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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(107)

「天武紀・持統紀」(23)


前期難波京の謎(12)
難波遷都の時代背景(3)


 651年是歳条の問題点(2)の解答は、ここまで通して読まれた方には多言を要しないだろう。この記事が宙ぶらりんなのは、事の顛末を記録した部分を「天武紀」に切り貼りしたためだ。そのために「孝徳紀」・「天武紀」双方の記事が欠陥だらけになってしまった。煩をいとわずこれまでに取り上げた全記事を再録して、復元してみよう。(赤字は「孝徳紀」の記事。例によって、復元した日付は「天武紀」の記事の日付と同じ干支の直近の日付を選んだ。)

 唐の三次にわたる高句麗遠征。それをめぐって百済と新羅の駆け引きと軍事衝突。朝鮮半島のこの緊迫した状況に対処して、倭国も軍備の増強・整備を始めた。

650(常色4 白雉元)年4月18日←684(天武13)閏4月5日
詔して曰はく、「來年(こむとし)の九月に、必ず閲(けみ)せむ。因りて百寮(つかさつかさ)の進止(ふるまひ)・威儀(よそほひ)を教えよ」とのたまふ。又詔して曰はく、「凡そ政要(まつりごとのぬみ)は軍事(いくさのこと)なり。て當身(みみ)の装束(よそひ)の物、務めて具(つぶさ)に儲(そな)へ足せ。其れ馬有らむ者をば騎士(うまのりびと)とせよ。馬無からむ者をば歩卒(かちびと)とせよ。並に當(まさ)に試練(ととの)へて、聚(あつま)り合(つど)ふに障(さは)ること勿(まな)。若(も)し詔の旨に杵(たが)ひて、馬・兵に不便(もやもやもあらぬこと)有り、亦装束闕(か)くること有らば、親王(みこたち)より以下、諸臣に逮(いたる)るまでに、並に罰(かむが)へしむ。大山位より以下は、罰ふべきは罰へ、杖(う)つべきは杖(う)たむ。其れ務め習ひて能く業(なり)を得む者をば、若し死罪と雖(いふと)も、二等(ふたしな)を減らさむ。唯し己が才(かど)に恃(よ)りて、故(ことさら)に犯さむ者のみは、赦す例(かぎり)に在らず」とのたまふ。(以下略)
是の月に、新羅、使を遣して貢調る。〈或本に云はく、是の天皇の世に、高麗・百濟・新羅、三つ國、年毎に、使を遣して貢獻るといふ。〉

651(常色5 白雉2)年6月
是の月に、百済・新羅、使を遣して貢調り物獻る。
10月25 日←685(天武14)9月11日
宮處王・廣瀬王・難波王・竹田王・彌努王を京(みさと)及び畿内(うちつくに)に遣して、各人夫(おほみたから)の兵(つはもの)を校(かむが)へしめたまふ。

 この間、新羅から度々の遣使があったが、ついにあのデモンストレーションのような遣使がやってくる。

651(常色5 白雉2)年
是の歳に、新羅の貢調使知萬沙等、唐の國の服を着て、筑紫に泊まれり。朝庭(みかど)、恣(ほしきままに)に俗(しわざ)移せることを悪(にく)みて、詞嘖(せ)めて追ひ還したまふ。時に、巨勢大臣、奏請(まう)して曰はく、「方(まさ)に今新羅を伐ちたまはずは、於後に必ず當(まさ)に悔有らむ。其の伐たむ状(かたち)は、擧力(なや)むべからず。難波津より、筑紫海の裏(うち)に至るまでに、相接ぎて艫舳(ふね)を浮け盈(み)てて、新羅を徴召(め)して、其の罪を問はば、易く得べし」とまうす。

 次の一連の記事は、巨勢大臣の提言が実行されたことを示している。武器が総動員され戦場に近い周芳・筑紫に送られた。新羅への示威行動として、対馬にも軍船(防人)が増派されたことだろう。

10月15日←685(天武14)11月2日
儲用(まうけ)の鐵一萬斤を、周芳の總令(すぶるをさ)の所(もと)に送(つかは)す。是の日、筑紫大宰、儲用の物、絁一百匹・絲一百斤・布三百端・庸布四百常・鐵一萬斤・箭竹二千連を請(まう)す。筑紫に送(つかは)し下す。
10月17日←11月4日
四方(よも)の國に詔して曰はく、「大角・小角、鼓吹・幡旗、及び弩・拠の類は、私の家に存くべからず。咸(ことごとく)に郡家(こほりのみやけ)に収めよ」とのたまふ。

 倭国からの攻撃を恐れ、新羅は倭国に外交官を派遣して政治的解決をはかる。

11月10日←11月27日
新羅、波珍飡金智祥・大阿飡金健勲を遣して政を請す。仍りて調進る。

 倭国は新羅からのなにがしかの譲歩を得たと思われる。その結果が翌年の朝貢である。

 次の倭国軍船が海難事故は、軍船撤収時に起こったものだろうか。

11月16日←12月4日
筑紫に遣せる防人等、海中(わたなか)に飄蕩(ただよ)ひて、皆衣裳(きもの)を失へり。則ち防人の衣服の爲に、布四百五十八端(むら)を以て、筑紫に給(おく)り下す。

 翌年、改めて新羅は過大な貢物を携えて朝貢をする。倭国もこれを手厚く歓待した。

652(白雉元 白雉3)年4月
是の月に、・・・新羅・百済、使を遣して貢調り物獻る。
5月26日←686(朱鳥元)年4月13日
新羅の客等(まらうとら)に饗へたまはむが為に、川原寺の伎楽(くれがく)を筑紫に運べり。仍りて、皇后宮(きさきのみや)の私稲五千束を以て、川原寺に納む。
6月20日←4月19日
新羅の進(たてまつ)る調(みつぎ)、筑紫より貢上(たてまつ)る。細馬一疋・騾一頭・犬二狗・鏤金器、及び金・銀・霞錦・綾羅・虎豹皮、及び薬物の類、并て百餘種。亦智祥・健勲等が別に献る物、金・銀・霞錦・綾羅・金器・屏風・鞍皮・絹布・薬物の類、各六十餘種。別に皇后・皇太子・及び諸の親王等に献る物、各数有り。

 以上、「天武紀」中ではまったく意味不明の記事が、「孝徳紀」の中にピッタリと収まる。これは同時に難波遷都の理由をも語っている。東アジアの緊迫した政治情勢の中、筑紫近辺での対唐・新羅戦は十分予想できる事態だった。それに備えて九州王朝は、軍備増強とともに、その拠点を筑紫から難波に遷すことが絶対に必要な課題だったのだ。
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