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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(106)

「天武紀・持統紀」(22)


前期難波京の謎(11)
難波遷都の時代背景(2)


 684(天武13)年~686(朱鳥元)年を34年遡上すると650(常色4 白雉元~652(白雉元 白雉3)年である。味経宮と大郡宮の記事が現れる時期と一致する。その時期に新羅との外交記事があるだろうか。

 「孝徳紀」には新羅との外交記事が16件ある。そのうち倭からの遣使が2件(1件は学問僧)、新羅からの「為質」記事が2件で、あとは全て新羅からの貢物記事である。上記の期間では貢物記事が4件ある。

650(常色4 白雉元)年4月
是の月に、新羅、使を遣して貢調る。〈或本に云はく、是の天皇の世に、高麗・百濟・新羅、三つ國、年毎に、使を遣して貢獻るといふ。〉

651(常色5 白雉2)年6月
是の月に、百済・新羅、使を遣して貢調り物獻る。

651(常色5 白雉2)年
是の歳に、新羅の貢調使知萬沙等、唐の國の服を着て、筑紫に泊まれり。朝庭(みかど)、恣(ほしきままに)に俗(しわざ)移せることを悪(にく)みて、詞嘖(せ)めて追ひ還したまふ。時に、巨勢大臣、奏請(まう)して曰はく、「方(まさ)に今新羅を伐ちたまはずは、於後に必ず當(まさ)に悔有らむ。其の伐たむ状(かたち)は、擧力(なや)むべからず。難波津より、筑紫海の裏(うち)に至るまでに、相接ぎて艫舳(ふね)を浮け盈(み)てて、新羅を徴召(め)して、其の罪を問はば、易く得べし」とまうす。

652(白雉元 白雉3)年4月
是の月に、・・・新羅・百済、使を遣して貢調り物獻る。

 ほかのステレオタイプ単純な記事に比して、651年是歳条は異質な記事だ。この記事について、次の二点を検討してみよう。

(1)
 遣使が唐の服を着用していることで、どうして「悪みて、詞嘖めて追ひ還」さなければならないのか。
(2)
 また、この記事の顛末が全くなく、翌年には全く何もなかったように新羅からの遣使がやって来ている。この間に何もなかったとは不可解だ。

 (1)の解答はその頃の東アジアの政治情勢を概観すれば自ずと明らかである。唐建国の頃からの年表を作ってみよう。(本来なら第一次史料の『旧唐書』や『三国史記』を直接調べるべきなのだろうが、その余裕がない。森公章『東アジアの動乱と倭国』・中村修也『白村江の真実 金春秋の策略』を参考に作成した。)

(倭国は多利思北孤以来隋・唐とは離反していた。『日本書紀』の唐外交記事は、倭国ではなくヤマト王権との直接外交と思われる。ここでは除外しておく。)
616
 百済、新羅の母山城を攻撃。
 新羅、倭に仏像を献上。
618
 新羅、椵岑城を回復。
   (611年に奪取されていた。)
 李淵、隋の煬帝を倒し唐を建国。
621
 新羅真平王、唐に朝貢。
 新羅、倭に朝貢。
623
 百済、新羅の勒弩県を襲撃。
624
 百済、新羅の6城を奪取。
625
 新羅真平王、唐に朝貢。
626
 百済、新羅の主在城を攻撃、城主殺害。
627
 百済、新羅の西部国境を攻撃。
      男女300人を捕虜とする。
628
 百済、新羅の椵岑城を包囲するも敗退。
629
 新羅真平王、金龍春・舒玄・金庚信に
      高句麗の娘腎城を攻撃させる。
 新羅、唐に朝貢。
630
 高句麗・百済、倭に遣使。
631
 新羅、唐に朝貢。
 百済王子豊璋、「質」として倭国に入国。632
 新羅の善徳王が即位。
 新羅、唐に朝貢。
633
 百済、新羅の西谷城を奪取。
 高表仁、帰国。
635
 唐が善徳王を新羅王に冊封。
 百済、倭に朝貢。
636
 新羅、独山城で百済軍を撃退。
638
 高句麗、新羅の七重城を攻撃するも敗退。 
 百済・新羅、倭に朝貢。
640
 善徳王、王族の若者を学生として
           唐に派遣要請。
641
 百済、義慈王が即位。
642
 百済、新羅の大耶城など40余城を攻撃。
 大耶城陥落、品釈ら惨死。
 高句麗で淵蓋蘇文のクーデター。
 新羅の金春秋、高句麗に入国。
     百済討伐軍を要請するが失敗。
643
 百済・高句麗が同盟。
 新羅の党項城を攻略。
 唐太宗、新羅使者に三策を授ける。
644
 淵蓋蘇文、新羅を攻撃。
 唐、第一次高句麗遠征。
 倭国、高向玄理を新羅に派遣。

