艫舳(ふね)を浮け盈(み)てて、新羅を徴召(め)して、其の罪を問はば、易く得べし」を念頭において描いている。

 もっともひどいと思うのはキムチュンチュの行き先を難波宮としていることだ。キムチュンチュは九州王朝へのお客さんなのだが、ヤマト王権一元主義者には九州王朝は存在しない。また、ヤマト王権一元主義者にとっては、孝徳の宮居は難波長柄豊碕宮=前期難波宮だ。『日本書紀』にはキムチュンチュが難波に行ったなどという記録はないが、どうしても難波に連れてこなければならない。しかし、私(たち)の34年遡上という解読が正しければ、「難波に都造らむと欲(おも)」ったのは649(大化5)年である。まだ難波宮の影さえない。この「天武紀」からの復元が間違っていたとしても、652(白雉3)年が完成年であることは「孝徳紀」に記録されている。キムチュンチュの倭国来訪647(常色元 大化3)年の5年後である。他の所では盛んに『日本書紀』の記事をそのまま利用しているのに、ここでは『日本書紀』の示す年次を勝手に変えている。

 もうひとつ、②は649年に新羅が唐の衣服制度を導入したことをかなり詳しく解説している。

 『新唐書』二二〇「列伝」第一四五東夷新羅の条には、さらに「章服(しようふく)を改めるに中国の制に従う。内より珍しき服を出して賜(たま)う」という文言がある。ようするに、春秋は、新羅の服制を唐の制度に変えたというのである。

 服飾の制度といっても、「珍服」が下賜されているところを見ると、儀式などの場における服飾なのかもしれない。「新羅本紀」の該当箇所の表現は、「改其章服。以従中華制」となっている。「章服」とは、一般には「紋、又は記号などのあやのある著物」(『大漢和辞典』)の意味であるが、ここでは貞観四年八月に太宗が定めた章服の制度を指すのであろう。この時、太宗は、三品以上の官人は紫色、五品以上は緋(ひ)色、六品と七品は緑色、八品と九品は青色の衣服と定め、婦人は夫の色に従うと決めている。このことからも公式な場所における衣服の制度を、この太宗が制定した章服の制度に変えたということであろう。

 これは、たんに唐の衣服制度ということではなく、一八年前に太宗が定めた衣服制度に倣おうということである。太宗の機嫌がよくなり、春秋たちの餞別の会を盛大に開くことになるのは火を見るより明らかだった。

 春秋としてみれば、これまで対百済戦のための救援軍を何度も要請してきたが、なんらはかばかしい返事をもらっていない。言葉だけで唐を慕っているといっても効果のないことははっきりしていた。それならば、いかに新羅が唐を手本としており、頼っているかということを視覚的に示す必要がある。むずかしい制度などはきちんと導入しても、すぐに広まるものでもないし、唐もそれを実感できない。ところが、衣服ならば見た瞬間に理解される。唐に与える印象も明確になる。

 中国や朝鮮の史書文献を駆使して、この解説はさすがである。とても参考になる。『日本書紀』を扱うときにも、どうしてこのようにきめ細かい分析をしないのだろうか。

 しかし、ここにもヤマト一元主義者たちのかんばしからぬもう一つの手法が見え隠れする。「都合の悪いものはなかったことにしよう」である。

 『日本書紀』を読んでいる人なら、新羅が唐の衣服制度を導入したことを取り上げたのなら、とうぜん651(常色5 白雉2)年是歳条の「新羅の貢調使知萬沙等、唐の國の服を着て、筑紫に泊まれり。朝庭(みかど)、恣(ほしきままに)に俗(しわざ)移せることを悪(にく)みて、詞嘖(せ)めて追ひ還したまふ」が取り上げられるものと思うだろう。私もそう思って、その条をどのように読解するのか楽しみにしたが、中村氏はそれを全く無視して、次の話に飛んでしまう。「孝徳紀」の中だけではなんとも解釈のしようのない記事であり、無視するのが無難かも知れない。

 ①は学術論文風に手堅い手法で書かれている。651(常色5 白雉2)年是歳条を取り上げていた。次のようである。

 しかしながら、実際には百済は自力を恃み、倭国に遣使せず、新羅の方が頻繁な遣使を行っており、のちに太宗武烈王として即位する金春秋も647年には一時的に「質」として来朝するなど、倭国との関係維持を図るという構図になった。百済は確実なところでは六五三年に倭国を通交しており、六五四年には倭国の遣唐使帰国に百済・新羅の送使が同行する(白雉五年七月丁西条)など、両国の倭国に対する思惑が看取される。こうした状況も倭国の均衡外交維持を可能にした要因であった。

 しかし、六五一年には、来朝した新羅侯が唐国服を着用していたので、「恣に俗移せること」(勝手に中国風の文化を受容して服装を改めたこと)を問責して追い返す事件があった(白雉二年是歳条)。

(中略)

 その対応方法として・・・武力誇示による脅迫という方式が提案され、新たな方策を示すことができていない点には注意したい。しかも、『日本書紀』によると、その提案に基づいた行動の実施は不明であり、むしろ均衡外交維持のために積極的な反応をとらなかったのではないかと見なされる。後述のように、この時期新羅はすでに唐の文化や制度を全面的に受け入れ、唐風化政策に転じており、それ故の唐国服着用であった。とすると、倭国の外交方策はもはや東アジア情勢の変動に充分に対応できないのではないかという懸念を抱かざるを得ない。

 「孝徳紀」の中だけで解釈すれば、651(常色5 白雉2)年是歳条を引き継ぐ記事が皆無なのだから、「積極的な反応をとらなかったのではないか」と推測するほかないだろう。ちなみに、①はキムチュンチュの倭国来訪や難波京造営についてはほとんど触れていない。
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