 新羅と百済が存亡をかけて相互に侵略し合い、激しい攻防を繰り返していた。そして、双方とも唐・高句麗・倭との同盟あるいは助力を得ようとし、外交戦も熾烈を極めていたことが分かる。しかし、クーデターで実質的な権力者となったヨンゲソムン(淵蓋蘇文)が反唐政策を明確にし、高句麗・百済が同盟したときから、新羅は急速に唐に接近し始めた。倭は早くの時期から百済と親和的であったから、ここで〈倭・百済・高句麗〉対〈唐・新羅〉という白村江の戦いにつながる構図の原型ができてきた。642年が東アジアの政治情勢が新展開していく結節点であった。
645
 百済、新羅の七城を攻略。
 新羅、金庚信を百済方面に派兵。
647
 新羅で毘曇の乱。善徳王没。
 新羅の金春秋らが真徳女王を擁立、
             実権を握る。
 百済、茂山城を攻めるが庚信軍に敗退。
 金春秋、高向玄理とともに倭国へ入国
 唐、第二次高句麗遠征。
648
 倭国、三韓に学問僧を派遣。
 百済の義直、新羅の腰車城等を奪い取る。
 百済の義直、玉門谷で新羅の庚信軍に敗退。
 新羅の金春秋、訪唐し救援要請に成功。
 唐、第三次高句麗遠征。
649
 新羅、唐の衣服制度を導入。
 唐太宗死去、高宗即位。
 倭、三輪君色央・掃部連角麻呂を新羅
に派遣。
 百済、新羅の石吐城など七城を奪取。
 新羅、金多遂らを日本に派遣。
650
 新羅、金法敏を唐に派遣。
 新羅、五言太平頌を高宗に贈る。
 新羅、新羅年号を廃止し唐年号を導入。
651
 新羅、金仁問を唐に派遣。

 キムチュンチュ(金春秋 後の武烈王)の倭国入国を『日本書紀』は次のように記録している。

647(常色元 大化3)年
是の年、・・・新羅、上臣大阿飡金春秋等を遣して、博士小徳高向黒麻呂・小山中中臣連押熊を送りて、來りて孔雀一隻。鸚鵡一隻を献る。仍りて春秋を以て質(むかはり)となす。春秋は、姿顔(かほ)美(よ)くして善(この)みて談咲(ほたきこと)す。


 「質」として来たと書いているが、これは箔付けのための誇大記録だと思われる。チュンチュの来国は高句麗や唐への訪問と同様、同盟あるいは援助要請のための外交訪問だ。帰国の記録がないが、倭は一貫して百済と親和的だったのだから、金春秋は空しく帰国したことだろう。この後、新羅は唐の衣服制度を導入したり、唐の年号を使用したりするほど完全に唐の冊封国の立場をはっきりと打ち出した。

 ここで「孝徳紀」の651(常色5 白雉2)年是年条につながる。このときの遣使の唐服はただ単に「唐の服を着た」ということではなく、「唐との同盟」を示唆し、倭が百済と離反することを促す意味をもっていた。倭の天子が不快感をもったのは当然であった。そこで、新羅の唐への急傾斜に歯止めをかけるべく、巨勢大臣は大規模な威圧行動を提言したのだった。

(付記)
 韓国の歴史ドラマが面白い。昨年から今年にかけて見た「淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)」と、いま見ている「善徳(ソンドク)女王」が丁度いま取り上げている時代のお話で、いろいろと役に立ちます。「善徳女王」はいま642年の「大耶城陥落」あたりのお話です。「ヨンゲソムン」とか「キムチュンチュ」とかの名前の韓国語読みはドラマでの読みに従いました。
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